金剛山と鉱業


あまり知られていない話ですが、金剛山は豊かな鉱物資源に恵まれています。
日本植民地時代、金剛山中には金、モリブデン、タングステン等の鉱山がありました。
特にモリブデン・タングステンについては、朝鮮半島有数の鉱山として知られていました。
鉱業は資料が少なく、調査が困難な分野ですが、のりまきが手に入れた範囲の資料で、
日本植民地時代の金剛山と鉱業について紹介したいと思います。


 金剛山に鉱山があることは、日本植民地時代に作られた金剛山の五万分の一地図を見るとすぐにわかります。特に『重石』と書かれた鉱山マークがあちこちに見られ、重石(タングステン)の鉱山が山中に点在していたことがわかります。
 もともと金剛山では、形状の変わった黒い石が採れることが知られており、『金剛石』と呼ばれていたようですが、その形状の変わった黒い石は、実はタングステンの鉱石だったのでした。

 1912年、小笠原健という人物が朝鮮総督府よりタングステン採掘の許可を受けます。小笠原健氏は、温井里最初、つまり金剛山でも最初の日本式旅館『温井旅館』を開いた小笠原氏と同一人物と思われます。小笠原健氏は、金剛山中のタングステンが露出しているところを探し、そこから露天掘り形式でタングステンを採掘していました。
 タングステン鉱脈で最も大きかったのは、万物相近くで内外金剛を繋いでいる峠である温井嶺を、内金剛側に少し下った新豊里というところにありました。その他にも万物相の北側の仙蒼渓谷や千仏渓谷、さらには万物相の南側にもタングステン鉱脈が発見されていきます。やがて1915年には小笠原健氏から経営権を譲り受ける形で三井が経営に乗り出してきました。三井は露天掘りではなくタングステンの鉱脈に沿って坑道を掘り、本格的にタングステン採掘に取り組みだします。まもなく金剛山のタングステン鉱山は鉱夫約80名を擁し、盛んに採掘をするようになります。当時、金剛山各地のタングステン鉱山は、『金剛鉱山』と総称されていました。
 三井が金剛山のタングステン鉱山経営を引き継いだ頃は、採れた鉱石を山元で全て人力で選鉱しており、まず鉱石を人力で砕き、タングステン鉱石を含む部分を選鉱所に送り、そこで更に選鉱作業を行なっていたといいます。選鉱作業が終わった鉱石は、人力で温井里まで運搬され、そこから牛車で長箭港へ運ばれました。

 1917年に金剛山を訪れた作家、菊池幽芳氏はこのタングステン鉱山の鉱山事務所に宿泊しました。菊池幽芳氏の著書『朝鮮金剛山探勝記』によれば三井の鉱山の出張所は温井里にもあって、1917年には温井里に東京三井物産が温泉の浴槽を設けたとの記録も残っており、三井の鉱山出張所が温泉の浴槽を作った可能性が高いと思われます。
 また1918年に金剛山を旅した大町桂月氏も、著書『満鮮遊記』によれば金剛山中の3ヵ所のタングステン鉱山の事務所に泊っています。氏の記述によれば、当時金剛山中のタングステンの鉱山事務所は4ヵ所《新豊里・千仏洞・仙蒼渓・三聖庵》あって、全て三井が経営をしていたようです。また、温井里以外に長箭にも三井の鉱山出張所があったようで、当時、三井は金剛山の各地で盛んにタングステンを採掘していた様子が伺えます。また、新豊里と千仏洞の鉱山に、1918年には水力を動力とした近代的な選鉱施設まで作られました。三井は金剛山のタングステン採掘は1917〜8年頃最盛期を迎え、約330人の人が金剛山の鉱山で働き、関係者を含めると500名を越える人々が金剛山の奥地で生活していたといいます。
 しかし金剛山の険しさもあって、近代的な選鉱施設が出来上がった後も、鉱石の搬出や鉱夫たちの生活必需品などは、人力で温井峠を越えて運搬されていたといいます。ところで菊池幽芳氏と大町桂月氏が金剛山探勝中に鉱山事務所に宿泊していたことは前述しましたが、1918年頃、三井の鉱山事務所は一般の金剛山探勝客も宿所として使うことができたようです。

 この頃、金剛山山中の各所でタングステン盗掘団が徘徊していたといいます。前述の朝鮮金剛山探勝記には、温井里の憲兵隊がタングステン盗掘団を追いかけて九龍の滝の絶壁を登攀したけれども、盗掘団を取り逃がしてしまった話が書かれています。また同じ頃金剛山を訪れた画家の丸山晩霞氏は、金剛山最高峰の毘盧峰登頂時にタングステン盗掘者たちから危害を受けることを恐れ、朝鮮人僧侶に変装して毘盧峰山頂を目指し、実際に途中二ヵ所で「色の黒い鬼をも欺くごとき荒くれ男」が盗掘をしている現場に遭遇します。
 どうやら当時は山菜取りのように金剛山中でタングステン鉱石を探し、採掘して、背負子のようなもので鉱石を持ってくるといった形式で採算が取れたようです。前述した大町桂月氏の著書『満鮮遊記』には、金剛山について「重石の多きことも、世界無比なり」。と書かれていて、当時の金剛山がゴールドラッシュならぬタングステンラッシュに沸いていたことが想像できます。
 このように金剛山各地でタングステン採掘が行なわれた背景としては、第一次世界大戦の影響でタングステンの価格が高騰したことが挙げられます。果たして第一次大戦終了後、タングステン価格は暴落し、零細な鉱山はたちまち採算が合わなくなってしまったようです。早くも1919年には奥地の鉱山を放棄し、1921年には完全に採掘が中止されました。小笠原氏の採掘開始からわずか9年目のことでした。三井は金剛鉱山の経営から手を引く形となり、別の経営者が鉱業権を引き継ぎましたがしばらくの間は休山状態が続いたようです。
 新豊里のタングステン鉱山は、1930年頃になると復活の動きが始まり。戦争が激化する1930年代後半になると再び盛んに採掘されるようになりました。この頃には金剛鉱山ではなく、内金剛鉱山と呼ばれていたようです。


朝鮮金剛山百景(大阪朝日新聞社・1923年刊)より、重石盗掘団と思われる一団。


 実は金剛鉱山と呼ばれた鉱山はもうひとつありました。もうひとつの金剛鉱山は外金剛の上八潭の近くにあり(注1)、こちらは主にモリブデン(水鉛)の鉱山でした。この金剛鉱山は1914〜18年の第一次世界大戦中に発見されました。発見当初、まず焚火採鉱法(注2)と言われる方法で採掘が行なわれました。採鉱の際に焚かれる焚き火がなんと二十キロ以上離れた通川からも見ることが出来たとの記録も残っているようです。焚き火採鉱法による採掘の結果、山腹に大穴が空いたとの話も伝わっています。しかし戦争終結に伴うモリブデンの市場価格下落のために採掘は一時中断となり、1925年より再び採掘が行なわれるようになりました。
 こちらの金剛鉱山も三井の金剛鉱山と同じく、アクセスが大変に貧弱でした。九竜淵の入り口にある神渓寺から先は車の運行が出来ず、鉱山から神渓寺までの5キロあまりの山道は、全て人力で鉱石の運搬を行なわざるを得ない状況でした。特に九龍淵の渓谷沿いから道が離れた後は『道路険悪で(1.5キロの距離を)約1時間かかる』ありさまであったといいます。なんとそれでもこの金剛鉱山は1935年ごろには朝鮮半島の重要鉱山のひとつに数えられていました。ちなみに金剛鉱山の鉱石は他鉱山の追随を許さぬほど高品質であったといいます。金剛鉱山は深い山中にあるという鉱山経営上のハンディを高品質の鉱石で補っていたようです。
 鉱脈は巨晶花崗岩(ぺグマタイト…注3)の岩脈の中にモリブデンの鉱石である輝水鉛鉱が散らばっている形のものであり、平均15センチの太さで約360メートルにわたって地面に露出している鉱脈だったそうです。その鉱脈を谷底から坑道を堀り(この坑道は横穴だと思われる)、その坑道から階段状に掘りあげるように鉱石を採掘していたそうです。1935年当時、坑道は全部で5本掘られ、最も深くまで採掘をしていた第一坑道は、奥行き250メートルまで掘り進めていたといいます。


朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・1914年刊)より、温井嶺中の重石鉱。
場所的・時期的に小笠原健氏の経営していた鉱山だと思われます。

 坑口近くに設けた選鉱場で手作業で鉱石のみを選び出した後、かます(藁のムシロで作られた袋)に鉱石を詰めて、人が担いで神渓寺まで運ばれました。神渓寺から先、長箭港までは牛馬によって運搬され、長箭港から汽船で日本国内や中国方面に輸送されていたといいます。
 1932年当時、金剛鉱山の従業員は37名、一年で24625円の利益を挙げていたといいます。当初は個人経営の鉱山でしたが、やがて日本鉱業が経営をするようになりました。

 その他にも金剛山やその周辺には鉱山があったようで、外金剛には金山が、叢石亭がある通川には炭鉱があったようです。通川の炭鉱はかなり大規模なものであったようですが、灰分が多くて質が良くない石炭であったため、比較的短期間で採掘されなくなったようです。外金剛の温井里周辺には小さな金山がかなりあったようですが、詳細は不明です

 1930年代半ばから後半にかけて、日本が戦争への道をひた走り出した頃、再び金剛山一帯に鉱山ブームが訪れました。金剛山には戦略物資として重要なタングステン・モリブデン、そして金が埋蔵されていたので、ブームの再来はある意味当然でした。
 当時、鉱山以外にも実に多くの鉱区が金剛山中やその周辺には設けられていて、金・銀・タングステン・モリブデンなどの鉱山を開こうとする人や、鉱業権を投機目的にしようとした人が金剛山に鉱区を申請していった状況が見えてきます。このような金剛山の鉱業開発について、環境が破壊されると苦々しく思っていた人も多く、実際、総督府に設けられていた『金剛山保存調査委員会』などは鉱山開発に抵抗をしたようですが、結局、戦争の遂行のために金剛山中に11ヵ所の鉱山開発が認められたそうです。
 特に無計画な盗掘は環境に与える影響が大きく、金剛山協会の発行した金剛山ガイドブックには、『…渓に沿う一帯は無残に破壊され、土砂が河床を埋めて興ざめる光景がしばらく続く。問題の重石盗掘の跡である…』といった記述も見られ、1939年末には盗掘者たちが起こした山火事が広がり、大山火事となってしまう事件も発生し、当時すでに鉱業による環境破壊の問題も発生していました。

 日本植民地時代、金剛山中にあった鉱山は今現在どうなっているのかまったく不明です。1945年以降、鉱山がいったいどうなっていったのか今のところまったく手がかりはありません。少なくとも外金剛上八潭近くの金剛鉱山は現在採掘されていないことはわかるのですが……ひょっとして今なお採掘がなされている鉱山もあるかも知れません。


(2003・8・16 作成)
(2006・10・9 最終加筆)



(注1)外金剛にあった金剛鉱山の場所ですが、“金剛山地方”によれば、鉱山の場所は『九龍淵(九竜の滝の場所)より北東に約350メートル降りれば、西方に向ける2つの岐路がある。その1は上八潭に行き、その北側のものは金剛鉱山に通ずる。上八潭に行くものは山背を行き、金剛鉱山へ行くものは渓谷を行く。渓谷に沿って行くこと岐路より1500メートル。高さにして300メートルで金剛鉱山に着く』。と書かれています。
 つまり金剛鉱山は、上八潭の上り口から奧に流れている渓流『銀絲流』の奧の方約1500メートルの場所にあったことがわかる。


(注2)焚火採鉱法とは難解な用語です。どうやら焚き火で鉱脈を熱して膨張させた後、急冷させるなどして鉱脈を細かく割るという採鉱法であったようです。

(注3)巨晶花崗岩は一般的にはぺグマタイトと呼ばれています。ぺグマタイトは地底の奥深くでマグマが冷えて花崗岩が作られた後に、残りのマグマが出来上がった花崗岩の割れ目に入り込み、ゆっくりゆっくりと冷え固まることにより作られるといいます。ゆっくりゆっくりと冷え固まることにより結晶が大きく成長するので、巨晶の名がつけられました。
 残りのマグマには、花崗岩に入り込めなかった元素が集まっていることが多く、ぺグマタイト鉱床と呼ばれる鉱床を形成することもあります。



参考文献
朝鮮金剛山探勝記(竹内直馬著・冨山房・1914年刊)
朝鮮金剛山大観(徳田写真館・1915年刊)
みづゑ151〜158号(春鳥会・1917〜18年刊)
朝鮮金剛山(高尾新右衛門著・東京堂書店・1918年刊)
朝鮮金剛山探勝記(菊池幽芳著・洛陽堂・1918年刊)
朝鮮鉱泉要記(朝鮮総督府警務総監部衛生課・1918年刊)
満鮮遊記(大町桂月著・大阪屋号書店・1919年刊)
満鮮の五十日(間野暢かず著…かずは、寿の旧字体に竹かんむり・国民書院・1919年刊)
朝鮮鉱床調査報告・第七巻ノ一(朝鮮総督府地質調査所・1921年刊)
朝鮮鉱床調査報告・第七巻ノ二(朝鮮総督府地質調査所・1924年刊)
朝鮮金剛山百景(大阪朝日新聞社・1924年刊)
山岳第19年第2号・朝鮮金剛山(大平晟著・日本山岳会・1925年刊)
朝鮮の鉱業(朝鮮総督府殖産局・1929年刊)
江原道鉱業状況(朝鮮鉱業会・1930年刊)
朝鮮の水鉛鉱業(朝鮮鉱業会・1933年刊)
昭和7年朝鮮鉱業の趨勢(朝鮮鉱業会・1934年刊)
金剛山地方(日本地質学会・1935年刊)
金剛山・昭和15・16年版(金剛山協会・1940年・1941年刊)
観光朝鮮第二号・金剛山特集(日本旅行協会朝鮮支部・1939年刊)
モダン日本第十一巻第九版 臨時増刊第二次朝鮮版(モダン日本社・1940年刊)
朝鮮鉱区一覧(朝鮮鉱業会・1942年刊)



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