金剛山の昔話
朝鮮王朝末期〜日本植民地時代の金剛山



金剛山温井里にあった日本式旅館・嶺陽館
嶺陽館は金剛山一の歴史を誇った日本式旅館で、温泉内湯を備え、若山牧水氏など著名人も宿泊した。
写真の頃(大正末期)は二階建てであるが、昭和の初めには三階建ての立派な建物に増築された。
(写真・朝鮮地質要報第七巻より)


 これまでも繰り返し紹介しているように、金剛山は朝鮮半島、いや東アジア有数の景勝地です。のりまきは、本当の意味での金剛山の歴史といえば、日本植民地時代よりももっと古い時代から、朝鮮半島の歴史の流れの中で“金剛山”とはどのような場所であったのかを捉えていく必要があると思っています。これは当ホームページ『金剛一万二千峰』の課題の一つです。

 近代の荒波が東洋に押し寄せてきた19世紀末以降、日本人やロシア人などが朝鮮半島に盛んに進出し、また朝鮮半島を旅した外国人の旅行記も残っているので、朝鮮王朝末期の19世紀末からの金剛山とその周辺の歴史は、不充分ながら辿っていくことができます。
 19世紀末の金剛山は、まさに『秘境』と呼ぶに相応しい場所だったようです。金剛山に行くには険しい峠を越えねばならず、山中には虎が出没し、宿泊場所は寺院の宿坊しかありませんでした。しかし1910年の韓国併合の後、日本領となった金剛山はホテル・旅館の建設や鉄道・道路網の整備など、徐々に観光整備が開始され、1920年代後半からは金剛山地区の観光開発が急激に進みました。  

 観光施設の整備が進んだ1930年代後半から日本が第二次世界大戦に参戦する1941年頃までは金剛山観光の全盛期を迎えました。ソウルからは朝鮮戦争の激戦地として知られ、現在、軍事境界線そばの非武装地帯(韓国側)にあるため無人の地となってしまった鉄原(チョルオン)から《注1》、内金剛まで金剛山電気鉄道という鉄道に乗って、内金剛までたやすく行くことが出来ました。金剛山電気鉄道の終点、内金剛から約2キロ入った場所に長安寺という集落があって、そこには内金剛観光の基点としてホテル・旅館などが建ち並んでいました。
 また元山の南にある町、安辺から日本海(東海)沿いに南下する“東海北部線”も外金剛・海金剛観光に使われていて、外金剛側の金剛山ふもとの町、温井里は温泉のある金剛山観光基地としてやはりホテル・旅館・みやげ物店などが立ち並び、相当賑わっていました。
 また山中にも山小屋・休憩所が建てられ、登山道の整備も進んで、金剛山は本格的な観光地として賑わいを見せていたのです。

 大阪・鶴橋に戦前の朝鮮半島の資料などが良く手に入る古本屋があります。その古本屋のご主人の話では、『金剛山と慶州の戦前の資料は良く出てくる』。とのことです。どうやら金剛山と慶州は戦前、朝鮮半島の二大観光地であったらしく、その当時、多くの観光客が買った絵はがきや写真集などのお土産、更には観光パンフレットやガイドブックなどが、今なお古本界に流通しているようなのです。慶州は今現在も韓国観光の最重要観光スポットの一つです。戦前の金剛山は慶州に負けず劣らず観光客に人気があった場所だったのです。


更に詳しく、以下の項目に従って19世紀末〜日本植民地下の金剛山観光について説明していきます。


1:近代の始まりと金剛山
 まだ観光開発の手がほとんど入っていなかった、19世紀後半から1910年代半ば頃までの金剛山について。

2:金剛山観光の開始と発展
 金剛山の観光開発がはじまり、観光客が徐々に増え出した金剛山。その金剛山観光発展の流れを追って見ました。

3:日本植民地時代での最盛期を迎えた金剛山観光
 1930年代〜1940年ごろの、日本植民地時代の中の最盛期を迎えた金剛山地区と金剛山観光の詳細です。

4:19世紀末〜日本植民地時代の温井里について
 19世紀末から日本植民地時代の状況が最もよくわかる温井里についてまとめてみました。

5:19世紀末〜日本植民地時代の長安寺について
 金剛山電気鉄道の開通によって金剛山観光の表玄関となった長安寺について、19世紀末から1945年までのできごとを簡単にまとめてみました。

6:19世紀末〜日本植民地時代の長箭について
 ロシアの捕鯨基地として金剛山地区で最も早くから“近代化”の波に洗われた長箭。その長箭を通して見える、19世紀末以降の朝鮮半島・日本・ロシアの関係などについて、簡単にまとめてみました。

7:金剛山協会について
 1932年に設立された、金剛山観光開発や宣伝を行っていた半官半民組織、財団法人金剛山協会についての資料です。

8:金剛山電気鉄道について
 日本植民地下、多くの金剛山観光客が利用した金剛山電気鉄道についてまとめてみました。

9:東海北部線について
 かつて外金剛側を走っていた鉄道、東海北部線。現在、南北を繋ぐ鉄道として復活工事が進められています。

10:日本植民地時代の金剛山ツアー
 日本植民地時代、金剛山への旅行が実際どのように行なわれていたのか……金剛山ツアーパンフレットなどの資料をもとに再現してみます。

11:金剛山と鉱業
 金剛山にあったタングステン・モリブデン鉱山についてのお話など、豊かな鉱物資源に恵まれた金剛山の知られざる一面に迫ります。

12:金剛山を訪ねた著名人
 朝鮮半島一の観光地であった金剛山には、当時、多くの日本の著名人が足跡を残しています。著名人の書き記した旅行記を読むと、その人となりまでも伺えて興味深いものがあります。

13:金剛山探勝コース略図と鳥瞰図
1935〜40年頃の金剛山探勝コース略図と金剛山鳥瞰図、そして金剛山パンフレットを紹介します。

14:金剛山のスタンプ集とお土産
今ではあまり注目されることもない観光地のスタンプですが、戦前の金剛山スタンプを見ると、旅情がかきたてられるのを感じます。また、旅といえばやっぱりお土産!戦前の金剛山土産について紹介します。

15:懐かしの萬龍閣
日本植民地時代、温井里にあった日本旅館「萬龍閣」の関係者から生のお話を聞くことができました。本物の「金剛山の昔話」です!


参考資料:金剛山略年表(19世紀末〜1960年代頃まで)
19世紀末からの金剛山関連の出来事を、簡単に年表にまとめてみました。


《注》鉄原とは、江原道西部にある小さな町です。10世紀初頭には、高麗王朝の前身である弓裔(クンイエ)の王国が、首都を置いていたこともある由緒のある町です。
日本植民地下、ソウルから元山を結ぶ京元線の駅があり、また金剛山電気鉄道の始発駅として金剛山への入り口としての役目も果たしていました。しかしこの町の名は、1950〜53年の間続いた朝鮮戦争の後半、最大の激戦地となったことで有名になりました。鉄原ー金化ー平康の三つの町を結ぶ三角地帯は、激戦の中で多くの犠牲者が出たことから『鉄の三角地帯』と呼ばれました。
現在、旧鉄原の町があった場所は韓国領内にありますが、軍事境界線そばなので鉄原という町そのものは少し南側に移っています。また、北朝鮮側にも鉄原という町がありますが、これは元来の鉄原からかなり離れた場所にあります。


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