19世紀末〜日本植民地時代の
長箭について




万二千峰朝鮮金剛山(満鉄京城鉄道局蔵版・1924年)より、長箭港

現在、韓国からの金剛山観光客が船に乗って長箭港にやってきます。
また長箭はかつて日本の植民地時代、船で金剛山に向かう人々が上陸してきました。
長箭湾に屏風を立てかけたように迫る金剛山の勇姿は、
昔から長箭から金剛山へ向かう旅人の心を捉えつづけています。


 長箭は長箭湾に面した港町です。長箭湾は水深が深い上に外海の荒波が遮られるような巾着型をしている天然の良港です。しかし19世紀末までは全くの無名の寒村であったようです。
 朝鮮半島の東側に広がる東海(日本海)は鯨の好漁場でもあって、19世紀後半、朝鮮半島での勢力拡大に熱心であったロシアと日本が、長箭の存在を注目するようになってきました。


朝鮮金剛山大観(今川宇一郎著・1914年)より、長箭港
巾着型をした長箭湾の形状がわかると思います。


 まず1890年頃からタイ縄漁や潜水器を使ってナマコ・あわび・サザエ漁を行なう日本漁師が長箭に進出し、漁業基地を作りだしたといいます。あわびについては主に缶詰に加工され、長箭は缶詰製造地のひとつとなっていました。
 日本が長箭に進出し始めたちょうど同じ頃、ロシアもまた長箭の価値に目をつけるようになっていきます。ロシアは1880年代になって、ロシア極東での捕鯨業の可能性に注目し始めました。ロシア極東での捕鯨業の先駆者ディティモフは、ウラジオストックを拠点として、1889年に当時最新鋭のノルウェー製の捕鯨船を用いて捕鯨の操業を開始します。
 ディティモフは主に朝鮮半島沿岸で捕鯨を行い、1889年の冬から1890年の春にかけて元山の南方に捕鯨の根拠地を設けます。この根拠地の場所は明らかではありませんが、状況的に見て長箭である可能性は高いと思われます。
 朝鮮半島東岸での捕鯨操業は大変に順調で、事業開始当初からディティモフはかなりの利益を挙げることに成功します。またディティモフは日本近海での捕鯨事業の可能性にも注目し、日本を訪問しており、日本側にもディティモフの事業に参加する動きもあったようです。

 ディティモフは1890年末に海難事故に遭い、行方不明になってしまいます。しかしディティモフの成功に刺激を受けて、捕鯨事業に乗り出す人が現れます。そのような中、やがてケイゼルリングが『太平洋捕鯨株式会社』を設立し、捕鯨事業を更に発展させます。
 ケイゼルリングは1895年から捕鯨業を開始した様子です。この当時、朝鮮半島沿岸ではいくつかの捕鯨会社が韓国政府の許可なく操業し、また朝鮮半島沿岸の数ヶ所で鯨の解体を行なっていました。
 1899年3月にはケイゼルリングと韓国政府との間で、鯨解体場として朝鮮半島沿岸の3ヵ所の借地契約が結ばれ、長箭はそのうちの一つとして選ばれました。
 ところで長箭という地名自体、ケイゼルリングが韓国政府との間で、鯨解体場として使用する借地契約を結んだことにより名づけられた地名であるとの説もあります。箭という字には『矢』の意味があり、長箭とは『長い矢』との意になるので、捕鯨で用いる銛を“長箭”と称した可能性もありそうで、いちがいに否定できない話と思われます。
 鯨の解体場が長箭に作られたとはいっても、当初は特におおげさな施設があったわけではなく、捕鯨船などの捕鯨に携わる船の停泊地以外には、陸上には水場と鍛治小屋があるだけで、鯨の解体も船上で行なわれていたようです。がしかし、『長箭は、かつてロシア人ケイゼルリングが朝鮮政府の許可を得て捕鯨場を設けてからその名が世に広まった(朝鮮金剛山 徳田写真館・1915年)』。といわれるように、長箭の名は徐々に知られるようになっていったようです。

 ロシアに負けずに日本人も続々と長箭に進出していきます。まず1894年、日清戦争が始まると森万次郎が長箭に居住して、漁業と商業を始めたとの記録があります。
 ケイゼルリングの捕鯨事業は大きな成功を収めていきます。日本でもその成功に刺激され、ケイゼルリングに倣った捕鯨事業を行なう者が出てきます。また、ケイゼルリングの事業に協力する日本人も少なからずいたようで、単純に『捕鯨の世界でも日本とロシアの対立』が繰り広げられたわけではなかったようです。しかし20世紀に入ると朝鮮半島沿岸での日本の漁業・捕鯨事業の拡大が進み、日本とロシアの関係緊張化の中、摩擦が拡大していったことは事実と思われます。

 日露戦争後、ケイゼルリングが設けた朝鮮半島内の捕鯨基地は全て日本が利用するようになります。長箭の捕鯨基地も東洋捕鯨株式会社によって経営されるようになります。1910年に刊行された、東朝鮮・一名元山案内によると、長箭には当時三隻の捕鯨船があり、ナガスクジラ類を中心に捕鯨をしていたようです。ところで1910年当時、捕鯨船の命ともいうべき砲手は、当時の捕鯨先進国であったノルウェー人が勤めていたといいます。
 1912年頃、朝鮮近海で操業する捕鯨船の約半数は長箭を根拠とするようになったといいます。また、1914年刊行の朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著)によれば、当時の長箭には冷蔵庫・製油所などの設備が備わった捕鯨基地があったようです。
 また、先述の東朝鮮・一名元山案内によると、長箭は夏季の漁期になると潜水器を使う漁業を行なう潜水機船と海女が多く集まり、漁を営んでいたといいます。


朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・1914年)より、長箭港内捕鯨船の集合


征虎記(山本唯三郎著・1918年)より、長箭港

 日露戦争後、日本から長箭に漁民が続々と渡ってくるようになったようです。1908年頃の長箭は、まだ朝鮮人の漁民が30戸くらいしかなかったそうですが、1945年の日本の第二次世界大戦敗戦直前には日本人漁民が300戸を数えるほどになっていたといいます。

 また、長箭は外金剛の入り口である温井里に近く、金剛山の探勝が注目されるようになった1915年頃からは、元山からの定期船が運航される点でも注目を集めるようになります(注)。金剛山電気鉄道の建設が進むまで、劣悪な道路状況のために内金剛側から金剛山へ向かうには困難が多く、金剛山観光客の多くが、元山から長箭間を運航する朝鮮郵船の定期船を利用していました。またこの頃から長箭はタラ・ニシン・サバ漁の本拠地となり、特にタラ漁の一大中心地となったようです。
 1918年発行の菊池幽芳氏著の『朝鮮金剛山探勝記』には、長箭には2台の馬車と数台の人力車があると書かれており、また同じく1918年発行の『朝鮮鉱泉要記』によれば、当時、長箭には人力車6台があるとされています。いずれにしても海路長箭に到着した金剛山探勝客は、馬車や人力車で温井里へ向かうことが出来たことがわかります。この当時、長箭や温井里にはすでに自動車はあったようですが、まだ陸上交通の中心は徒歩ないし人力車であったようです。
 1923年に長箭を訪れた大阪朝日新聞の金剛山撮影旅行隊によると、長箭には当時約200名の日本人が居住し、警察、郵便局があって、桟橋近くには日本人経営の旅館、雑貨店、菓子店、飲食店が軒を連ねていたそうです。この頃から長箭を根拠地として根拠地としてカレイ底引き網漁が始まりました。またこの頃からマイワシ漁も始まり、やがて長箭の漁業は最盛期を迎えるようになります。
 1931年に長箭を訪れた菊池謙譲氏の著した『金剛山記』によれば、『浜には網を干してあり、工場ではいわし油を製造し、肥料になる乾いわしをいたるところに干してある……長箭の家並みは裕福に建てられている』とのことで、長箭は漁港として栄えていたことがわかります。マイワシ漁の最盛期には長箭湾いっぱいにマイワシ漁船が集結し、漁関係者が1万5千人も集まるといった隆盛振りを示したといいます。


 長箭は北朝鮮時代となってからは高城郡の郡庁所在地となって、『高城』と呼ばれるようになりました。また港も漁港としてよりも軍港としての役割が大きくなっていったようです。韓国との軍事境界線が近く、しかも天然の良港であるという状況からいって、軍事面での役割が大きくなっていったことはやむを得ないと思います。
 現在、長箭港は北朝鮮の特殊工作拠点のひとつであるとの説もあるようです。韓国からの金剛山観光の開始によって、外部からの目に晒されるようになった長箭港の、軍事面での役割は無くなったのではないかとの声も聞こえてきますが、夜は明かりがほとんどなく、真っ暗な高城(長箭)の街並みを見ると、そうとも言い切れないような気もします。
 もともとロシアや日本が朝鮮半島での活動拠点として発展が始まった長箭……今後はいったいどのような歩みをしていくのでしょうか。


捕鯨についての記述は神長英輔氏のホームページ(カミナガエイスケのホームページ)を参考・引用させていただきました。氏のホームページは『捕鯨』から見た、ロシア・日本・朝鮮半島などの東アジア史を浮き彫りにしていて、大変に興味深いものです。
この場を借りて御礼申しあげます。


(2003・7・13 作成)
(2004・11・13 最終加筆)


(注)朝鮮郵船株式会社二十五年史によれば、元山ー長箭便は1916年に運行が開始されたと書かれています。ただし同じ朝鮮郵船株式会社二十五年史の中には1922年に運行を開始したと書かれてある文章もあり、また、1915年に発行された朝鮮総督府鉄道局発行の『金剛山遊覧の栞』によれば、すでに元山ー長箭の定期航路は開設されており、本当のところいつから元山ー長箭便の運行が開始されたのかははっきりしません。どうも航路には元山ー釜山間の運行をしている航路の一区間としての元山ー長箭と、元山ー長箭間のみ運行する航路の2つがあるようで、これが情報錯綜の一原因のようです。金剛山観光の各種資料から考えて、元山ー長箭間のみ運行航路の1922年運行開始ということは考えにくいため、ここでは1915年頃運行開始としました。ちなみに朝鮮郵船の元山ー釜山間航路は、当初、不定期航路として1912年に開設されたようですが、この点も朝鮮郵船二十五年史の中ではっきりしない記述が見られ、断定できません。
 元山ー長箭便は夏から秋にかけて季節運行されていたものであることは間違いなさそうです。また、朝鮮郵船株式会社二十五年史やその他の資料から、朝鮮郵船の元山ー長箭便は、東海北部線の建設が進み、長箭の近くまで鉄道が走るようになった1929年の秋をもって定期就航が中止されたことも間違いなさそうです。


参考文献
北東アジアにおける近代捕鯨業の黎明(スラブ研究・神長英輔氏の論文より・2002年)
植民地朝鮮の日本人(高崎宗司著・岩波新書・2002年刊)

東朝鮮・一名元山案内(元山毎日新聞社・1910年刊)
朝鮮金剛山大観(今川宇一郎著・大陸踏査会・1914年刊)
朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・冨山房・1914年刊)
朝鮮金剛山大観(徳田写真館・1915年刊)
金剛山遊覧の栞(朝鮮総督府鉄道局・1915年刊)
朝鮮金剛山探勝記(菊池幽芳著・洛陽堂・1918年刊)
征虎記(吉浦龍太郎編著・1918年刊)
朝鮮鉱泉要記(朝鮮総督府警務総監部衛生課・1918年刊)
朝鮮金剛山百景(大阪朝日新聞社・1924年)
万二千峰朝鮮金剛山(満鉄京城鉄道局蔵版・1924年刊)
山岳第19年第2号・朝鮮金剛山(大平晟著・日本山岳会・1925年刊)
金剛山記(菊池謙譲著・鶏鳴社・1931年刊)
朝鮮郵船株式会社二十五年史(朝鮮郵船・1937年)
朝鮮水産開発史(朝水会・1954年)



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