金剛山観光の開始と発展



内金剛にあった長安寺ホテル
(金剛山・徳田写真館・1930年より)

(2005・9・18 最終加筆)



観光の開始

 旅館やホテルなどに宿泊しながら観光を楽しむ“近代的な金剛山観光”は、どのように始まったのでしょうか?近代的な金剛山観光の開始には、朝鮮半島を植民地として支配していく日本人の進出が大きく関わっています。私が今のところ把握している中で、日本人としては1909年3月に高尾新右衛門氏が金剛山に足を伸ばした記録が残っています。氏は「せっかくの名山も、日本人ばかりでなく朝鮮人も知る人が少なく、たまたま朝鮮半島東海岸を旅している時に、『温泉があって、寺院もある』という話を聞いて、金剛山まで足を伸ばしたところ、思いがけなくも素晴らしい山々に出会えた」。などと書き記しています。
 当時既にイギリス人やドイツ人らが金剛山に足を伸ばし、旅行記などを公表していたわけで、かなり誇張された記録かもしれませんが、当時はまだまだ金剛山は知られることの少ない秘境であったのでしょう。
 1905年には外金剛の温井里に日本人が定住を始め、日本が韓国を併合した1910年には、日本人が温井里に初めて旅館を建設しました。そして翌1911年6月には軍所属の薬剤師である坂本金次郎氏が温井里温泉の成分分析を行なっています。日本人は温泉好きですが、まだほとんど開発がされていない金剛山で、早くも温泉の成分分析まで手がけるとは、まあずいぶんと手が早い感じです。
 1914年頃になると、日本人が経営する旅館兼雑貨店が3〜4軒、温井里で営業をしていたようです。しかしこの当時の温井里はというと、まだ『荒野に2〜30の朝鮮人の住む家があって、温泉はあるのだけれど交通の便が悪いので客は少ない』。という状態だったようです。

始政5年記念朝鮮物産共進会

 近代的な金剛山の観光開発は意外と早い時期に開始されました。まだ日韓併合前の1908年頃、朝鮮統監府は金剛山を調査したと伝えられています。そして1913年頃から朝鮮総督府鉄道局は金剛山観光開発と宣伝に着手します。また同じ頃、江原道金剛山保勝会という金剛山中の道路や標識などの整備や、観光資源の保全を目的とした団体が旗揚げされたようです。
 1915年頃には金剛山へ向かう道路の整備も行なわれ始めました。1915年は日本の韓国併合から満5年目であり、『始政5年記念朝鮮物産共進会』という催しが大々的に行なわれました。共進会開催を記念した事業の一つとして、京元線方面から金剛山(内金剛)へ向かう道路が整備されたようです。ただ、整備されたとはいっても何とか自動車が通れるくらいの道路で、バスなどの定期の自動車運行はなく、人力車もあったようですが常駐している場所が少なく、まだまだ徒歩や馬での利用が中心の道路だったようです。またこの内金剛へ通じる道路は水害などで交通が困難になることが多かったようです。
 始政5年記念朝鮮物産共進会の開催中、共進会の江原道協賛会(注1)が内金剛の入り口にある末輝里に食料品や絵はがきなどの売店を兼ねた金剛山観光の案内所を設け、観光客相手に自動車や人力車などの世話などを行い、更に旅館を開設して宿泊・休憩を行うことができるようにするなど、金剛山観光振興も始まりました。1915年に末輝里の旅館に宿泊した徳富蘇峰氏によれば、末輝里の旅館は元来面役所であった建物を利用して作られたとのことです(注2)。
 外金剛側でも共進会の行なわれていた1915年8月10日に、朝鮮鉄道局(南満州鉄道会社…注3)の経営する金剛山ホテルという西洋式ホテルがオープンします(注4)。 当時の朝鮮半島には近代的なホテルはほとんどありませんでした。だいたい韓国一の老舗ホテルといわれるウェスティン朝鮮ホテルですら創業は1914年のことで、多くの人々にとって金剛山が未知であった時代にホテルを建設したというのはまさに英断というしかありません。

萬二千峰・朝鮮金剛山(1924年・満鉄京城鉄道局版)より、温井里ホテル応接間

萬二千峰・朝鮮金剛山(1924年・満鉄京城鉄道局版)より、温井里ホテル寝室
上の写真を見るとなかなかおしゃれなホテルと思える。確かにこのホテル、旅行記を読むと『簡素ながらも気持ちの良いホテル』という評価が多く、評判は良かったようだ。

最初は船便が主流であった

 外金剛入り口の長箭への船便も便利になりつつあったようです。1915年当時、元山ー長箭の船便は一ヶ月に6便となっていましたが、6月1日から10月末までは金剛山探勝客のために、一ヶ月に12往復以上していました。1917年に元山から長箭までの船便を利用した菊池幽芳氏によれば、夏季の元山ー長箭の船便は、元来の往復便(月6回)に加えて、朝鮮郵船会社の元山ー雄基便(月10回)を元山ー長箭間を延長して運行する形で、都合月16往復運行していたようです。また内金剛側と同じく、自動車の運行は可能であったとはいえ1917年頃、元山ー長箭間は定期の自動車運行はまだ無く、陸路で行く場合には人力車を用いる場合が多かったようです。
 当時から長箭には馬車と人力車があって、長箭から外金剛の探勝基地である温井里へ向かうことは比較的簡単でした。先に紹介した金剛山ホテルですが、完成の2年後である1917年に宿泊をした菊池幽芳氏によれば、ホテルはスイスコテージ風の建物であり、氏はかなり気に入ったようです。1918年に南満州鉄道京城管理局が発行した『朝鮮金剛山観光案内』によれば、ホテルの部屋数は10室で、ツインがダブルかははっきりとしませんが、部屋は二人部屋だったようです。つまりホテルの宿泊定員は20名、かなりこぢんまりとしたホテルだったのでしょう。また、1915年刊行の金剛山遊覧の栞によれば、当時の温井里には日本旅館が5ヶ所、その他郵便局と憲兵派遣所があったようです。
 『朝鮮金剛山観光案内』によれば、1918年の温井里には5軒の日本旅館があり、また同じ1918年に発行された『朝鮮鉱泉要記』によれば、温井里には朝鮮人の経営する宿が10軒あったとのことで、次第に栄えてきていることがわかります。
 また、『朝鮮金剛山観光案内』には、内・外金剛へ向かう毎日1便の定期自動車の運行がされていたと書かれていますが、実際の運行状況は後述のようにかなり不確実であったようです。
金剛山への旅は、最初は元山から長箭に入る船便が主流だったのです。

鉱山に泊まりながら金剛山探勝

 また1918年頃、金剛山中でタングステンの採掘が一時的に盛んになって、三井鉱山が山中に4ヵ所、鉱山事務所を設けましたが、その鉱山事務所も金剛山観光客が泊ることができたようです。例えば1917年に金剛山を歩いた作家、菊池幽芳氏は三井が経営するタングステン鉱山事務所に一泊します。翌年、金剛山を旅した青年、間野氏もやはりタングステン鉱山の職員宅に宿泊しており、鉱山にやっかいになりながら金剛山を歩くということは、当時決して不思議なことではなかったようだ。
 そして同じく1918年、金剛山の各地をくまなく見て廻った歌人、大町桂月氏に至っては、やはり三井が経営する三カ所のタングステン鉱山事務所に宿泊し、一ヶ所の事務所で休憩をとります。これら鉱山事務所は金剛山の奥深くにあって、大月桂月氏は宿泊した鉱山事務所で実に面白い(というか怖い)経験することになります。夕食にイノシシの肉が出てきたですが、このイノシシの肉というのが、なんとオオカミが食い残したイノシシ肉だったのです。ところで大町桂月氏は実に剛の者で、このオオカミ食い残しのイノシシ肉を大層喜んで食べたそうです(笑)。
 実際、観光施設の整備が始まったとはいえ最初はまだこの程度で、当時は金剛山は『旅行』をするというよりも、まだまだ『冒険』に行くといった感じが強かったのかもしれません。


内金剛側の様子

 ところで内金剛側の様子はといえば、1910年代後半から20年代にかけて次第に道路・鉄道網の整備が進み、次第に京元線の鉄原や平康または洗浦から自動車を用いて内金剛へ向かうルートにも目が向けられるようになります、が、しかし、朝鮮鉄道局(南満州鉄道会社)が、長安寺の建物(極楽殿)を改築してホテルとするまでは、観光客は寺院の宿坊に泊るしかなかったようです(注2)。1918年7月に長安寺を間借りしてホテルがオープンしますが、寺を間借りしたホテルは、1924年にホテル専用の建物が完成するまで使われることになります。
  長安寺の極楽殿を改修した“ホテル”と“バンガロー”に、大阪朝日新聞主催の撮影旅行隊が1923年に泊った記録によると、思いのほか快適であったようで、夕食にはバンガローの近くて捕らえた『熊のフライ』が出たとの興味深い話も残っています。
 しかし他の記録を読むと、朝鮮寺院の建物を改修しただけの長安寺ホテルはやはりかなり珍妙なホテルであったようで、特に寺の中に西洋式バスタブがでんと置かれた形の浴室は多くの宿泊客を驚かせたようです。またホテルの宿泊客は早朝から寺の僧侶たちのお勤めの音でたたき起こされることの多かったといいます。その他、長安寺ホテルの本体の建物が完成する前に、長期避暑客にとっては貸し別荘にもなる“バンガロー”完成していました。バンガローの借り賃はかなり高額で、実際に利用していたのは多くの場合西洋人であったようです。また、当時金剛山を旅する人のかなりの割合が西洋人であったとの記録もあります。日本人や朝鮮人はまだまだ金剛山まで足を伸ばす余裕が少なかったのがその理由でした。

1920年代になると……

 1920年頃には長安寺にもやっと日本式の旅館が建ち始め、朝鮮人の経営する蕎麦屋や飲み屋も出来始めたようです。しかしまだまだ温井里の観光化の方がかなり先行していました。1923年の大阪朝日新聞主催の撮影旅行隊の記録や1924年に金剛山を登山した大平晟氏によれば、温井里には日本から流れてきた芸妓とも娼妓ともつかぬ女性がいたとあり、また大平晟氏は温井里には『日本人経営の旅館が5軒、朝鮮人経営の旅館が十数軒、また雑貨店や菓子店も多く、温泉場らしく料理屋なども繁盛していた』。などと述べています。
 しかし、大平晟氏の金剛山旅行記録を読むと、内金剛の長安寺へ向かう乗合自動車も外金剛の温井里へ向かう乗合自動車も、現地へ行くまで運行しているかどうかすらはっきりわからない状態で、実際元山ー温井里間の乗合自動車は運行されていなかったありさまでした。大正時代は金剛山自体、観光地として確立されておらず、まだまだ発展途上であったようです。
 温井里と長安寺にホテルを経営していた朝鮮鉄道局(南満州鉄道会社)も、わざわざ京城(ソウル)にある朝鮮鉄道局(南満州鉄道会社)経営の朝鮮ホテルの従業員を金剛山に派遣していたとのことで、採算は度外視していたようです。現在、韓国の現代財閥が金剛山観光を大赤字を出し続けながら7年余り続けていますが、規模が全然違うとはいえ、日本植民地時代も同じようなことをやっていたことに興味を覚えます。

金剛山電気鉄道の建設開始

 そのような中、金剛山観光の流れを変える一大事が起こります。金剛山電気鉄道株式会社が1919年に設立されたのです。1918年7月に金剛山地区を踏査した久米民之助氏が、金剛山の観光資源としての可能性と東側が急で西側がゆるやかな朝鮮半島の地形に注目し、西に流れる水を東側に落とし水力発電を行い、その電力を用いて金剛山までの電化された鉄道を運行するという計画を立案したことに端を発し、1919年には久米氏が社長となって『金剛山電気鉄道株式会社』が発足します。折りから世界中を襲った不況や険しい地形、更には関東大震災のために発注していた機械が焼失するなどといったアクシデントにも見舞われますが、1921年には鉄道建設工事が開始され、1924年8月1日より一部運行が開始、そして工事開始から約10年を経た1931年7月1日、内金剛までの全線が開通しました。
 金剛山電気鉄道の延伸に伴い、長安寺もどんどん日本式や朝鮮式の旅館などが建つようになります。1931年7月、金剛山電気鉄道の内金剛開通直後に金剛山を訪れた菊池謙譲氏によれば、長安寺について、『旅館あり、料亭あり、店舗あり、写真館あり…』と記しており、約10年間の間に観光施設が急速に充実していったことがわかります。

 また元山から東海(日本海)を南下する東海北部線も順次建設がなされ、1932年には温井里に程近い外金剛駅を通り海金剛近くの高城まで延長されました。当時、5月〜10月の日曜祝祭日の前日には金剛山観光客のためにソウル駅から内金剛駅、そしてソウルから外金剛駅に向かう夜行直通寝台列車を運行するようになっていました。


(注1)『江原道協賛会』について記述されている、1915年刊の金剛山遊覧の栞(朝鮮総督府鉄道局刊)の文脈からいえば、協賛会とは始政5年記念朝鮮物産共進会の『協賛』を目的とした会と思われます。
 また、財団法人金剛山協会が1932年に設立される以前、金剛山の宣伝や観光設備の充実を行なっていた、『江原道金剛山保勝会』という組織がありました。保勝会は1911年頃に設立された組織のようです。(金剛山協会の注も参考にしてみてください)。


(注2)菊池幽芳氏の朝鮮金剛山探勝記(1917年金剛山を旅行)によれば、内金剛の入り口にあたる末輝里には、当時から日本旅館があったとのことです。これは1915年の始政記念共進会の開催中、江原道協賛会が開設した旅館と同じである可能性が高いと思われます。
 また朝鮮金剛山百景(1924年)と山岳第19年第2号・朝鮮金剛山(1925年)によれば、三仏岩のそばにある白華庵を借りて『表訓寺ホテル』というホテルがあったが、1915年にオンドルからの失火によって消失した……とあります。1915年刊の金剛山遊覧の栞(朝鮮総督府鉄道局刊)によれば、やはり1915年の始政記念共進会の開催中に江原道協賛会が白華庵に、『炊事場・浴場・便所を新設し、日本食を出す設備を作る』との記述があり、これが表訓寺ホテルのことであると思われます。
 しかし金剛山記(1931年)によれば白華庵の火事による消失は1919年10月のこととされています。他の資料などから見ても白華庵の火事は1915年ではなく、1919年である可能性が高く、始政記念共進会終了後の表訓寺ホテルがどうなったのかについては、今のところ不明です。


(注3)朝鮮半島の鉄道は、1917年から1925年にかけて経営を満鉄(南満州鉄道)に委託していました。そのためその間に発行された金剛山探勝案内は朝鮮総督府鉄道局ではなく、『南満州鉄道』が発行した形になります。

(注4)『19世紀末〜日本植民地時代の温井里について』の注でも触れましたが、温井里にあった朝鮮総督府鉄道局経営(1917〜25は南満州鉄道経営)のホテルは、当初は金剛山ホテルと呼ばれ、長安寺に長安寺ホテルが出来た後に温井里ホテルと改称され、更に外金剛山荘と改称された。


《参考文献》
朝鮮金剛山大観(今川宇一郎著・大陸踏査会・1914年刊)
朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・冨山房・1914年刊)
金剛山遊覧の栞(朝鮮総督府鉄道局・1915年刊)
朝鮮金剛山大観(徳田写真館・1915年刊)
朝鮮金剛山(高尾新右衛門著・東京堂書店・1918年刊)
朝鮮金剛山探勝記(菊池幽芳著・洛陽堂・1918年刊)
朝鮮鉱泉要記(朝鮮総督府警務総監部衛生課・1918年刊)
朝鮮金剛山探勝案内(南満州鉄道株式会社京城管理局・1919年刊)
満鮮風物記(沼波瓊音著・大阪屋号書店・1920年刊
万二千峰朝鮮金剛山(満鉄京城鉄道局蔵版・1924年刊)
朝鮮金剛山百景(大阪朝日新聞社・1924年刊)
烟霞勝遊記(徳富猪一郎著・民遊社・1924年刊)
満鮮の行楽(田山花袋著・大阪屋号書店・1924年刊)
山岳第19年第2号・朝鮮金剛山(大平晟著・日本山岳会・1925年刊)
金剛山(徳田写真館・1930年)
金剛山記(菊池謙譲著・鶏鳴社・1931年刊)
朝鮮・昭和6年7月号より 『朝鮮に於ける観光事業に就て』(朝鮮総督府・1931年刊)
金剛山(1928・1932・1933・1935・1938年版:朝鮮総督府鉄道局)
朝鮮鉄道四十年略史(朝鮮総督府鉄道局・1940年)
鉄道ピクトリアル1969年8月号・韓国における鉄道網の形成過程(中川浩一著)
韓国温泉物語(竹国友康著・岩波書店・2004年刊)



近代の始まりと金剛山へ戻る

金剛山の昔話に戻る

金剛一万二千峰へ戻る

のりまき・ふとまきホームへ戻る


日本植民地下での最盛期を迎えた金剛山観光へ進む