19世紀末〜日本植民地時代の
温井里について



温井里にあった日本旅館のひとつ、萬龍閣。
旅館前にレトロな自動車が四台停まっているいるところがいいですね〜


温井里は東海(日本海)の良港、長箭の近くにあって交通の便が比較的良く。
1930年頃までは金剛山観光の中心地でした。
その後内金剛方面に『金剛山電気鉄道』が開通し、
金剛山観光の表玄関としての役割を一旦長安寺に譲りますが、
戦前の日本統治下、温泉がある温井里は外金剛探勝の中心地として栄えていました。

(2004・11・13 最終加筆)


1926年発行、朝鮮総督府地質調査所発行の『朝鮮地質調査要報第七巻』には、温井里温泉(現金剛山温泉)の調査報告がされています。
この報告には、温泉の成分分析以外にも当時の温井里についての貴重な情報が載せられています。
そして金剛山の旅行記である
『朝鮮金剛山探勝記』(竹内直馬氏著・1914年)
『朝鮮金剛山大観』(今川宇一郎氏著・1914年)
『朝鮮金剛山探勝記』(菊池幽芳氏著・1918年)
『山岳・第十九年第二号 朝鮮金剛山』(日本山岳会・1925年・旅行記は大平晟)
『金剛山記』(菊池謙譲氏著・1931年)
などにも当時の温井里の様子が描かれています。
また、『金剛一万二千峰』に対して、常日頃アドバイスをいただいているT氏から、
1918年発行の『朝鮮鉱泉要記』
1933年発行の『朝鮮の聚落』(注1)という
当時の温井里の状況を記した貴重な文献をいただきました。
これら文献を通してわかる、温井里の状況をまとめてみたいと思います。

(注1):『朝鮮の聚落』は、奥書では昭和8年発行となっています。
しかし金剛山電気鉄道の開通状況について記述されている記事から判断すると、
1926〜27年頃の温井里について書かれていると思われます。


(注2)朝鮮鉱泉要記と朝鮮地質調査要報は基本的に地質報告書ですので、原著では地質関係や温泉の分析結果の記述が多いのですが、ここでは当時の温井里温泉(金剛山温泉)と温井里の様子がわかる資料を、のりまきが原著からまとめてみました。
また、原文からかなり文章の内容を変更している(例えば内地人→日本人など)ところもありますので、もし原文を読みたいと思われる方はご連絡ください。




1・温泉の沿革について・温井里温泉の状況について。

(1)温泉の発見から金剛山観光開始当初の温井里まで

 温泉発見の年代についてははっきりした記録が残っていませんが、新羅最後の国王・敬順王の子、麻衣太子が発見したとの伝説が残っています。
 そして「新増東国輿地勝覧巻之四十五」の、「山川」の中の「温泉」として次のような記述があります。
 在郡西北三十二里 世祖十二年 巡幸関東 駐駕于此
 ここで言う世祖とは、朝鮮王朝(李朝)の世祖のことで、世祖十二年とは、日本では応仁元年(1467)にあたります。国王が温井里の温泉に足を運ばれた以上、当時すでに温井里温泉に浴舎などの設備があったことは確実と思われます。
 世祖一行が温井里温泉を訪れ、足をとどめられた場所は旅館萬龍閣があった場所と言われ、1925年より70年前(つまり1855年)にはまだ数個の礎石が残っていたといいますが、1925年にはその跡は消えてしまっていたそうです。(注2)
 朝鮮王朝時代の最盛期には温井里に8ヶ所もの温泉浴槽があったとの話もあります。ただ、王朝後半〜末期にかけて地方官僚の腐敗が深刻化するにつれて、温泉にやってきては地元住民を搾取する悪徳役人が多くなってしまったので、温泉の浴槽は1つのみ残して、あとの7つの浴槽を壊したと伝えられていますが詳細は不明です。

 いずれにしても温泉は、長い間露天風呂として近隣の住民に使用されていたようです。1907年、近隣住民は温泉の上に雨雪が降り込むのを防ぐ建物を建て、これまで使用してきた温泉の不備を改善しました。東朝鮮・一名元山案内によると、1910年当時の温井里には、板葺き木造の温泉浴場がひとつあったといいます。浴場の中には2つの浴室があり、浴槽はというと、底は白い石英質の砂礫が敷かれ、縁は大きな花崗岩で出来ていたといいます。1907年に続いて1919年には浴槽も改修して、かなり良い設備の共同浴場を作ったようです。
 日本人が初めて温井里に居住するようになったのは1905年のことです。その当時は後の共同浴場(金剛温泉)のところに現地に住む人が入浴する浴場がひとつあっただけでした。1910年には後日、日本式旅館・萬龍閣が建てられた場所の少し西側に、日本人の手によって内湯を備えた温井旅館が建設されます。
 1912〜4年頃の温井里は戸数約20戸の山あいの静かな集落でした。この当時の温井里は『荒野に2〜30の朝鮮人の住む家があって、温泉はあるのだけれど交通の便が悪いので客は少ない』。という状態だったようです。温井里の住民は温泉客の宿舎を営み生計を立てていたようです。また当時すでに日本人が3〜4軒の旅館兼雑貨店を営んでいたそうです(注3)。


(2)温井里への交通機関の発達経緯

 金剛山はかなり交通が不便な場所にあったため、それでも当時の温井里は金剛山地区で一番開けた場所であったようです。温井里から約8キロの場所にある長箭に1890年代より捕鯨基地としてロシア・日本からの船が寄航していたようで、そのため長箭は港として早くから開発が行なわれていたことが大きかったと思われます。
 当時は長箭までは元山から船で向かい、長箭からは徒歩ないし人力車で温井里まで向かうのが一般的であったようです。ちなみに1918年当時、長箭には人力車6台、温井里には人力車4台と客馬車1台があったという記録も残っています(注4)。

 温井里への交通の便は徐々に整備されていきます。1917年には元山から長箭へ向かう定期船が通常月6便、6〜10月の観光シーズンには月16便運行されていたといいます。また1928年には5月16日〜10月15日は毎日運行となっていて、観光客にとって便利になったことがわかります。ちなみに元山から長箭への定期航路は後述の東海北部線の建設が進行した1929年秋を最後に不定期航路となって、やがて廃止されたようです。

 そして1920年代前半には元山ー温井里間に毎日一便、定期自動車便の運行も始まり、これも金剛山観光客に使われていたようです。この頃には弥生商会という会社の自動車が、温井里と長箭や高城を一日数回連絡するようになったようです。

 やがて東海北部線の建設が進み、1932年には温井里近くに外金剛駅が出来たこともあって、温井里にも鉄道で観光に向かう人が増えました。そして観光シーズンの5〜10月の日曜・祭日の前夜には、ソウルから外金剛駅行きの寝台列車が運行されるようになりました。


(3)温井里の発展

 鉄道局直営の金剛山ホテル(注1)は、1915年8月10日にオープンしました。『朝鮮地質調査要報第七巻』によると、1918年になって温井旅館を併合する形で後に萬龍閣となる旅館が新築されます。同じ年に堀恒氏(雑貨店経営)が自家用の浴場を新設(注3)。1921年には嶺陽館にも内湯が設けられ、1924年秋になって、今度は朝鮮総督府鉄道局直営のホテル(温井里ホテル)も、新たに源泉を掘削し、ホテル浴室を温泉としました(注5)。


萬二千衆峰朝鮮金剛山(1929年・朝鮮総督府鉄道局)より、温井里ホテル
創建当時は庭も整備されず殺風景な中にホテルがぽつんとあったが、この頃になると写真のように庭もきれいに整備された



 1924年6月に嶺陽館に宿泊した大平晟氏の記述によれば、嶺陽館の浴槽は花崗岩をセメントで固めたもので、浴室も広くかつ明るいものだったそうです。入湯に際しては浴衣・タオル・石鹸も提供されたとのことなので、まさに日本式の“温泉”といった感じだったのでしょう。
 1925年の朝鮮地質調査要報の調査時、温井里温泉の源泉は旅館・ホテル用の3ヵ所、私用の1ヵ所、そして共同使用(金剛温泉)の入浴用源泉と飲用源泉の2ヶ所、合計6ヵ所でした。

 1925年、温井里の温泉場に住む人は、日本人22戸74人・朝鮮人63戸251人です。また1925年8月中に温井里温泉に宿泊した人は、延べ2039名に達しました。(温井里警察官駐在所・1925年9月末の調査による)。
 また、『朝鮮の聚落』によると温井里の人口は、日本人24戸72人・朝鮮人64戸265人、金剛山温泉の入浴者は平均して(たぶん一日平均)、春は男性600人・女性50人、夏は男性1500人・女性100人、秋は男性1800人・女性120人、冬は男性100人・女性20人だったといいます。また、宿泊客の最大収容人員は一日350名程度だったとのことです。
 ちなみに温井里駐在所調査によると、1927年の金剛山探勝客は6717名とのことでした(注6)。
 1931年に発売された前田寛著『金剛山』によれば、温井里の日本人36戸91名、朝鮮人97戸428名とのことで、順調に人口が増加していることがわかります。同書にはこの頃の温井里にあった三軒の日本旅館の収容人員も紹介されていて、嶺陽館は3階建て(1928年に一階継ぎ足して3階にしたという)で100名あまり、萬龍閣は2階建て約70名、松月旅館は平屋で50名の収容人員であったといいます。また朝鮮式旅館は5軒あり、二等旅館と呼ばれた安宿は20軒もあったといいます(注7)。そして雑貨兼土産物店は6軒、料理屋は3軒あったといいます。

 東海北部線が高城まで開通した1932年以降、金剛山観光客は激増します。1934年になると、同じく温井里駐在所調査による金剛山探勝客は年間33710名に達するようになりました(注6)。同じ1934年、温井里最寄の外金剛駅を333団体・11480名が利用したとの記録も残っています。団体旅行の多くは朝鮮半島の他の地域からのものだったそうで、当然、朝鮮の人の団体が多数を占めていました。小尾十三氏の『登攀』によれば、紅葉の季節にはソウル方面などから外金剛駅まで観光客が大挙押し寄せ、観光バスに乗り切れないほどであったといいます。
 1934年に発行された『金剛山探勝案内記』(松浦翠香著)によれば、温井里の戸数は158戸、人口は688名を数え、1935年頃になると温井里は戸数200戸あまり、人口約1000人を数えたということです。金剛山観光の発展にともない人口もやはり急激に増え、温井里が栄えていったことがわかります。
 金剛山観光客の増加に伴い、1933年2月には共同浴場の改築工事が起工され、同年6月16日には洋式二階建ての『金剛温泉』が完成します。金剛温泉は男女別の大浴場の他に専用貸し湯(家族風呂)も備えられていて、二階には休憩室・娯楽室があったそうです。
 また1933年には公会堂も建設されたということです。そして公会堂は冬のスキーシーズン中は、スキーヤーのための臨時の宿泊所にもなっていたようです。


共同浴場・金剛温泉です。男女別大浴場・家族風呂、そして2階には休憩室・娯楽室があった


 観光客の土産物としては金剛山の絵はがきや写真集が最も良く売れていて、年間約5000円の売り上げがあったそうです。その他、松の実羊羹が年間約1000円、白樺の壁掛けが年間約500円、ステッキが年間約700円の売上があったそうです。また1931年発行の『金剛山記』に載っている広告によれば、温井里には金剛山特産品として、山ぶどうから製した“金剛葡萄不染酒”、松の実から製した“松の実酒鶴乃命”や、金剛山の蛇紋岩で作った置物や岩茸で作ったお菓子などといった各種土産物があったようです。また、1935年頃になると温井里でも登山用具一式が揃えることができるようになったということです。

 『山岳・第十九年第二号 朝鮮金剛山』によれば、松の実羊羹とは羊羹の中に松の実が入っている羊羹であり、栗羊羹の栗のかわりに松の実が入っている感じの羊羹であったようです。同書によれば温井里は絵はがきや松の実羊羹などを売る土産物店が“甚だ多い”と書かれており、温泉場らしく料理屋も繁盛していたようで、大正時代末期から観光地として栄えていたことがわかります。
 また同書や大阪朝日新聞社刊の『朝鮮金剛山百景』によれば、温井里には芸妓とも娼妓ともつかぬ女性などもいたそうです。ちなみに“芸妓”には朝鮮人も日本人もいたということです。1935年ごろになると『相当な妓楼まで備わって…』という状況になったようで、温井里はかなり歓楽街的な要素も見られるようになったようです。実際、『金剛山探勝案内記』(松浦翠香著)の巻末広告には、温井里の料理屋・土産物屋・写真館・カフェーの広告が並んでいて、当時の温井里は、私たちの知っている日本の温泉場に近い雰囲気だったのかもしれません。

 また、『朝鮮金剛山百景』によれば、朝鮮人たちは村(温井里)の山手の小高いところに集まって住み、日本人はその下手の方に住んでいる……とあり、また当時の温井里地図を見ても、中心部にある温泉湧出地の周辺の多くは、日本人の経営する旅館やみやげ物店で占められていることがわかります。経過は不明ですが、温井里でも日本人の土地買占めなどがあった可能性は高いと思われます。

 当時、金剛山観光客の案内人(ガイド)は温井里か長安寺で雇い入れることになっていましたが、温井里には日本人の案内人(ガイド)もいたそうです。金剛山観光が最も栄えた1930年代には、駕籠に乗って金剛山遊覧をすることもできました。ちなみに金剛山の駕籠は籐製の椅子に担ぎ棒が取り付けてある一風変わったもので、駕籠ひとつに担ぎ手が3名つくことになっていました。

 『朝鮮の聚落』の記述では、温井里には外金剛山郵便局・温井警察官駐在所・尋常小学校などがあり、日本人雑貨店が五軒、朝鮮人雑貨店が三軒あったようです。また娯楽設備としてはビリヤード、旅館専用施設ですがテニスコートなどもあったようです。(注8)
 

2・地質調査結果ならびに温泉の分析結果について

 温井里温泉は、温井川の流れが作りあげた単成段丘(注9)の北側のふもとに湧出しています。温井里ホテルの浴槽以外、温井里温泉は自然のままか多少人の手を加えただけの温泉湧出場所の上に、直に浴槽を設けてありました。そのためホテルの浴槽以外は、浴槽の底はいずれも砂礫を敷きつめてあるだけで、その砂礫の下から直接温泉が湧き出していました。事実温泉の開発がまだ進んでいなかった1910年代前半は、『温泉周辺の平地を掘ってみると、お湯が湧き出してくる』状況であったといいます。
 ただ、温井川沿いの砂礫中心の土地から温泉が湧出しているため、岩盤から湧き出る温泉にかなりの地下水が混入していると見られ、大雨の後に源泉に濁りが見られたり、岩盤内の温泉と較べて温泉成分が薄まったり、温度の低下が見られると判断されました。
 温井里温泉は成分的には重炭酸ナトリウムが多いものの、溶存成分の比較的少ない『単純泉』に属し、またラドンの含有量が多い『ラドン温泉』であるとの分析結果が出ました。そして源泉の温度は摂氏40度程度とのことでした。これは当然現在の金剛山温泉の分析結果と同じものです。
 ところで……前出の前田寛著『金剛山』によれば、1931年に朝鮮総督府鉄道局がボーリングを行い、温泉の湧出量を増やす試みをしたといいます。金剛山観光によって温井里は急速に発展していきましたから、そのような試みもなされたのでしょう。


3・1925年の温井里(温泉場)地図へ



(注1)1918年発行の『朝鮮金剛山探勝記』には朝鮮総督府鉄道局直営ホテルは“金剛山ホテル”として紹介されています。これは当時内金剛側にはホテル・旅館が全くなく、寺院の宿坊に泊らざるを得なかった状況で、内金剛の朝鮮総督府鉄道局直営ホテル“長安寺ホテル”はむろんまだ存在していなかったため、金剛山で唯一のホテルに“金剛山ホテル”という名がつけられて当然だったのだと思われます。その後内金剛に長安寺ホテルが完成した後の1919年頃、温井里の金剛山ホテルは“温井里ホテル”と呼ばれるようになったようです。さらに1935年ごろからは“外金剛山荘”と呼ばれるようになりました。

(注2)金剛山旅行の際いただいた現代峨山作成の資料によると、1464年(世祖10年)に、高城にある温井を修復したとの記録があり、これは金剛山(温井里)温泉のことと見られている。

(注3・5)温泉の沿革については主に『朝鮮鉱泉要記』と『朝鮮地質要報第七巻』によりましたが、
『朝鮮の聚落』にはやや違う説明がされています。
参考までに『朝鮮の聚落』の記述による沿革を箇条書きにしてみました。
1907年・現地の人が共同浴場の上に建物を造る。
1910年・高知県人小笠原氏、初めて個人浴槽を設ける
1914年・萬龍閣ならびに嶺陽館の浴槽設置(熊本県人上田猯五郎氏設置)。小笠原氏の建設した浴槽は廃槽に。
1917年・東京三井物産、浴槽を設置。その後堀恒氏が所有
1919年・現地の人が共同浴場の浴槽を改造
1924年・ホテル(温井里ホテル)、温泉の浴槽を設置


堀恒氏が所有することになった温泉浴槽は、もともと1917年に東京三井物産が設置したという記述についてですが、温井里から内金剛方面へ向かって進み、温井嶺という峠を越した先に『金剛鉱山』といわれるタングステン鉱山があって、1917年頃には三井が経営しており、鉱山の傍には精錬所もありました。そして温井里には鉱山の出張事務所があったとのことですので、1917年に東京三井物産が温井里に温泉浴槽を設置したとの記述は真実である可能性が高いと思われます。
各種資料から判断すると、嶺陽館の温泉浴槽設置は1921年よりも前であるのは確実ですが、1914年に萬龍閣はなかったことも確実で、各書の記述には少しずつ錯誤があると思われます。各種資料から見て温井里の温泉発展の経緯は、実際は以下のような流れであったのではないか思われます。
1907年・現地の人が共同浴場の上に建物を造る。
1910年・高知県人小笠原氏、初めて個人浴槽を設ける。(温井旅館)
1914年・嶺陽館の浴槽設置(熊本県人上田猯五郎氏設置)
1915年8月10日・金剛山ホテルオープン
1917年・東京三井物産、浴槽を設置。その後雑貨商の堀恒氏が所有
1918年・温井旅館を併合する形で、後に萬龍閣となる旅館(金剛館?)が建てられる。小笠原氏の建設した浴槽は廃槽に。
1919年・現地の人が共同浴場の浴槽を改造。またこの頃、金剛山ホテルが『温井里ホテル』と改称される。
1922年・この頃金剛館が常盤館と改称される?
1923年・嶺陽館の浴室改築
1924年・温井里ホテル、源泉を掘削して温泉の浴槽を設置
。またこの頃常盤館が萬龍閣と改称される。
1928年・嶺陽館改築、3階建てとなる。
1933年・共同浴場(金剛温泉)全面的に改築され、洋式2階建てとなる。公会堂完成
1934年・この頃、萬龍閣も増築される。また同じ頃朝鮮式旅館、京城旅館も改築されて温泉内湯を備える


(注4)この部分の記述は『朝鮮鉱泉要記』によりましたが、同じ1918年発行の『朝鮮金剛山探勝記』によれば、長箭には2台の馬車と数台の人力車があると記されています。いずれにしてもこの頃の長箭ー温井里間の交通手段として馬車・人力車が使われていたことがわかります。

(注6)ともに温井里の駐在所調査の数字ですが、温泉の延べ宿泊人数と金剛山探勝客の数字がそれぞれどのようにして算出されたのか不明なので、ここでは1927年と1934年の間に金剛山探勝客が著しく増加したことと、1925年当時でも少なからぬ人々が温井里温泉を利用していたことがわかればよいと思います。

(注8)温井里郊外には外金剛スキー場がありました。朝鮮金剛山大観(1936年・徳田写真館)によれば、温井里は冬季、特に年末年始はスキーと温泉を楽しむ客でたいそう賑わっていました。温井里の旅館はオンドル部屋にスキー客がすし詰め状態で宿泊することもあったようです。『朝鮮の聚落』記述の1926〜7年頃にはまだスキー場はなく、飯山達雄氏によれば温井里のスキー場オープンはどうも1930年のことであったようです。
なお、テニスコートは旅館『萬龍閣』の施設であったようです。

(注7)1934年発行の金剛山探勝案内記(松浦翠香著)には、温井里の宿泊施設の一覧が載っています。それによると……
(洋式ホテル)
温井里ホテル:朝鮮総督府鉄道局直営(開館5月1日、閉館10月31日)
(日本式旅館)
嶺陽館(温泉内湯あり)
萬龍閣(温泉内湯あり)
松月旅館
(朝鮮式旅館)
太陽館
楓岳館
金剛旅館
京城旅館(温泉内湯あり)
東洋館
慈蔵館
外金剛閣
修養館
信義旅館
蓬莱館
東一旅館
温井旅館
新興旅館

朝鮮式旅館の数が前田寛著『金剛山』(1931年発行)とは一致しません。『金剛山探勝案内記』(松浦翠香著)の説明文では、朝鮮式旅館の料金は各旅館とも同額で記されているので、紹介された朝鮮式旅館にはいわゆる“2級旅館”は含まれていないのではないでしょうか?いずれにしても金剛山観光最盛期の温井里には多くの宿泊施設があったことがわかります。


(注9)単成段丘とは一段だけの河岸段丘のことであるとみられます。河岸段丘とは川の流れによって出来た広くて平らな河原全体がいったん隆起し、その後隆起した広くて平らな土地を川が削り取ることによって出来る階段状の地形のことを言います。つまり温井里(金剛山)温泉は、単成段丘の階段状地形のふもとに沿って湧き出しているということです。温井里の段丘の高さは約3メートルから6メートルもあり、朝鮮地質要報第七巻の調査当時は比較的判別が容易な地形であったとのことです。



朝鮮金剛山(1936年・日之出商行)より、外金剛スキー場


参考文献
東朝鮮・一名元山案内(元山毎日新聞社・1910年)
朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・1914年)
朝鮮金剛山大観(今川宇一郎著・1914年)
朝鮮金剛山(高尾新右衛門著・東京堂書店・1918年)
朝鮮鉱泉要記(1918年・朝鮮総督府警務総監部衛生課)
朝鮮金剛山探勝記(1918年・菊池幽芳著)
朝鮮金剛山(1918年・徳田美術書院)
満鮮遊記(1919年・大町桂月著・大阪屋号書店)
満鮮風物記(1920年・沼波瓊音著・大阪屋号書店)
朝鮮鉱床調査報告(1921年・朝鮮総督府地質調査所)
朝鮮金剛山百景(1924年・大阪朝日新聞社)
満鮮の行楽(1924年・田山花袋著・大阪屋号書店)
山岳・第十九年第二号 朝鮮金剛山(日本山岳会・1925年・旅行記は大平晟)
朝鮮地質調査要報第七巻・江原道温井里温泉調査報文
(1926年・朝鮮総督府地質調査所・調査は1925年9月28日〜10月4日に行われた)
萬二千衆峰朝鮮金剛山(朝鮮総督府鉄道局・1929年)
金剛山(1931年・前田寛著)
金剛山記(1931年・菊池謙譲著)
朝鮮の聚落(1933年・朝鮮総督府)
朝鮮金剛山探勝案内記(1934・金剛山探勝案内社)
朝鮮・昭和10年8月号(1935年・朝鮮総督府)
朝鮮金剛山大観(1936年・徳田写真館)
朝鮮金剛山(1936年・日之出商行)
金剛山(1940年・金剛山協会)
朝鮮鉄道四十年略史(1940年・朝鮮総督府鉄道局)
金剛山(1928・32・33・35・38年版・朝鮮総督府鉄道局)
文芸春秋・昭和19年12月号(1944年・文芸春秋社)
遥かな山やま(1971年・泉靖一著・新潮社)
北朝鮮の山(1995年・飯山達雄著・国書刊行会)



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