19世紀末〜日本植民地時代の
長安寺について




朝鮮金剛山大観(今川宇一郎・1914年刊)より、長安寺

内金剛観光の拠点であり、金剛山電気鉄道開通後は
金剛山観光の表玄関ともなった長安寺。
その昔は長安寺や表訓寺などの寺刹があるのみでしたが、
日本植民地時代、金剛山観光開発が進む中で長安寺は
旅館・料理屋・土産物店が立ち並ぶようになりました。


 まず最初に、長安寺というのは外金剛の玄関口である温井里と違って正式な地名ではなかったようです。では長安寺とは何の名前かというと、長安寺にある金剛山四大寺のひとつ、長安寺の名前そのものなのです。日本植民地時代、長安寺と呼ばれ金剛山の玄関口(特に内金剛)となった場所は、もともとは長安寺があるばかりで特に民家や集落があったわけではなかったようです。ちなみに長安寺の本来的な地名は、長淵里といいます。
 しかし長安寺は日本植民地時代、金剛山の表玄関として栄えていき、各種観光案内などにも『長安寺』と表記され、『長安寺村』などとも呼ばれていたので、ここでも長安寺という名前で話を進めていきたいと思います。

 朝鮮王朝時代、金剛山に向かう人々の多くは、断髪嶺という険しい峠を越えて内金剛側から金剛山に入ったようです。内金剛側から金剛山に入ると、まず99パーセント間違いなく最初に長安寺に行くことになります。とにかく長安寺は内金剛の入り口にあって、内金剛の奥の方にある景勝地に行くためには自然と長安寺の前を通るような地形になっています。
 19世紀末に金剛山を訪れたイサベラ・バード女史も当然のように長安寺から金剛山に足を踏み入れました。金剛山観光開発が進むにつれて、長安寺周辺に観光施設が出来るのは自然の成り行きだったと言えると思います。

 しかし、長安寺の観光開発は外金剛の温井里に較べてかなり遅れました。これは温井里は海路を使って比較的たやすく入ることが出来たのに対して、朝鮮半島の幹線鉄道・道路から長安寺まで向かう道のりの厳しさは、基本的に金剛山電気鉄道の開通まで解消されることがなく、金剛山観光客が長安寺まで辿り着くのが困難であったことが原因です。
 1924年6月に京元線の平康から内金剛へ向かった大平晟氏は、『山岳第十九年第二号』に、『「こんな道路の運転手を勤めては、寿命が縮まる」とは、予を乗せた運転手君の正直な告白であった。現今におけるこの道路が、いかに悪路であるというよりも、むしろ危険であることを感ずるのであった』。と書いています。大平晟氏とほぼ同じ頃に金剛山を訪れた田山花袋氏の旅行記『満鮮の行楽』にも、平康から内金剛への困難な道のりについて書かれています。
 また長安寺ホテルの従業員は1920年前後の長安寺の様子を『…全く、寺内のホテル時代は女の顔もめったに拝めなんだのです。たまに見るのは酒を売りにくる鮮女くらいのものでした。平康とこことの中間で大水でも出た日には、命の綱を切られるようなもの……いやはや、姥捨山という名はよく聞いていますが、ボーイ捨山というのが現代の世の中にあろうということは、ご存知なかったでありましょう。水が治まるまで、世の中から全てを遠ざかって、ようやく食うて生きているというだけのこと……全くボーイ捨山、コック捨川といいたいのは、あながちしゃればかりではなかったですよ……ええ、本当に……』と話していたありさまですので、それ以前、1910年代前半までの長安寺まで辿り着く道のりの困難さはいうまでもありませんでした。例えば1915年発行の金剛山遊覧の栞には、京元線の駅がある平康から長安寺まで、人力車で途中2泊しながら辿り着く方法を紹介しています。とにかく金剛山電気鉄道の開通まで、長安寺に辿り着くまでが一苦労だったのです。

 長安寺からかなり下った場所に、現在は北朝鮮の金剛郡の中心となっている、末輝里という少し大きめの集落がありました。1915年に日本の韓国併合5周年を記念して『始政5年記念朝鮮物産共進会』という催しが開かれますが、共進会事業の一環として末輝里に金剛山の案内所を設け、食料品・絵はがき等の販売を行うことになりました。更に末輝里に金剛山観光客が宿泊するための旅館を開設し、京元線の平康駅から長安寺までの道路も整備したのです。また白華庵という表訓寺の末寺に炊事場・浴場・便所を新設して、日本食を出す設備を設けることも行ないました(注1)。これが内金剛側の観光開発の始まりといえます。
 ところで、末輝里から長安寺までは約10キロもの距離があります。末輝里は金剛山の入り口としては距離がありすぎたようで、その後金剛山の玄関口としては、大きく栄えていくことはありませんでした。
 1917年には作家、菊池幽芳氏が金剛山を訪れます、末輝里には日本旅館があったのですが休憩のみでそこに宿泊することはなく、長安寺の宿坊に宿泊しており、やはり末輝里は金剛山観光には遠くて不便であったと思われます。

 1918年7月、当時朝鮮半島の鉄道全体の経営を行なっていた南満州鉄道は、長安寺の建物のひとつ、極楽殿を改修してホテルとしました。このとき初めて長安寺と言われる場所に専門の宿泊施設が出来たことになります。寺院を改造したホテルとはいえ、食卓・寝具等洋式で統一されていて、食事も本格的な洋食が出てきたということです。ただ、木造の建物の中に洋風浴室があるなど、やはりかなり風変わりなホテルでした。同年、京元線の平康駅から長安寺までの定期自動車便の運行も開始されたようです。
 ちなみに1923年に長安寺ホテルに宿泊した大阪朝日新聞の撮影旅行隊は、長安寺そばで捕獲された熊のフライ(多分カツレツのようなものだと思われる)が、夕食の食卓にのぼったといいます。また1923年当時、長安寺ホテルが所有するバンガロー(貸し別荘)がオープンしていて、大阪朝日新聞の撮影旅行隊の一部はバンガローにも宿泊したようです(注2)。
 1922年、南満州鉄道が製作した金剛山探勝案内には、『長安寺には長安寺ホテル以外には朝鮮式旅館が2〜3軒あるばかりで日本旅館はない』と書かれています。しかし1924年に金剛山を登山した大平晟氏は、内金剛旅館という名前の日本旅館に泊っており、1922〜24年の間に内金剛初の日本旅館『内金剛旅館』が出来たことになります。1923年の大阪朝日新聞の撮影旅行隊の記録にも内金剛旅館のことは見えないので、内金剛旅館は1923〜24年の間に出来た可能性が高いと思われます。同じ頃、外金剛の温井里には3軒の日本旅館が営業を開始しており、長安寺の観光開発が温井里に較べて遅れていたことは明らかです。


萬二千峰朝鮮金剛山(満鉄京城鉄道局蔵版・1924年刊)より、長安寺唯一の日本旅館。
当時営業開始間もない内金剛旅館のことと思われる。

 大平晟氏によれば、内金剛旅館は5部屋しかない小ぢんまりとした旅館で、しかも新築中の長安寺ホテルの建設作業員などが泊っていて満室状態だったようですが、宿泊した大平氏はかなり良い待遇を受け、満足していたようです。長安寺の建物を借りて経営をしていた長安寺ホテルも、大平氏の旅した1924年6月にはホテル専用の建物がほぼ完成して営業も開始していたようで、約6年間続いていた長安寺の建物を借りての営業に終止符を打ったようです。この頃の長安寺には朝鮮人の経営する旅館や蕎麦屋や酒屋などが建ち始めていたことが、大阪朝日新聞の撮影旅行隊や大平晟氏の記録などからわかります。大正末期、ようやく長安寺にも観光開発の波が押し寄せ始めたのです。

 そのような中、金剛山電気鉄道の建設が始まります。日本各地や朝鮮、台湾などで鉄道建設事業を行なってきた実業家、久米民之助氏が1918年に金剛山を視察して、その観光資源としての有望性に着目します。更に久米氏は金剛山近郊で水力発電を行い、その電力で金剛山のふもとまで電車を走らせて観光客を呼ぶという当時としては斬新な計画を立てます。
 富豪としても知られていた久米氏は、当時の日本財界や鉄道関係の有力者などの賛同を仰いだ上で、1919年12月に金剛山電気鉄道株式会社を設立します。1921年には電車を走らせるための発電所と鉄道本体の建設も始まりました。途中第一次世界大戦後の恐慌と関東大震災の影響を受け、相当な困難にぶちあたりながらも、金剛山電気鉄道は、1924年8月1日にはまず鉄原から金化までの営業開始に漕ぎつけます。
 1929年に一家で長安寺ホテルのバンガローを利用した泉靖一氏によれば、観光開発の波が押し寄せ始めたとはいっても、長安寺はまだまだ店というものがほとんどない状況で、金剛山の山の中で出会ったり、長安寺ホテルやバンガローを利用しているのも多くは経済的にも休暇の面でも余裕のある欧米人であったといいます。そして金剛山を旅する朝鮮人や日本人は、ほとんど全部団体客であったそうです。

 その後金剛山電気鉄道は内金剛までの延伸工事を着実に進めていきます。1930年には末輝里まで延伸がされ、1931年7月1日には長安寺近く(約2キロ)の内金剛駅まで開通します。交通が便利となった長安寺は、泉靖一氏によれば“めだってひらけた”とのことで、金剛山観光客もたくさんやってくるようになって栄えるようになります。
(金剛山電気鉄道については、『金剛山電気鉄道について』も参考にしてみて下さい。)

 金剛山電気鉄道がまだ開業していなかった10年ほど前(1921年頃)には、長安寺には観光施設がほとんどなかったのに、金剛山電気鉄道全通の直後、1931年7月に金剛山を旅した菊池謙譲氏は長安寺のことを『旅館あり、料亭あり、店舗あり、写真館あり…』と記しており、10年間の間に急速に発展したことがわかります。泉氏の記述を参考にすると、1930・31年の間に急速に開けたのではないかと思われます。
 温泉場として知られた温井里に対して、長安寺は夏でも暑さを知らぬ避暑地として知られた一面もあったようで、長安寺ホテル(後の内金剛山荘)のバンガローは、貸し別荘として夏季に長期滞在する人もいました(注2)。
 外金剛と並んで内金剛側も観光客が激増します。『金剛山電気鉄道ニ十年史』によれば、金剛山電気鉄道が営業を開始した1924年には184名にすぎなかった金剛山観光客は、内金剛まで開通した1931年には15219名に激増しました。そして更に1938年には24892名まで増加します。金剛山電気鉄道開通後から太平洋戦争の始まる直前の1940年ごろにかけて、長安寺は最も栄えた時代を迎えていました。

1936年頃の、長安寺前にかかる橋とハイキング姿の女性

長安寺の最盛期である1934年頃、長安寺には

洋式ホテル
長安寺ホテル(5月〜10月オープン。バンガロー式3室と炊事場を備えた別荘5棟あり)

日本式旅館
内金剛旅館
蓬莱館
不知火旅館(金剛山電気鉄道が建設し、京城の旅館、不知火旅館に経営を委託していた旅館。内金剛駅前にあった


朝鮮式旅館
唯一旅館
長安旅館
金剛山旅館
平和旅館
玉泉旅館


といった宿泊施設がありました。


1936年頃の内金剛山荘(この頃長安寺ホテルから改名された)

 1941年12月、太平洋戦争が始まると金剛山観光ににわかに悪雲がたちこめるようになります。物資の欠乏や輸送状況の緊迫化、更に経済統制の強化などの影響をもろに被って、金剛山観光客は激減して行きます。長安寺を窓口とした金剛山観光を引っぱってきた金剛山電気鉄道も、1942年1月1日には京城電気に吸収合併され、1944年10月1日には昌道ー内金剛間の49キロの運行が休止となってしまいます。

 1945年8月15日の日本の敗戦後、北朝鮮領となった長安寺がどのようになっていったかについては、今のところ資料が無くわからない状況です。現在の北朝鮮地図によると、金剛山電気鉄道の内金剛駅のあった周辺に、『内剛里』という地名の集落があるらしいことと、内金剛ホテルのあった場所付近に『内金剛休養所』という名の建物があることがわかります。さらに長安寺のお寺そのものは朝鮮戦争の戦火で焼失してしまったことも確かです。現在、かつて金剛山観光で栄えた長安寺はどうなっているのでしょうか?





(注1)『日本植民地時代の金剛山観光の発展』にも記しましたが、この白華庵の宿泊設備は『表訓寺ホテル』と呼ばれた時代があったようです。この『表訓寺ホテル』、失火のために1919年頃に焼失してしまったようです。

(注2)1918年に長安寺の極楽殿を改築して営業を開始した『長安寺ホテル』ですが、その後、1920年頃に避暑や保養のために長期に滞在する人のためにバンガロー(貸し別荘)5棟が建設されました。バンガローは応接間の他に3室と浴室、炊事場が備わっていたそうです。そして1924年ごろには長安寺ホテル本体の建物が完成し、寺の建物を借りての営業からホテル専用の建物での営業に切り替わりました。そして1935年ごろには、長安寺ホテルは『内金剛山荘』という名前に改称されます。また、長安寺ホテルにはそばを流れる渓流を堰きとめた形のプールがあったようです。
 ところで……寺の建物を改造して営業をしていた最初の『長安寺ホテル』については、宿泊者の多くは正直なところ来て見てびっくりした人が多かったようで、宿泊した印象も賛否両論あったようです。


(2003・8・27 完成)
(2004・5・5 最終加筆)


《参考文献》
朝鮮金剛山大観(今川宇一郎著・大陸踏査会・1914年刊)
朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・冨山房・1914年刊)
金剛山遊覧の栞(朝鮮総督府鉄道局・1915年刊)
朝鮮金剛山大観(徳田写真館・1915年刊)
朝鮮金剛山探勝記(菊池幽芳著・洛陽堂・1918年刊)
朝鮮金剛山探勝案内(南満州鉄道株式会社京城管理局・1919年刊)
満鮮遊記(大町桂月著・大阪屋号書店・1919年)
満鮮風物記(沼波瓊音著・大阪屋号書店・1920年)
金剛山探勝案内(南満州鉄道株式会社京城管理局・朝鮮・1922年8月号所収)
万二千峰朝鮮金剛山(満鉄京城鉄道局蔵版・1924年刊)
朝鮮金剛山百景(大阪朝日新聞社・1924年刊)
満鮮の行楽(田山花袋著・大阪屋号書店・1924年刊)
山岳第19年第2号・朝鮮金剛山(大平晟著・日本山岳会・1925年刊)
金剛山(1928・1932・1933・1935・1938年版:朝鮮総督府鉄道局)
金剛山記(菊池謙譲著・鶏鳴社・1931年刊)

金剛山(前田寛著・朝鮮鉄道協会・1931年刊)
京城と金剛山(1932・京城真美会)
金剛山探勝案内記(松浦翠香著・金剛山探勝案内社・1934年刊)
金剛山案内図(1933・金剛山協会)
金剛山案内図(1934・金剛山電気鉄道株式会社)
朝鮮・昭和10年8月号(1935・朝鮮総督府)
金剛山(1939・日本旅行協会朝鮮支部)
金剛山電気鉄道ニ十年史(1939・金剛山電気鉄道株式会社)
金剛山探勝コース図(1939・財団法人金剛山協会)
金剛山・昭和15年版、16年版(1940、1941・財団法人金剛山協会)
金剛山探勝案内図(1940・徳田商店)
朝鮮鉄道四十年史(1940・朝鮮総督府鉄道局)
遥かな山やま(1971・泉靖一著・新潮社)
朝鮮交通史(1986・鮮交会)
朝鮮紀行<Korea and Her Neighbours>(イサベラ・バード著・時岡敬子訳・講談社学術新書・1998年)

<北朝鮮の文献>
朝鮮観光地図帳(1995・朝鮮国際旅行社)
朝鮮地図帳(1997・教育図書出版社)




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