金剛山略年表第一巻
(19世紀末〜1980年までの、金剛山関連の主な出来事についての年表です)

(2004・7・25 最終加筆)


金剛山関連の出来事 他の重要な出来事
1875年
江華島事件、日本の軍事的圧力によって朝鮮は開国することになる。
1876年 日朝修交条規締結される
1880年 釜山に次いで元山が開港する
1889年 ロシア人ディティモフ、ウラジオストックを本拠地として東アジア地区最初の近代捕鯨の操業を始める。ディティモフは主に朝鮮半島沿岸で捕鯨を行い、長箭と思われる場所に捕鯨基地を設ける。
同じ頃、日本人の漁業関係者が長箭を根拠地として漁業を営みはじめる。
1894年 イギリス人の女性旅行家、イサベラ・バード女史が金剛山を旅行する。女史の旅行記によって、金剛山は初めて世界に広く紹介されることになる。
森万次郎氏が長箭に居住して漁業・商業を営むようになる。
日清戦争
1899年 ロシア人ケイゼルリングが韓国政府から長箭を正式に借り受け、鯨の解体場を経営するようになる。
1904年 日露戦争勃発。長箭の鯨解体場は日本の東洋漁業(後の東洋捕鯨)経営下に置かれるようになる。 日露戦争
1905年 この年、外金剛温井里に日本人が住み始めるようになる。
1907年 温井里の共同浴場が改修される。
1910年 温井里に日本人の経営する宿泊施設(温井旅館)が初めて出来る。 日韓併合、朝鮮は日本の植民地となる。
1912年 この頃、温井嶺の近くにタングステン鉱山が発見される。
この頃、朝鮮郵船の元山ー長箭間の不定期航路が就航開始される。
1913年 この頃から朝鮮総督府鉄道局は金剛山観光開発と宣伝を開始する。 ソウル(当時の京城)ー元山間の京元線が開通する。
1914年 第一次世界大戦勃発
1915年

8月




日本が韓国を併合して5周年を記念して、『始政五年記念朝鮮物産共進会』が開かれる。共進会開催を記念して、金剛山観光開発が進められた。
温井里に金剛山地区初の近代ホテル、『金剛山ホテル』が、朝鮮総督府鉄道局の経営によりオープンする。
また、内金剛入り口にあたる末輝里でも日本式旅館と観光案内所が設けられ、金剛山へ向かう道路も整備された。
またこの頃、外金剛の九竜淵近くにモリブデン鉱山『金剛鉱山』が発見される。
1916年 春ー秋の観光シーズンの間、朝鮮郵船の元山ー長箭間の定期航路が開設される。
1918年 4月

7月

工学博士久米民之助氏が金剛山地区を踏査する。踏査の結果、久米氏は金剛山地区に鉄道を引く計画を立てた。
南満州鉄道は、内金剛の長安寺の建物(極楽殿)を借りてホテル(長安寺ホテル)の経営を開始する。
京元線の平康から内金剛の長安寺までの定期自動車便の運行が開始される。
第一次世界大戦終了
1919年 12月 久米氏を中心として、金剛山電気鉄道株式会社が設立される。 朝鮮半島全域で独立運動(3・1運動)
1923年 この頃、内金剛の長安寺に初の日本式の旅館、内金剛旅館が建つ。
1924年 8月
10月

金剛山電気鉄道がまず鉄原ー金化まで開通した。
金剛山電気鉄道で、電車の運行が開始された。
内金剛の長安寺ホテルに、ホテル専用の建物が完成する。
1928年 2月 朝鮮総督府鉄道局の東海北部線の建設が開始される。
1929年 8月

9月
11月
金剛山最高峰・毘盧峰への登山道(久米越)が整備される。金剛山電気鉄道社長の久米民之助氏が社費を投じて整備したため、『久米越』の名がつけられた。
朝鮮総督府鉄道局の東海北部線が一部開通。
元山ー長箭間の定期航路が廃止される。
1930年 この頃、温井里近くにスキー場(外金剛スキー場)がオープンする。
1931年 7月
金剛山電気鉄道が内金剛まで全通した。
内金剛九成洞を探勝するコースも整備された。
1932年 4月
11月
金剛山の自然の保全と宣伝を目的とした『金剛山協会』が発足する。
朝鮮総督府鉄道局の東海北部線が高城まで開通し、外金剛側も鉄道網が整備される。
この年の秋、金剛山最高峰、毘盧峰近くに山小屋『久米山荘』が完成する。
1933年 この年、温井里の共同浴場が再改修される。
1936年 金剛山の新探勝コースとして、内金剛・外金剛あわせて合計5コースの整備がされる
1937年 この頃、長箭港のマイワシ漁が全盛を迎え、長箭には漁の関係者一万五千人が集まるほどに。 日中戦争勃発
1939年 11月 金剛山のロッククライミングのメッカ、集仙峰に山小屋・集仙小屋が作られる。 第二次世界大戦勃発
1941年 第二次世界大戦に日本参戦
1942年 1月 金剛山電気鉄道株式会社が、京城電気に吸収合併される。
1944年 10月 第二次世界大戦の戦況悪化にともない、金剛山電気鉄道の昌道ー内金剛間の鉄道運行が休止となる。
1945年 第二次世界大戦で日本が敗戦。朝鮮半島は北緯38度線を境に北側がソ連、南側がアメリカの占領下に置かれた。金剛山は全域が北側に属した。
1947年 9月 金日成氏が金剛山を旅行。万物相や三日浦などに足を伸ばす。
1948年 8月 当時6歳であった金正日氏が、金剛山南端に入れることもある花津浦で海水浴を楽しむ。 大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国が成立。金剛山は全域が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)側に。
1950年 朝鮮戦争勃発
1951〜3年 朝鮮戦争中盤〜後半にかけて、金剛山近くの351高地や1211高地などで激戦があった。
戦災で金剛山四大寺のうち三寺院が焼失するなど、金剛山地区も大きな被害があった。
1953年 朝鮮戦争休戦。金剛山はそのほとんど全てが引き続き北朝鮮側に属することに。
1958年 外金剛の温井里に金剛山旅館が建設される。同じ年、外金剛の九竜淵・万物相と内金剛の万瀑洞の橋などの整備が開始され、1970年までに探勝道路やはしごなどの整備が進められた。
1961年 九竜瀑布の隣に、九竜淵亭閣が作られる。
1964年 三日浦の展望台、蓮花台が作られる。
1972年 金正日氏が金日成氏の後継者に秘密決定される。
1973年 万物相入り口の万相亭が作られる。この頃から80年代初めにかけて、金剛山各所に金日成一族の顕彰碑が建てられ、岩に刻まれた文字が盛んに彫られるようになった。 金正日氏が朝鮮労働党の書記に選出された。
1974年 三日浦に金日成・金正日・金正淑の“功績”を記念した忠誠閣が建てられる。 金正日氏が朝鮮労働党の政治委員会委員に選出された。
1975年 温井里に金剛山革命事績館と、現地指導事績碑が建てられる
1978年 九竜淵コースの飛鳳瀑布の展望台が作られる。





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