近代の始まりと金剛山
朝鮮王朝末期〜日本植民地時代当初の金剛山



1913年刊・朝鮮金剛山写真帖(徳田写真館)から、温井里。
温井里を撮影した写真の中では最も古いもののひとつと思われる。


(2005・9・18 最終加筆)



朝鮮王朝時代までの金剛山

 朝鮮半島では金剛山は古くから名山として知られていました。半ば伝説の世界の話ですが、金剛山四大寺と呼ばれる山中にあった四つの大きな寺院(楡岾寺・長安寺・表訓寺・神渓寺)は皆、新羅時代に創建されたと伝えられています。しかし金剛山に現存する新羅時代の遺物は、山中に三ヵ所ほど遺されている仏塔くらいしかありません。
 また同じく伝説に近い話なのですが、新羅最後の国王、敬順王の王子である麻衣太子は、新興の高麗王朝に降伏を決めた父国王に反対し、金剛山の山中に篭り、そこで一生を終えたとの伝説が残っています。麻衣太子は金剛山中にお墓が残っており、また外金剛温井里の温泉を発見したなど、金剛山に多くの伝説を遺しています(注1)。
 金剛山の記録についてですが、高麗王朝(918−1392)の後期からの金剛山を旅した記録が残っており、この頃から金剛山を観光する人が現れ始めたことがわかります。また高麗王朝末期には、内金剛にあった巨刹、長安寺に中国・元の皇帝の妃から多大な寄進がされたとの記録も残っています。また内金剛に現存する三仏岩や妙吉祥などの石仏は、高麗時代に彫られたものと推定されています。金剛山の存在が歴史の舞台に上ってきたのです。
 朝鮮王朝(1392−1910)に時代になると、金剛山の美を称えた様々な漢詩や金剛山を写した多くの絵画が今に遺されるようになります。多くの文人墨客が金剛山に遊ぶようになった朝鮮王朝時代でも、15世紀の楊士彦(蓬莱)が一番著名で、特に内金剛万瀑洞の巨岩に刻まれた『蓬莱楓嶽元化洞天』という文字など、楊士彦の書を金剛山の岩に刻んだ文字は、古来名筆として知られています。ちなみに現在でも万瀑洞に行けば楊士彦の雄渾な筆跡を堪能できます。
 朝鮮王朝は高麗と違い仏教を抑圧する政策を取りましたが、多くの歴史ある寺刹を抱えた金剛山は高麗時代と変わらずに仏教の聖地でありつづけ、基本的には変化の少ない、静かな時代であったようです。
 その一面、温泉として知られる温井里などは、王朝末期になると温泉にやって来ては地元の人々を激しく搾取する役人があまりに多いので、8ヶ所あった温泉の源泉のうち7ヶ所を埋めてしまったと伝えられています。19世紀後半にになると朝鮮王朝体制の矛盾は深刻化しており、永らく静かであった金剛山にも激動の時代がやって来たのです。

近代の波

 19世紀後半は朝鮮半島にも世界の激動の波が押し寄せ始めた時代でもあります。シャーマン号事件などの外圧を受けるようになった朝鮮王朝ですが、やがて江華島事件(1875年)の結果、日本の手によって朝鮮は開国させられます。開国後、山深き金剛山にも日本人や欧米人などの外国人が訪れるようになっていきました。
 金剛山に最初に注目したのはどうやらイギリス人やドイツ人などの西洋人であったようです。19世紀後半、記録に残っているかぎり金剛山を訪ねた最初の外国人はイギリス人のC.W.キャンベル氏のようです。新設されたばかりのイギリスのソウル副領事であったキャンベル氏は1889年、金剛山を訪れます。その後1893年になると後にインド総督など要職を歴任するG.N.カーゾン氏ことカーゾン卿が金剛山に足を伸ばすことになります。

 金剛山の名を一番最初に広く世界に知らしめた人物は、イギリス人のイサベラ・バード(ビショップ)女史です。彼女は朝鮮以外にも19世紀末の日本・中国などを広く旅行した著名な旅行家で、金剛山には1894年初夏にその足を伸ばしました。
 イサベラ・バード一行は古くから金剛山へ向かうメインルートとして知られていた、断髪嶺と呼ばれる峠を越えて内金剛へ入っていきます。断髪嶺は険しい峠として知られ、古来金剛山中の寺院で出家することを願う人が、内金剛の勇姿が初めて眼前に現れるこの峠で、現世との決別をするために“断髪”する慣わしがあったことから、『断髪嶺』と名付けられたとのことです(注2)。
 断髪嶺を越えて内金剛へ向かうルートは相当な難路だったようです。イサベラ・バード一行の苦労も並大抵ではありませんでした。時代がかなり下り、自動車を利用するなどコースも多少違いますが、1924年6月に京元線の平康から内金剛へ向かった大平晟氏は『山岳第十九年第二号』に、『「こんな道路の運転手を勤めては、寿命が縮まる」とは、予を乗せた運転手君の正直な告白であった。現今におけるこの道路が、いかに悪路であるというよりも、むしろ危険であることを感ずるのであった』。と書いているありさまでした。
 いずれにしても朝鮮半島中部から内金剛へ向かうルートは困難が多く、日本植民地下で開始された金剛山の観光開発は、海路からのアクセスが容易な外金剛の温井里から始まったのです。

 ところで、イサベラ・バード一行たちは断髪嶺を越えた後、内金剛入り口にある長安寺から内金剛最大の景勝地、万瀑洞を鑑賞し、峠を越えて外金剛南部(新金剛)地区にある金剛山最大の寺院、楡岾寺まで足を伸ばし、再び長安寺に戻るといったコースで金剛山を観光しました。イサベラ・バードは当時の朝鮮半島の様子について全体としてかなり“辛口”の批評をしていますが、金剛山についてはその類い希なる美しさを激賞し、金剛山の寺院で出会った、思いやり溢れる純朴な人々のことを評価しています。
 イサベラ・バードの旅行記を読むと、いくつか興味深いことがわかります。まず最初に、日本植民地時代の始め頃(1910年代)の日本人の金剛山旅行記を読んでもわかることなのですが、当時の金剛山の宿泊場所は、『寺院』であったことがわかります。イサベラ・バード一行は長安寺と楡岾寺に宿泊しましたし、1917年に金剛山を旅した文豪、菊池幽芳氏は長安寺と楡岾寺の他に摩訶衍にも宿泊しています。

 当時の金剛山は仏教の地といった印象が強かったようです。先にも紹介したように、朝鮮王朝(1392−1910)は仏教を抑圧していたことは有名ですが、金剛山中では四大寺(楡岾寺・長安寺・表訓寺・神渓寺)を始めとして、山中には多くの寺や仏庵がありました。ちなみに宿泊者には精進料理や松の実のお菓子などが振舞われたようで、イサベラ・バード女史も菊池幽芳氏も普段の食生活との違いや、暑い夏でも使われるオンドルなどに多少の戸惑いを見せながらも、寺での待遇にはそれなりに満足していた様子です。


少し新しい写真ですが、神渓寺で僧侶とともに精進料理を堪能する金剛山観光客
(万二千峰朝鮮金剛山・満鉄京城鉄道局蔵版・1924年より)


 また先に書いた内容と一見矛盾するようですが、朝鮮王朝時代、金剛山へ向かう人々の多くは朝鮮半島の中部から断髪嶺などの険しい峠を越え、内金剛側から金剛山へ入っていったらしいことがわかります。当時どうも東海(日本海)沿岸は海運が発達していないなど、険しい峠越え以上に旅行が難しかったのではないかと考えられます。
 そして金剛山一帯には虎が住み、住民は虎を大変に恐れていたことも興味深い点です。また、菊池幽芳氏の旅行記では、海金剛にはアザラシが多く生息していて、氏は、海金剛遊覧の船の周りを泳いでいるアザラシを見て、『おとぎの国に迷いこんだよう…』と述懐しています。当時の金剛山一帯が手付かずの自然に溢れていたことが彷彿とされます。

元山開港、そして捕鯨

 1880年釜山に続いて元山が開港します。開港後、日本人が元山に居住し始めました。そして1890年頃からは、ロシア人が長箭付近を根拠地として捕鯨を行い始めました(注3)。その後も長箭はロシアの捕鯨基地として使用されていたようですが、1899年にはロシア人ケイゼルリングが、長箭などを韓国政府から正式に借り受けて、捕鯨事業を展開し始めます。1895年頃、長箭には日本人も定住を始め、漁業や商業を営むようになります。こうして金剛山地区にもいよいよ近代の波が押し寄せてきたのです。ちなみに日露戦争後、長箭の捕鯨基地は日本の手に渡り、やがて1910年に誕生した東洋捕鯨株式会社の捕鯨基地の一つとなっていきます。 
 長箭湾(高城湾)は、現在韓国からの金剛山観光客が宿泊する、海に浮かぶホテル『海金剛ホテル』がある場所になっています。そして南北間の鉄道連結にロシアは熱心な姿勢を見せていますが、金剛山地区の開発に前世紀からロシアが関わっていたことに興味を覚えます。
 日本とロシアは朝鮮半島の権益等をめぐり対立を深めて日露戦争に至りますが、現場では必ずしも対立しているばかりではなく、ロシアの太平洋捕鯨漁業株式会社などでは日本人も働いていたなど、様々な交流も存在したようです。


長箭湾に勢揃いした捕鯨船。1916(大正5)年6月17日のスタンプが捺されている貴重な資料です。

金剛山に日本人がやってきた……

 1905年、外金剛の温井里に日本人が住み始めます。やがて朝鮮が日本の植民地となる1910年になると温井里に初めての日本式旅館が建設されることになります。
 また1912年頃には金剛山中にタングステンが発見されます。最初は温井里に住む日本人が採掘を開始したのですが、有望な鉱山だということで三井が鉱山経営に乗り出し、やがて本格的な選鉱所も山中で稼動を始めます。鉱山は金剛鉱山と呼ばれ、主な鉱脈は万物相の近くの新豊里という場所にありました。また、金剛山のあちこちに露出するタングステンを求め、山中を『タングステン掘り』が徘徊するようになったといいます。そして無計画なタングステン探鉱のために自然が破壊されたケースもあったそうです。
 そして日本統治下の金剛山地区には、外金剛駅の裏手の山あいなど外金剛の各地に金鉱が開発されますが、これらはタングステン鉱山よりもかなり規模が小さい鉱山であったようです。

 金剛山の観光開発がはじまる頃、このように金剛山にも様々な形での『時代の波』が押し寄せてきていたのです。しかし1915年頃の金剛山の写真を見ると、現在はハイキング気分で歩ける玉流洞の渓谷など、当時はまさに深山の“沢登り”の世界で、とても軽い気持ちで観光を楽しめる場所ではありませんでした。


1915年刊・朝鮮金剛山写真帖(徳田写真館)から、玉流洞。
沢登りの専門家でもなければ、どこを遡行すればいいのかわからない。


 当時の金剛山の奥地には人がほとんど立ち入ることの無い場所があったとのことで、金剛山に長期滞在して奧地まで探索を行い、『朝鮮金剛山大観(1914年)』を著した今川宇一郎氏は、百川という川を遡った場所に奇岩怪石や多くの滝などの美しい景観が広がる渓谷を“発見”し、『新金剛』と名づけたといいます(注4)。
 当時、まさに秘境の地であった金剛山ですが、今川宇一郎氏は金剛山中に長期間逗留し、その体験をまとめて『朝鮮金剛山大観』を著しました。その他にも金剛山中に3年あまり篭り、絵画の勉強を行なった徳田玉龍という日本人の若者がいたそうです。

 多くの観光名所と同じく金剛山の観光開発も、“秘境”に人の手が入り、開発されていく経過でもありました。その中で金剛山は次第にその神秘性が薄らいでいきますが、逆に大衆的な観光地として大いに人気を集めていきます。続いて金剛山観光開発の開始から、その発展について触れていきます。


注1…高麗に降伏することを肯んぜず、金剛山で一生を終えたと伝えられる麻衣太子と異なり、父敬順王は降伏した高麗で優遇されました。しかし望郷の念止み難く、高麗の首都開城の東南にある都羅山というところに行き、故、新羅の都の慶州の方を望んでいたといいます。
 今、都羅山は南北分断で途切れてしまった京義線の韓国側最北の駅となっています。別々の道を歩んだ親子ですが、息子が篭った金剛山は韓国と北朝鮮の南北交流の最前線となり、父が望郷の思いをつのらせた都羅山は韓国側から北朝鮮を望む最前線となっています。奇しき因縁です。


注2…断髪嶺越えは長い間金剛山へ向かうメインルートでしたが、もっと便利でかつ簡単に金剛山へ行けるルートが出来たため、このルートを使って金剛山へ向かう人はほとんどいなくなったのですが、金剛山電気鉄道が断髪嶺の直下をトンネルで抜けて金剛山へ向かうルートをとることになったため、1930年代から40年代のはじめにかけては金剛山のメインルートとして復活を遂げました。
 第二次世界大戦の激化、そして朝鮮半島の分断によって、断髪峰は再び顧みられることが少なくなりました。が、地形的に見て朝鮮半島中部から金剛山へ向かう最短ルートであることには変わりが無いので、またいつの日にか『復活』を果たすかもしれません。


注3…北東アジアにおける近代捕鯨業の黎明(スラブ研究・神長英輔氏の論文より・2002年)によれば、1889年より元山の南方の一港湾を拠点としてディティモフというロシア人が捕鯨を営みはじめたとあります。この根拠地がどこであったか、確定することは今となっては不可能に近いですが、状況的に見て長箭であった可能性は極めて高いと思われます。

注4…今川宇一郎氏は“新発見”と思ったようですが、実のところ件の渓谷は既知のもので、『聲聞洞』という名前がちゃんと付けられていました。ただ、今川氏の命名した『新金剛』という名は外金剛南部一帯の呼び名として定着し、現在に至っています。

 捕鯨についての記述は神長英輔氏のホームページ(カミナガエイスケのホームページ)を参考・引用させていただきました。氏のホームページは『捕鯨』から見た、ロシア・日本・朝鮮半島などの東アジア史を浮き彫りにしていて、大変に興味深いものです。
この場を借りて御礼申しあげます。


《参考文献》
朝鮮金剛山大観(今川宇一郎著・大陸踏査会・1914年刊)
朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・冨山房・1914年刊)
朝鮮金剛山大観(徳田写真館・1915年刊)
朝鮮金剛山(高尾新右衛門著・東京堂書店・1918年刊)
朝鮮金剛山探勝記(菊池幽芳著・洛陽堂・1918年刊)
万二千峰朝鮮金剛山(満鉄京城鉄道局蔵版・1924年刊)
山岳第19年第2号・朝鮮金剛山(大平晟著・日本山岳会・1925年刊)
金剛山記(菊池謙譲著・鶏鳴社・1931年刊)
朝鮮紀行<Korea and Her Neighbours>(イサベラ・バード著・時岡敬子訳・講談社学術新書・1998年)
北東アジアにおける近代捕鯨業の黎明(スラブ研究・神長英輔氏の論文より・2002年)
植民地朝鮮の日本人(高崎宗司著・岩波新書・2002年刊)



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