金剛山電気鉄道について




金剛山電気鉄道・内金剛駅
↓は内金剛駅のスタンプ



その昔、金剛山に『金剛山電鉄』という電車が走っていました。
皇居二重橋の設計を行い、かつ日本・台湾・朝鮮・旧満州の多くの鉄道建設を手がけた
工学博士、久米民之助氏(1861−1931)が中心となって金剛山電気鉄道は建設されました。
久米氏は晩年、金剛山開発に最も情熱を傾け、遺骨の一部は金剛山に分骨されたということです。
鉄道の建設経過など、台湾の阿里山森林鉄道に比較的よく似ていると思います。
今なお観光資源として大きな存在である阿里山森林鉄道に対して、
金剛山電気鉄道は朝鮮半島の南北分断に翻弄され、人々の記憶から遠ざかりつつあります。
ここでは今では語られることも少なくなった金剛山電気鉄道のお話をまとめてみたいと思います。

(2006・10・9 最終加筆)



1・金剛山電気鉄道の構想と会社設立まで

 金剛山電気鉄道は、朝鮮戦争後半最大の激戦地として知られる鉄原から、金化→昌道→縣里→末輝里(現・北朝鮮金剛郡郡庁所在地)と進み、内金剛駅(現北朝鮮金剛郡内剛里)までの116.6キロを走る鉄道でした。軌道は1435ミリの標準軌を使っていました。
 1918年4月、久米民之助氏はソウル方面から金剛山地区一帯を踏査し、更に同年7月に元鉄道省技師であった小川東吾氏に委嘱して金剛山地区をもっと詳しく踏査しました。
 その結果として西側が緩やかで東側が急である朝鮮半島の地形から、西に流れる河川の水を東側に落とすことによって水力発電業を興し、その電力を使って東北アジア有数の景勝地、金剛山により多くの観光客を呼び、農業や鉱業の発展が有望視されていた地域開発のためにも鉄道を引こうというもくろみを抱きました。当時としては川の流れる方向を変え水力発電を行なういわゆる『流域変更式発電』は画期的なアイデアであり、1990年代から現在にかけての北朝鮮の国家プロジェクトのひとつ、安辺青年発電所(金剛山発電所)の計画と基本的に同じ内容であることも、この計画の先進性を感じます。
 久米氏はさっそく会社設立の準備に奔走します。久米氏は当時日本各地や朝鮮・台湾などで鉄道建設を請け負い、巨額の利益を挙げていた実業家でした。まず発電所建設の適地とされた化川河の水利について権利を持っていた、『朝鮮水力電気株式会社創立準備組合』から水利権を買収します。ちなみに朝鮮水力電気株式会社創立準備組合も久米氏と同じように、川の流れる方向を変え水力発電を行なう『流域変更式発電』による事業展開をもくろんでいたのですが、調査と準備の不足のために事業として全く行き詰まっていたのです。

 ちなみに『朝鮮水力電気株式会社創立準備組合』の事業許可をめぐっては、当時の寺内正毅朝鮮総督が事業の許可に関して慎重論を唱え、各長官が出席する通常の会議の中では結論が出ずに、当時朝鮮総督府通信局電気課長を務めていた岡本桂次郎氏が寺内総督に事業計画の詳細な説明を行なった結果、ようやく許可が下りたといいます。流域変更方式という発電形態が当時いかに破天荒なものであったのかを物語るエピソードです。なお、岡本桂次郎氏は1931年から1938年に死去するまでの7年間、金剛山電気鉄道の専務取締役となり、事実上会社の現場最高責任者として活躍します。

 久米氏は更に発電・鉄道事業を興すために同志を集め、1919年3月25日に朝鮮総督あてに鉄道敷設許可申請ならびに補助金交付申請を出します。発起人としては久米民之助氏以外に、三井グループの大立者で大日本麦酒(現在のアサヒビールとサッポロビールの前身)の社長などを勤め、金剛山電気鉄道第二代社長にもなった馬越恭平氏や、中央本線笹子トンネルを設計し、日本土木学会会長などを務め、久米氏、馬越氏の死去後に金剛山電気鉄道の会長となった古川阪次郎氏など、錚々たるメンバーが名を連ねていました。また同年6月25日には発電事業と河川使用の申請も総督あてに提出します。
 1919年8月11日、申請はいずれも認められて金剛山電気鉄道実現に向けて大きく前進します。ちなみに会社設立はまだでしたので、補助金は会社設立以後に支払い開始されることになりました。

 1919年8月22日、金剛山電気鉄道株式会社の発起人総会が開かれました。総会後、事業資金調達のため金剛山電気鉄道の株式10万株が発行され、うち2万株を一般投資家のための株式募集に宛てました。発起人の顔ぶれがよかったのかそれとも事業内容に魅力があったのか、第一次世界大戦後の好景気にも支えられ株式募集時には希望者が殺到したとのことです。
 1919年12月16日、金剛山電気鉄道株式会社は創立総会を開き、12月22日には正式に登記されます。創立総会の席で代表取締役社長になったのは、もちろん久米民之助氏でした。


2・全線開通まで

 当時朝鮮半島で私鉄建設を行なう場合、総督府から補助金の交付がなされました。これはまだまだ交通機関の整備が必要であった朝鮮半島で、鉄道建設を促進する意味がありました。もちろん金剛山電気鉄道もその建設に対して補助金が交付されることになりました。当初利益が思ったようにあがらなかった金剛山電気鉄道にとってこの補助金は大変に大きな意味がありました。ちなみに補助金は『鉄道営業開始から10年間』が補助期間とされていましたが、1921年より15年となり、1939年には事情によっては25年間補助金が交付されることになりました。金剛山電気鉄道の運行開始は1924年なので、25年後は1949年となり、結局日本時代の最後まで補助金は交付されつづけたものと思われます。

 鉄道・発電所の建設はといえば、1920年9月には川の流れを変える『流域変更』用のトンネルの掘削が始まり、1921年6月に発電所本体の建設開始、同年9月には鉄道建設が始まりました。気候などの条件が厳しい割には工事は比較的順調に進んでいたようですが、金剛山電気鉄道の前に二つの困難が待ち受けていたのです。

 まず船出したばかりの金剛山電気鉄道を不況の波が襲います。株式募集時は希望者が殺到したのに、不況の影響で株主からの払い込み金が滞り、失効を防ぐために7千株あまりの大量の株を社長以下重役が引き取ることになるなど、資金調達に大変に苦心します。それ以外でも取締役が個人名義で連帯保証人になる条件で資金の借り入れを行い、更には代々木にあった久米社長の敷地4万坪、建物800坪の家を200万円で売却して事業資金にするなど苦心の経営が続きました。もちろん苦境は金剛山電気鉄道ばかりではなく、他の朝鮮半島の私鉄も同じであったため、朝鮮半島の私鉄を全て統合する計画も持ち上がり、実際多くの私鉄が合同しますが、金剛山電気鉄道は幅広く電気業を行なっていたことと(注1)、またなによりも今後利益を挙げて株主への配当を果たしていくべきとの意見が会社内の主流を占めたため、合同を拒否することになったのです。

 その上、東京をはじめ関東・東海一円を襲った関東大震災の後の火災のために、交流電流を直流に変える電車用の電動発電機など、事業に不可欠な機械が発注先の東京芝浦製作所(東芝の前身)で灰になってしまったのです。当時既に発電所も鉄原ー金化までの鉄道第一期工事も完成が近づいており、電動発電機の焼失は大きな打撃でしたが、結局満鉄から蒸気機関車を借り受けて1924年8月1日、鉄原から金化までの28.8キロの営業運転を開始します。そして電動発電機が到着後の同年10月27日より、当初の予定通り電化運転を開始したのです(注2)。

 金剛山電気鉄道は営業開始後、さっそく金剛山観光に利用され始めます。大正末期と推定される金剛山探勝パンフレットには金剛山電気鉄道で金化まで向かい、そこから定期の乗り合い自動車で内金剛へ向かうコースが紹介されています。その後も鉄道建設の進捗に伴い、金城、炭甘里、昌道、金剛口(末輝里)まで金剛山電気鉄道で向かい、そこから自動車で内金剛へ向かうコースを紹介するパンフレットが残っています。
 ユニークなのが1929年9月12日から10月31日まで開催された朝鮮博覧会の際に訪れた大勢の朝鮮観光客を、金剛山まで効率的に運ぶために行われた措置として、工事中の断髪嶺のトンネルを徒歩ないしトロッコで通過させて、トンネルの向こう側で内金剛までの連絡自動車に乗せるという荒業に出ます。たまたまこの時に金剛山を訪れた画家の川島理一郎氏は、「ようやく人が通れるトンネルを歩かされ、実に気味が悪かった……遥か向こうに薄明かりが見えるまで、全く生死の間という気持ちだった」。と書いています。
 断髪嶺のトンネルが完成し、金剛口(末輝里)まで開通する頃から、日本からの金剛山行きのツアーが金剛山電気鉄道を利用するようになったようです。

 金剛山電気鉄道は1931年7月1日に鉄原ー内金剛間の全線が電車運行にて開通しました。ただ、久米社長は全通の直前、1931年5月24日に亡くなります。

なお、金剛山電気鉄道の開通状況をまとめてみると

鉄原ー金化…28.8キロ 1924・8・1 営業開始 1924・10・27 電化運転開始
金化ー金城…16・6キロ 1924・12・20 営業開始
金城ー炭甘…8.6キロ 1926・9・15 営業開始
炭甘ー昌道…8.2キロ 1927・9・1 営業開始
昌道ー縣里…15・1キロ 1929・4・15 営業開始
縣里ー花渓…12キロ 1929・9・25 営業開始
花渓ー末輝里…13・3キロ 1930・5・15 営業開始
末輝里ー内金剛…8.6キロ 1931・7・1 営業開始


金剛山電気鉄道全駅とその駅間距離表:金剛山電気鉄道20年史より


金剛山電気鉄道二十年史より、金剛山電気鉄道路線図
なお、地図上の数字は金剛山電気鉄道株式会社が経営していた発電所関係の施設



3・金剛山電気鉄道の全盛期とそれから

 1932年当時、金剛山電鉄株式会社は江原道鉄原邑外村里655番地に本社があり、東京都京橋区銀座西7丁目4番地と京城府外往十里に出張所がありました。
 また、株式は1926年11月に14万株が追加発行され、1932年当時は1株額面50円の株券が24万株発行されていました。
 金剛山電鉄株式会社の営業は、金剛山電気鉄道の建設経過を見てもわかるように、鉄道業以外に電燈電力業も行っていましたが、経営はかなり厳しく、昭和6年上半期の利益金配分案のうち利益の方はといえば……

利益金         248,760円30銭
繰越金         125,116円19銭
政府補助金      477,175円12銭
   合計        843,168円2銭

と、利益金の過半を政府補助金に頼っていることがわかります。ちなみに利益金支出のうち16万円あまりが社債利子・借入金利子の返済に充てられており、苦しい経営状況が伺われます。1932年当時はまだ利益が少なくて経営が安定していませんでした。鉄道経営が苦しかった理由のひとつが昭和恐慌後の景気の悪さでした。景気が悪いので観光客を始めとする旅客輸送も貨物輸送も振るわなかったのです。
 当時、朝鮮半島の私鉄の多くは赤字経営で、朝鮮総督府の補助金は私鉄経営の頼みの綱であったようですが、私鉄への補助金は総督府財政を圧迫しており、金剛山電気鉄道も国有化への圧力を受けていたようです。

 やがて日本は戦争への道を歩みだすのですが、時代がきなくさくなってきた1930年代半ば以降、逆に景気が好転してきて旅客輸送も貨物輸送も活況を呈するようになります。観光客のために往復割引切符や団体割引切符も発売され、金剛山観光客も増加してまさに日本植民地時代の最盛期を迎えます。

 金剛山電気鉄道は金剛山への観光客輸送を主目的の一つとしていた関係上、11月〜4月までの観光のオフシーズンと、5月〜10月までの観光シーズンで時刻改正を行い、観光シーズン中は内金剛行きの電車をオフシーズンよりも一本増発するのが慣例となっていました。。これに加えて年によって多少異なりますが、5ないし6月〜10月の日・祝日には観光客用の夜行列車を運行し、前日夜、京城(現ソウル)を出発した二・三等寝台列車を連結しました。観光のトップシーズンである紅葉期(10月初め〜20日頃)にかけては毎日夜行列車の運行を行いました。また観光シーズンには臨時列車の運行も随時行っていたようです。
 夜行列車は金剛口(後の末輝里)まで開通した1930年の観光シーズンから運行を開始し、戦時体制が強化された1941年7月に中断されるまで続いたようです。また、前年の1940年9月には金剛山観光に関する割引切符が廃止され、観光客が激減して金剛山観光は急速に衰えていきます。

 具体的な金剛山電気鉄道のダイヤですが、大体において鉄原ー内金剛間は観光シーズンは四往復(夜行列車を加えると五往復)、オフシーズンは三往復、その他(鉄原ー昌道、または鉄原ー金化)二ないし三往復となっていました。
 また、昌道にあった硫化鉄の鉱山の貨物輸送は金剛山観光客と並んで会社のドル箱的存在でしたが、鉱石の輸送は旅客輸送が比較的少ない11月〜4月期に多く輸送をするようにしたようです。硫化鉄は主に興南(現在の咸興)にあった日本窒素興南工場に運ばれていました。ところで金剛山電気鉄道には電気機関車等の機関車は配備されておらず、貨車の牽引は電車が行っていました。



金剛山電気鉄道に乗り入れた、朝鮮総督府鉄道局の客車。(詳しい説明はこちら

 金剛山電気鉄道の経営に、水害がしばしば悪影響をもたらしました。1925年・1929年・1930年・1933年・1936年と水害が発生し、発電設備、送電設備や鉄道などが被害を受けました。
 水害以上に経営上の危機をもたらしたのが、1936年に主力発電所である中台里発電所で発生した漏水でした。漏水のために発電に支障をきたすようになったため、岡本桂次郎専務の決断で大規模な改修工事を行うこととなりました。工事は1937年夏に成功裡に終わり、経営上の危機を脱することが出来ました。

 金剛山電気鉄道はその後沿線の鉱業などの産業の発達が進み、また朝鮮半島最大の観光地に成長した金剛山の観光客需要のおかげで順調に利益があがるようになっていきます。鉱業は昌道付近の硫化鉱(黄銅鉱)と重昌石の鉱山が大きく発展し、金剛山電気鉄道本線から鉱石運搬用の手押軌道を引き込んでいました。
 金剛山電気鉄道株式会社創立20年史が出された1939年には、政府補助金を差し引いても鉄道収入だけで利益が出るようになり、創業者久米民之助氏の夢はここに見事に実を結んだかに見えました。しかし金剛山電気鉄道の全盛期はあまりにも短く、まもなく第二次世界大戦、更には日本の敗戦、朝鮮半島の分断、そして朝鮮戦争と時代が流れていってしまいます。

 金剛山電気鉄道は計画として終点内金剛駅の2駅前、末輝里駅から温井嶺を越え、外金剛(温井里)そして長箭で東海北部線につなげることを考えていたようですが、金剛山の険しさと日中戦争以降の情勢の厳しさもあり、実現しませんでした。


 1942年1月1日、金剛山電気鉄道株式会社は京城電気株式会社に吸収合併されます。当時、朝鮮半島では電力会社を北部・中部・西部・南部の4ブロックに統合しつつありました。これは電力の統制を目的としたものであり、戦時色が強くなるにつれて統制は強化されていきました。ちなみに金剛山電気鉄道が京城電気に合併されることによって、朝鮮半島の4ブロックの電力会社統合が完成します。金剛山電気鉄道はブロックの電力会社に最も遅く加入した電力事業者だったわけです。
 実は、早くも1931年には金剛山電気鉄道の電気事業エリアである中部地域全体を1ブロックとした配電統制方針が決定されており、その中で当然京城電気と金剛山電気鉄道は合併されることが想定されていて、合併は10年来の宿題であったのです。
 しかし京城電気の中で金剛山電気鉄道との合併に反対する声があって、結局合併反対派の京城電気の大橋社長の退任後、ようやく合併が決定されました。大橋社長の合併反対の理由は、金剛山電気鉄道が鉄道事業に対して少なからぬ額の補助金を貰っていることを問題としていたようです。補助金を貰いながら事業を展開することにより、総督府などから余計な干渉を受けかねないことなど警戒感があったのでは…と言われています。
 京城電気との合併後、金剛山電気鉄道は京城電気の金剛山電鉄線として運転されることになりました。

 1944(昭和19)年10月1日、昌道より内金剛までの49.0キロが運行休止となり、区間のレールは撤去の上、供出されることとなりました。これは昌道より内金剛までの区間は戦争遂行上、影響が少ないと判断されたためで、供出されたレール等は国鉄(朝鮮国有鉄道)の新設の線路に転用されたそうです。第二次世界大戦末期の物資不足の中での出来事です。
《この項の記述は、韓国の廃線を取り上げたホームページ“無等鐵道”の中の“韓国の廃線について”のコーナーを参考にしました》

 1945年8月になると、戦況の悪化によって金剛山電気鉄道の日常業務全般が京城(ソウル)地方交通局長の管理下に入ります。そのような中、金剛山電気鉄道は1945年8月15日の敗戦を迎えることになります。

 敗戦後、北朝鮮領となり、その後の朝鮮戦争を経て南北間の軍事境界線を跨ぐ形となった金剛山電気鉄道が、いったいどうなってしまったのか確実なことはわかりません。ただし現在、金剛山電気鉄道で活躍していた電車はピョンヤンの鉄道事績館に展示されて“余生”を送っています。ちなみに平壌の鉄道事績館では保存されている電車について『日本植民地時代に作られた車両で、朝鮮戦争時に破損したが、修復して展示している』。との説明を受けました。そうすると金剛山電気鉄道とそこで活躍していた電車は、北朝鮮時代になっても何らかの形で活躍の場があった可能性が高いと思われます。


(注1)1924年3月当時、金剛山電気鉄道株式会社は全朝鮮で39ヶ所あった営業用電気事業者中、資本金第3位の電気事業者であった。
(注2)金剛山電気鉄道の電車運転開始日は、社史を読むと1924年10月20日、10月27日、11月26日という3つの記述がみられ、今のところどれが正しいのかはっきりとしません。ここでは他の資料からも確認できる10月27日を電車運転開始日としました。また、電車運転開始後もしばらくの間は電車と蒸気機関車双方を運行し、1925年1月1日より電車運行に一本化されたようです。



2004年6月21日に確認できた、内金剛周辺の金剛山電気鉄道の跡についてはこちら

2004年6月23日撮影の、平壌にある鉄道事績館に保存されている金剛山電気鉄道の電車についてはこちら




以上の文章は《岡本暁翠著・京城と金剛山》
《朝鮮総督府鉄道局パンフレット:金剛山》
《群馬人国記:利根・沼田・吾妻の巻》
《金剛山電気鉄道二十年史》
《久米民之助先生》
《神戸大学デジタル版新聞記事文庫 京城日報》
《鉄道ピクトリアル273 1972・12月号 金剛山電気鉄道の回顧》

《朝鮮電気事業史》(1981年・朝鮮電気事業史編集委員会編)
《朝鮮交通史》(1986年・鮮交会編・三信図書刊)
ホームページ《無等鐵道》
《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道 1:京義本線》

(鉄道ジャーナル2003年7月号)
《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道 2:京元本線》
(鉄道ジャーナル2003年8月号)
《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道 3:金剛山電気鉄道》
(鉄道ジャーナル2003年9月号)
《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道 4:東海北部線》
(鉄道ジャーナル2003年10月号)
《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道(補遺)》
(鉄道ジャーナル2004年2月号)

……を参考にしました。


このページの写真は『朝鮮金剛山(日之出商行・1936年発行)』
の写真を掲載しました。



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