日本植民地時代での
最盛期
を迎えた金剛山観光



金剛山最高峰、毘盧峰山頂近くに建設された久米山荘
ここまで登ってきた女子学生たちの姿が見えますね。


(2005・9・19 最終加筆)


 金剛山電気鉄道、そして東海北部線の相次ぐ鉄道の開通によって、1932年頃から戦争が激化する1940年頃まで、戦前の金剛山観光はその最盛期を迎えました。昭和初期、都市文化の発展は旅行に対する関心の高まりを生み、また当時、激しさを増す日本の大陸進出の影響で、朝鮮・満州の旅はブームとなっていました。そのような中、当時の金剛山は朝鮮半島一の観光地にまで成長したのです、これから最盛期を迎えた金剛山とその観光の様子を振り返ってみたいと思います。

温井里の観光施設

 金剛山は観光設備の整備が進みました。まず温井里から見てみると、まず鉄道開通の翌年、1933年には洋式二階建ての共同浴場『金剛温泉』がオープンします。これはこれまであった共同浴場を大改修したもので、金剛温泉には男女別の大浴場の他に、家族・団体用の貸し湯があり、また休憩室や娯楽室の設備が備わっていたといいます。
 温井里では増加する金剛山観光客に応えるために、旅館が次々と建設され、また既存の旅館も増築がなされました。1934年に金剛山探勝案内社という会社から発行された「金剛山探勝案内記」というガイドブックによれば、温井里のホテル一ヶ所、日本式旅館三ヶ所、朝鮮式旅館十三ヶ所が紹介されています。このガイドブックに載っていない宿泊施設もあったようで、当時の温井里には多くの宿泊施設があったことがわかります。  旅館の増築については、金剛山中一の老舗旅館である嶺陽館が、早くも1928年に増築して三階建てとなっていました。三階建ての嶺陽館は実に堂々たる建物で、一度に百名余りの客を泊めることが出来たといいます。また嶺陽館のライバルである萬龍閣も、1934年までには増築を行ないます。
 温井里にはその他みやげ物店や飲食店が数多くありました。また喫茶店、カフェーもあって、とある旅行記によると「あるカフェーでは蓄音機から東京音頭が聞こえて、店先に水色の朝鮮服を着た女給が二人立っていた」というから面白いです。またこの頃には相当な規模の妓楼まで出来ていたというから、カフェーといい妓楼といい、温井里は歓楽街的要素も強まっていたようです。


金剛山一の歴史と伝統を誇った旅館、嶺陽館
三階建ての堂々たる建物には、一度に100名以上の人が宿泊出来たという。

長安寺の観光施設

 内金剛側の長安寺も発展をしました。これまで紹介したようにもともと小さいなりにも集落があった温井里とは違い、長安寺は金剛山観光が始まる以前は文字通り寺しかありませんでした。それが長安寺ホテルを皮切りに旅館や食堂、酒屋などが建ち始め、やがて長安寺村とか長安寺と呼ばれる観光のための集落ができ上がったのです。そういうわけで長安寺村にしろ長安寺にしろ、その呼び名は正式な地名ではなく、あくまで俗称となります。
 内金剛まで鉄道が完成した1931年以降、長安寺にはみやげ物店なども立ち並ぶようになり、栄えるようになります。ただ、「金剛山探勝案内記」に紹介された長安寺の宿泊施設は、ホテル一ヶ所、日本式旅館二ヶ所、朝鮮式旅館五ヶ所と温井里と較べて少なく、温井里と較べるとぐっと小さな集落だったようです。
 温井里の冬のスキーに対して、長安寺は夏の避暑地として知られていました。内金剛の山懐に抱かれ、針葉樹林に囲まれた閑静な雰囲気漂う長安寺は、真夏でも暑さを知らない避暑地として当時の京城(ソウル)在住者に多大な人気を博したといいます。朝鮮総督府鉄道局の手によって長安寺にもテニスコートが作られ、また、長安寺ホテルには川の水を引いたプールが作られたいいます。そのような話からも、当時の長安寺の避暑地らしい光景が目に浮かびます。

金剛山各地の観光施設

 金剛山の玄関口である温井里、長安寺ばかりではなく、金剛山の奥でも道や施設の整備が進みました。まず道ですが、最高峰毘盧峰へ向かう久米越以外にも、美しい滝や渓谷がある九成洞を始め、いくつかのコースが整備され、そのおかげでメインのコースはハイキング気分で歩けるようになりました。
 また、金剛山にはバスの路線もありました。外金剛駅から温井里、また内金剛駅から長安寺を結ぶバスの他に、例えば内金剛、外金剛、海金剛という、お互い離れた観光地を結ぶ役目を果たすバスなども走っていました。そして団体観光客のために貸切自動車も用意されていました。
 金剛山奥地を目指す本格的登山客のために、金剛山にはいくつかの山小屋が建てられました。いちばん有名かつ設備の良い山小屋は、金剛山最高峰である毘盧峰直下に建てられた久米山荘です。山小屋・登山道に付けられた久米の名前はもちろん金剛山電気鉄道の創始者、久米民之助氏の名前を取ったものです。山小屋ばかりではなく山中の要衝にも旅館が建てられ、泊まりがけで金剛山の奥地を楽しもうとした観光客にとって大変に便利になりました。
 また、金剛山の各地には茶店と呼ばれる休憩所が建てられました。茶店で観光客はビールやサイダーなどの飲み物や金剛山名物の松の実羊羹などお菓子を注文することができました。茶店によっては軽食を注文することも出来たといいます。また景勝地にある茶店では記念撮影も出来ました。また、茶店にはスタンプ台が置かれ、今に残る戦前の金剛山の絵はがきや写真集の多くに、山中の茶店で押したスタンプが残っています。
 一九三五年ごろ、外金剛の長箭南方の浜辺に金剛荘、海金剛の永郎湖近くに永郎荘という別荘地開発が行なわれました。金剛荘の別荘分譲地は、そのほとんどが好評のうちに売約されたとの話も伝わっていますが、分譲後いったいどうなったのかわかりません。いずれにしても金剛山に別荘が立ち並ぶ日が来ることはありませんでした。

多くの観光客を集めた金剛山

 金剛山の観光シーズンは一般的に初夏から秋になります。内金剛と同じく観光シーズンの日・祝日の前日には、外金剛へ京城から金剛山観光客のために夜行寝台列車が走っていました。当時の金剛山観光人気は極めて高く、特に秋の紅葉時の混雑はすさまじかったようです。ひっきりなしに観光客を運ぶバスを運転していたのにもかかわらず、外金剛駅前はバス待ちの観光客で溢れ、外金剛のメインルートである九龍の滝方面は、紅葉を見に来たのか人を見に来たのかわからなくなるありさまであったといいます。
 ちなみに1934年には外金剛駅を一万一千人あまりの団体観光客が利用したとの記録が残っています、その多くが朝鮮内の鉄道駅長が斡旋した朝鮮人の観光客でした。また同じ年、温井里を利用した観光客は日本人一万五千人あまり、朝鮮人一万八千人あまりの合計三万四千人近くに及びました。ちなみに金剛山電気鉄道の社史によると、1934年の内金剛側の金剛山観光客は一万四千人あまりだったといいますから、内金剛と外金剛で観光客数がある程度だぶることを考えても、1934年は金剛山全体で約四万〜五万人の観光客がやってきたようです。これは当時国立公園に指定されたばかりの雲仙や日本アルプスの観光客を上回る人数であったといいます。
 また、金剛山電気鉄道の社史にも金剛山観光の隆盛振りを伺わせる資料があり、1939年には金剛山観光客は24892名に達しています。戦争の激化はあっても、当初は1934年以降も金剛山観光は順調であったようです。
 一般的に観光のオフシーズンになる冬も、温井里には多くの観光客がやって来ていました。スキーばかりではなく温泉も楽しめる温井里のスキー場は、当時のスキーヤーの絶大なる支持を集めていました。温井里の旅館では押し寄せるスキーヤーを誰彼の区別なくオンドル部屋にぎっしり詰め込み、一泊三食、さらにスキー道具をレンタルして、通常の宿泊価格の三割〜四割引で泊めていました。当時、秋口に萬龍閣に宿泊した観光客に対して旅館の主人は「今年の冬は雪が深ければいいな〜」と、つぶやいていたといいます。
 四季を問わず多くの観光客を集めた温井里は、朝鮮半島一の観光地、金剛山の中心として全盛期を迎え、1925年にはまだ三百人程度であった人口が、1930年には五百人を越え、そして一九三五年頃には千人を越えるまでに発展しました。

以下に金剛山観光最盛期の頃の、観光についての資料を紹介します。


1932〜40年頃の日本統治下最盛期の金剛山観光資料


交通機関

鉄道

金剛山電気鉄道
鉄原ー内金剛間一日3往復(5〜10月の日曜・祝祭日の前日のみ、ソウルー内金剛間の夜行寝台列車増発)

東海北部線
安辺ー内金剛間一日4往復(5〜10月の日曜・祝祭日の前日はソウルー内金剛間の夜行寝台列車運行
                  こちらは通常列車に寝台車を連結をする形式で運行していたようだ)


金剛山地区内バス

(内金剛)
内金剛駅ー長安寺:金剛山電気鉄道の電車の到着とあわせて連絡バスを運行
末輝里駅ー温井嶺口


(外金剛)
外金剛駅ー温井里
温井里ー六花岩
温井里ー神渓寺
温井里ー高城ー海金剛
高城ー百川橋

(注:各バスの本数は年毎にかなりの変動がある、また、上記のバスは基本的に5〜10月の観光シーズン運行でした)


また、内外金剛ともに貸切自動車(一台7人乗り)があった。


金剛山(1940年・財団法人金剛山協会刊)より、寒霞渓を行く観光バス


その他

海金剛遊覧船
@松島めぐり、A海万物相めぐり、B松島・海万物相めぐり、C松島・海万物相・水源端灯台めぐり
以上4コースがあった。



宿泊・休憩施設

内金剛

(末輝里)
金剛旅館

(内金剛駅前)
不知火旅館(日本式旅館:金剛山電気鉄道が建設し、委託経営形式をとっていた)

(長安寺)
内金剛山荘:鉄道局直営ホテル、1926年当時客室26室。付属施設としてバンガロー形式の別荘も5棟あった…注1
内金剛旅館・蓬莱館(日本式旅館)
唯一旅館・長安旅館・金剛山旅館・平和旅館・玉泉旅館など(朝鮮式旅館)


(摩訶衍)
摩訶衍旅館(朝鮮式旅館)

外金剛

(温井里)
外金剛山荘:鉄道局直営ホテル、1926年当時客室20室。温泉内湯があった…注1
嶺陽館・萬龍閣・松月旅館(日本式旅館・嶺陽館と萬龍閣には温泉内湯あり)
金剛旅館・温井旅館・京城旅館・外金剛閣・楓岳館・東洋館・太陽館・慈蔵館・修養館・信義旅館・蓬莱館・東一旅館・新興旅館など(朝鮮式旅館・京城旅館には温泉内湯あり)


(楡岾寺)
山映館(朝鮮式旅館)

海金剛
(立石里)
高城館支店

高城
高城館・花屋

長箭
旭屋旅館

記録に残っている朝鮮式の宿泊施設以外にも、金剛山中の各地に朝鮮式の宿泊施設が点在していたようです。記録に残っていない宿泊施設は、現在の韓国で見られる旅人宿や、民泊に近いものだったのかもしれません。また金剛山観光最盛期の頃でも、金剛山の各地に点在している寺院に宿泊することが出来ました。


山小屋
毘盧峰:久米山荘(建設当初は収容人員80名、後に130名となった。石造りの頑丈な山小屋であった。
            山小屋としては異例ことに風呂があり、無線電信・電話の設備も備わっており、郵便も取り扱っていたようです)…注2
     龍馬石小屋(久米山荘よりもう少し山頂から下ったところにあった山小屋)
彩霞峰:彩霞小屋(石畳・オンドル式の無人小屋で、収容人員約8名)
集仙小屋:金剛山ロッククライミングのメッカ、集仙峰にあった山小屋
四仙橋:四仙橋茶店(茶店兼朝鮮式宿所)
その他、外金剛温井里近くの外金剛スキー場近くにも山小屋があったようです。



冬の彩霞小屋の朝。小屋で夜を明かした登山客が、出発の支度をしている。(写真・朝鮮の山)

キャンプ場
 内金剛の奥地にあって交通の要衝である四仙橋に、朝鮮総督府鉄道局の手によってキャンプ場が建設され、1931年以降の夏季に利用された。炊事場・食堂・風呂場などが設置されたかなり本格的なキャンプ場だったようです。

茶店
金剛山中には、観光客の休憩場所として多くの『茶店』がありました。
茶店では、サイダーなどの飲み物や金剛山名物であった『松の実羊羹』などのお菓子などが購入することが出来ました。茶店によっては食事も出来たようです。


※茶店のあった場所…茶店の名が判明しているものは名前も記しました。
内金剛:明鏡台
     蓮華潭
     万瀑洞金剛門
     普徳窟・・・普徳荘(普徳荘のチラシ
     摩訶衍
     四仙橋・・・四仙橋茶店(朝鮮式宿泊所兼用)
     毘盧峰・・・毘盧峰茶店
     龍馬石
     内霧在嶺
     朝陽瀑布・・・朝陽瀑茶店
     温井里口
外金剛:六花岩・・・六花亭
     万相渓
     万相亭・・・万相亭
     極楽けん(山偏に見)
     神渓寺
     船潭
     九竜淵金剛門・・・金剛門茶店
     九竜瀑布・・・観瀑亭
     九竜台
     九潭谷

海金剛:立石里
     叢石亭

金剛山最高峰・毘盧峰直下にあった毘盧峰茶店

別荘地
 1935年ごろ、外金剛の長箭南方の浜辺に金剛荘、海金剛の永郎湖近くに永郎荘という別荘地開発が行なわれたようです。金剛荘の場所は今現在、韓国現代グループの金剛山観光で海水浴場として利用されている海辺付近と思われます。金剛荘は50坪以上の区画で売り出され、一坪2円・3円・4円の区画がありました。金剛荘の別荘分譲地は、そのほとんどが好評のうちに売約されたとの話も伝わっていますが、分譲後いったいどうなったのかは現在のところ不明です。


登山道などの整備

 1929年、久米越という金剛山最高峰・毘盧峰への登山道が整備されました。金剛山電気鉄道初代社長、久米民之助氏が社費を投じて開拓したとのことです。ちなみに建設費用総額は12000円になったそうです。コース的には内金剛・四仙橋そばより毘盧峰に登り、毘盧峰からは外金剛九竜の滝へ降りるコースでした。
 また1931年、内金剛九成洞を探勝するコースも整備がされました。それによって朝陽の滝(現在名;玉永の滝)をはじめとする九成洞の景勝を観光することが容易となりました。こちらの建設費は2400円とのことです。そして1932年7月には温井里から万物相入り口の六花岩までの自動車道路が完成します。
 1936年には内金剛側では(1)天化峰ー内霧在峰、(2)万瀑洞入口ー須彌庵の2コース、外金剛側でも(1)温井里ー水晶峰、(2)六花岩ー奧万物相の2コース、そして外金剛側の万相亭と内金剛の朝陽瀑布を結ぶコースの、合計5コースの整備がされるなど、登山道の整備も次々と進められていきました。その結果として内金剛の万瀑洞や外金剛の九竜淵などのメインルートは、ハイキング気分で楽しめるようになったようです。そして険しい道のりで人を容易に寄せ付けなかった万物相や望軍台なども、特に大きな困難なく登山を楽しめるようになったようです。ただ、大変に険しい彩霞峰、集仙峰や世尊峰、そして新金剛奥地の渓谷などは、やはり登山のプロの世界であったようです。その中でも特に集仙峰はロッククライミングの名所としても知られていたようです。集仙小屋は金剛山の岩場に挑むロッククライマーたちのために、1939年に完成しました。

 内金剛駅前には各種講習会・研修会などに用いられた公会堂『金剛閣』がありました。公会堂の額は齊藤実・元朝鮮総督の揮毫であったそうです。一方、外金剛・温井里にも公会堂があり、またキリスト教の修養館(セミナーハウス)なども建設されました。
 そして外金剛にはスキー場もありました。場所的には外金剛駅の比較的近くで、現在の金剛山観光施設:温井閣の裏の方の山であったと思われます。


スキー場
 金剛山各地にスキー場も開設されました。最も有名だったのが温井里近くの外金剛(温井里)スキー場で、年末年始はスキーと温井里の温泉を楽しむ人たちで温井里は賑わったといいます。1935年頃、冬期はスキー客で温井里の旅館は賑わい、オンドル部屋にスキー客がすし詰めになることもあったようです。
 その他にも内金剛側にも末輝里の近くに末輝里スキー場、内金剛駅近くに外金剛(朴音峠)スキー場があり、更に動石洞の奧地にもスキー場があったようです。



その他
 金剛山地区の観光には、ガイドや駕籠を雇うことができました。ガイドや駕籠はやはり長安寺か温井里で雇う形となっていました。駕籠は頼めば毘盧峰まで登ったそうなので、お金さえあれば自分の足を使わずに金剛山の最高峰まで行きつくことが出来ました。ちなみに駕籠は1934年頃、内金剛長安寺に20台、外金剛温井里には16台あったそうです。
 また、金剛山中の神渓寺・万相亭は季節中(5月1日〜10月31日)は、郵便や電報・電話の取り扱いをしていました。そして前述のように、毘盧峰直下の久米山荘でも郵便や無線による電信・電話の扱いがされていたようです。
 金剛山中の各名所には記念写真を撮影する写真師がいました。内金剛は『内金剛繁栄会』、外金剛は『外金剛写真師同業組合』という写真業者の組合組織もあって、写真代などは協定料金が定められていました。



果たせなかった金剛山観光開発

 1930年代後半からの日本は、日中戦争ー太平洋戦争へと進んでしまった時代でもあります。当時、多くの観光客の人気を集めていた金剛山の観光開発はさらに押し進められる予定がありました、しかし情勢はそれを許さず、1945年8月の日本敗戦を迎えます。
 計画がありながら実現しなかった金剛山観光開発と、当時、金剛山観光で指摘されていた“課題”についてもここで少し触れてみたいと思います。

@国立公園計画…金剛山を日本の国立公園としようとした計画。日本の国立公園の父と言われる
           田村剛氏は、金剛山を国立公園に指定して環境を保護するとともに、交通機関
           や宿泊設備を充実させることにより、世界各地から観光客を誘致できる、国際的な
           観光地とすることを提唱していました。

A内金剛ー外金剛の自動車連絡道路…内金剛ー外金剛の自動車連絡道路は日本植民地時代には
                        結局完成しませんでした。自動車道路は万物相のそばを通る
                        コースとなるので、当時から“”自然破壊にならないか?”という
                        懸念が囁かれていました。

B長箭までの金剛山電気鉄道延長…これも計画だけで実現しませんでした。内金剛から金剛山を越え、
                      長箭まで金剛山電気鉄道を延長して、東海北部線に連結する計画は
                      かなり早い時期からあったようなのですが、金剛山の険しさと情勢の
                      厳しさのため、実現しませんでした。

C旅館等の宿泊施設の不足…観光客の増加に伴い宿泊設備の増加。そして施設の改善が望まれていました。

D自然環境の保護など…観光客の増大に伴い、自然環境の保護は当時から問題とされていました。また金剛山
               にはタングステンなどの鉱物資源の埋蔵が確認されていて、鉱業と自然保護の関係
               も問題とされていました。更に金剛山中にある寺刹の多くは当時、経済的困難に直面
               していて、経済的援助を行う必要性についても論議があったようです。



温井里については
19世紀末〜日本植民地時代の温井里について 長安寺については
19世紀末〜日本植民地時代の長安寺について
長箭については
19世紀末〜日本植民地時代の長箭について
も参考にしてみて下さい。



注1…内金剛山荘・外金剛山荘は、毎年5月〜10月頃にかけてオープンしていて、オープンしていない季節は、ホテル従業員は京城(ソウル)の朝鮮総督府鉄道局の本局や、朝鮮総督府鉄道局直営の朝鮮ホテルなどに戻っていたそうです。


注2…金剛山最高峰・毘盧峰に建設された久米山荘は、金剛山電気鉄道の創始者であり初代社長の久米民之助氏の没後、氏の功績を称えるために銅像の建立が計画され、そのための基金を集めていたところ、毘盧峰に山小屋を建設する方が銅像建立よりも金剛山の開発に生涯最後の情熱を傾けた久米氏の遺志に叶うのではないか……との意見が出され、結局久米氏の銅像建立のために集めたお金で久米山荘が建設されたといいます。
久米山荘は1932年秋に竣工しました。金剛山協会が久米山荘にふさわしい経営者を探した結果、当時京城(ソウル)随一の老舗旅館の山本旅館が委任経営することとなったようです。毘盧峰山頂直下に山小屋を経営するという計画は大成功を収め、例えば紅葉シーズンの1938年10月に金剛山を旅行した黒川祖山・今村珠江一行の旅行記録によると、久米山荘は宿泊客で超満員の状況で、ようやく厨房の片隅で寝ることができたほどだったといいます。
ちなみに久米氏の業績の顕彰碑が後日内金剛に建設され、氏の遺骨の一部は顕彰碑の下に納められました……久米山荘も顕彰碑も、今、いったいどうなっているのでしょうか?





〜おまけ〜

当時の金剛山みやげ


 観光地に行くと気になるものは名物とお土産!これは古今東西変わりません。ここで少し資料からわかる戦前の金剛山名物とお土産を紹介してみたいと思います。

 金剛山名物というとまず、松の実で作られた製品があります。金剛山は韓国・朝鮮料理でよく用いられる松の実の本場として知られていて、当時からその松の実を使った様々な製品がありました。
 金剛山の旅行記を読むと実によく出てくるものが松の実羊羹です。これはどうも栗羊羹の栗のかわりに松の実が入ったようなものだったらしく、金剛山中の茶店の定番お菓子であったとともに、お土産としても良く知られていました。その他、松の実金剛まんじゅう、松の実カステラ、松の実丸ボーロ、塩煎り松の実、はては松の実コーヒーなどもあったといいます。松の実は現在の金剛山観光でもお土産の一つになっていますが、昔は本当に色々な製品があったものです。それにしても松の実コーヒーとはいったいどのようなものだったのでしょう?その他、松の花粉入りの金剛飴、松葉から作った強壮長寿の薬など、実以外の松関係の製品もありました。
 松の実から作ったもので変わっているのが、鶴乃命と名づけられたお酒がありました。これは金剛山の山ぶどうで作られた不染酒とともに、金剛山名物だったようです。山ぶどう酒は想像できなくもありませんが、松の実で作られたお酒とはいったいどのようなお酒だったのでしょうか?
 その他、お菓子としては温泉場らしく湯ノ花せんべい、金剛山にある地名を冠した彌勒まんじゅう、水晶羊羹などといった製品がありました。これらは今の日本の観光地で売られているみやげ物とあまり変わりがなさそうです。
 他に山の幸としては、蜂蜜や岩茸を用いた製品があったようです。岩茸はやはり金剛山名物のようで、現在の金剛山でもみやげ物の一つとなっています。また木製品も多く、金剛山の木で作られたお盆やステッキ、彫刻や、木で作った葉書など、現在の日本の山間部にある観光地ならどこでもありそうなみやげ物が、戦前の温井里や長安寺のみやげ物店に並んでいました。そして現在でも観光地の定番といえる、風景をデザインしたタオル・手ぬぐい・ハンカチなどもあったいいます。
 金剛山には各種の鉱石や珍しい石が豊富にあるため、石関係のみやげ物も多かったようです。灰皿、カフスボタン、印材、硯、石鍋等々、実に様々な製品があった。これらは山梨の昇仙峡あたりのお土産と雰囲気が似ているのではないでしょうか。

 金剛山には海の幸もありました。例えば温井里ではふぐの日干しである“桜干し”という名物があったといいます。また温井里の旅館で、日本海(東海)の新鮮な魚介類に舌鼓を打って、夕食のお銚子を追加したという酒好き旅行者の記録も残っています。しかし何といっても海の幸といえば海金剛です!海金剛の観光船では天然の魚を釣り上げて、下船後料理して食べるという、まことにぜいたくな楽しみがありました。もし海が荒れたとしても心配はありませんでした。いつでも生き造りが出来るようにと、海金剛の船宿の生簀には魚が泳いでいたからです。

 金剛山みやげとして現在まで残っているものの多くは、絵はがきと写真集です。実際、お土産として一番売れ行きも良かったという記録も残っており、金剛山のみやげ物店では、実に様々な種類の絵はがきや写真集が売られていたようです。大阪のある古本屋の店主によると、戦前の朝鮮半島の絵はがき・写真集などは、金剛山と慶州のものが一番良く出てくるということで、当時の金剛山が朝鮮一の観光地として賑わったことが髣髴とされます。今に残された絵はがきや写真集を見ると、当時の金剛山の様子が想像出来るとともに、多くの場合、山中の茶店や駅などで押したスタンプなども一緒に残っており、それもまた当時の金剛山観光の雰囲気を感じさせます。





 こうして見ていくと、日本統治下の金剛山は旅館あり、ホテルあり、みやげ物屋あり、今で言うセミナーハウスのような施設あり……と、現在の観光地・保養地とあまり変わらない印象であったのでは……と思われます。しかし、金剛山観光は更なる発展をすることなく、時代は第二次世界大戦→朝鮮半島の南北分断→朝鮮戦争と進んでいってしまいます。

参考文献

〜日本語の文献〜
太陽第32巻第8号より、世界の金剛山(1926・博文館・田村剛著)
朝鮮地質調査要報第七巻(1926・朝鮮総督府地質調査所)
神戸大学デジタル版新聞記事文庫 京城日報 1926・9・26
朝鮮金剛山案内(1928・朝鮮総督府鉄道局)
金剛山(1928・1932・1933・1935・1938年版:朝鮮総督府鉄道局)
金剛山(1931・前田寛著・朝鮮鉄道協会)
金剛山記(1931・菊池謙譲著・鶏鳴社)
京城と金剛山(1932・京城真美会)
朝鮮の聚落(1933・朝鮮総督府)
金剛山案内図(1933・金剛山協会)
金剛山案内図(1934・金剛山電気鉄道株式会社)
金剛山探勝案内記(1934・大熊瀧三郎)
金剛山探勝案内記(1934・松浦翠香)
朝鮮金剛山大観(1935・徳田写真館)
朝鮮・昭和10年8月号(1935・朝鮮総督府)
朝鮮金剛山(1936・日之出商行)
金剛遊記(1938・黒川祖山 今村珠江著)
草衣記(1938・野上豊一郎著・相模書房)
金剛山(1939・日本旅行協会朝鮮支部)
金剛山電気鉄道ニ十年史(1939・金剛山電気鉄道株式会社)
金剛山探勝コース図(1939・財団法人金剛山協会)
岡本桂次郎傳(1939・岡本桂次郎傳記刊行會)
金剛山(1940・1941 財団法人金剛山協会)
金剛山探勝案内図(1940・徳田商店)
朝鮮鉄道四十年略史(1940・朝鮮総督府鉄道局)
朝鮮の山(1943・朝鮮山岳会)
昭和18年版朝鮮年鑑(1942・京城日報社)
普徳荘のチラシ(発行年月日不明・普徳荘)
金剛山麓臨海保健郷・金剛荘経営地(発行年月日不明)
遥かな山やま(1971・泉靖一著・新潮社)

〜韓国・朝鮮語の文献〜
世界の名勝・金剛山(2000・韓寛洙氏著)



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