東海北部線について



東海北部線・外金剛駅
(大熊瀧三郎著・金剛山探勝案内記・1934年刊より)


京城(ソウル)方面から内金剛へ向かう観光客に利用された『金剛山電気鉄道』に対して、
1930年代半ば〜1940年頃までの日本植民地時代の金剛山観光最盛期、
外金剛へのアクセスの中心を担ったのが『東海北部線』です。
私鉄であった金剛山電気鉄道に対し、東海北部線は朝鮮総督府鉄道局の国有鉄道でした。
そして今、東海北部線は南北を繋ぐ鉄道として復活工事が進んでいます。




 金剛山観光客の外金剛方面のアクセスは、当初、主に元山から長箭までの海路で行なわれてきました。もちろん自動車を使って元山から陸路で外金剛に向かう方法等もあったのですが、1923年頃に陸路で外金剛(温井里)から元山へ向かった田山花袋氏の旅行記などを読むと、『命を削るような』内金剛へ向かう道路よりはましだとはいえ、海岸線を通って外金剛方面に向かう道路事情もかなり悪く、やはり海路によるアクセスが主流であったようです。しかし長箭港を除いて金剛山がある江原道の港は、ひとたび海が荒れると小さな漁船も満足に係留できないほど設備が貧弱で、半ば“陸の孤島”状態が続いていたようです。

 朝鮮総督府としては、陸上交通が大変に不便なうえに良港も少ないため、半ば『陸の孤島』に近かった江原道と慶尚道の日本(東海)海沿岸地域の開発を促進するために、鉄道の建設を行なうことはかなり早い段階からの課題でした。実際、江原道は当時から朝鮮で最も開発の遅れた地域のひとつとされていて、交通機関の整備は焦眉の急でした。
 江原道と慶尚道の日本(東海)海沿岸地域は水産資源に恵まれ、また林業資源や石炭を始めとする鉱産物資源も豊富で、鉄道の建設によって地域の開発が飛躍的に進むことが予想されました。そして鉄道建設による金剛山観光客の増加も見込まれていたことはいうまでもありません。
 また江原道と慶尚道の日本(東海)海沿岸地域を走る鉄道は、朝鮮半島東北部を走る咸鏡線と連結されることによって、幹線鉄道として活躍するであろうことも予想されました。

 ちなみに、現在ロシアは韓国と北朝鮮の東海(日本海)部分での鉄道連結計画に大きな関心を寄せていますが、これはロシア沿海州から北朝鮮を通過してプサン方面に至るという、中国領を経由する必要がない輸送の大動脈としての役割に期待しているものと見られています。20世紀前半に日本が考えていた朝鮮半島の東海線の意義と、現在のロシアの韓国と北朝鮮の東海(日本海)部分での鉄道連結計画に対する期待の内容が基本的に同じであることは大変に興味深いことです。

 朝鮮半島東海岸を走る鉄道建設については、早くも1922年には元山近くの葛麻から襄陽までの予備調査が開始され、鉄道計画の立案が開始されたようです。
 1925年になって、日本の鉄道協会で朝鮮半島東海岸の鉄道建設の必要性が唱えられると、地元でも“鉄道建設待望”論が沸き起こり、同年夏から秋にかけて元山、金剛山温井里、江陵で相次いで鉄道期成連合会大会を開催されました。
 1926年には東海線全線での調査が完了し、1927年には『朝鮮鉄道12年計画』の中で、建設すべき鉄道として東海線の建設計画が帝国議会を通過し、同年には元山近くの安辺(アンビョン)から鉄道建設に向けての実測が開始され、東海線の建設がスタートしました。

 東海線は釜山から元山すぐ南の安辺まで、総延長600キロを越える長大な鉄道になる予定でした。建設は日本(東海)海の海岸線の南北から進められることになりました。つまり南側は釜山から、北側は元山近くの安辺から順次工事が開始されていきました。ただ、当時すでに途中の蔚山(ウルサン)から浦項(ポハン)までは狭軌の朝鮮鉄道会社の慶東線として開業がされており、その部分については買収の上、広軌化する計画でした。
 そしてプサン(釜山鎮)から浦項までを東海南部線、安辺から浦項までを東海北部線と呼ぶことになりました。戦前の日本植民地時代、金剛山観光に活躍したのは『東海北部線』でした。

 1928年2月、いよいよ東海北部線の路盤工事が開始されました。翌1929年9月には早くも一部区間の開業がなされ、1931年7月には叢石亭のある通川まで開通しました。そして1932年秋には高城まで開通し、いよいよ金剛山観光客に東海北部線が盛んに利用されるようになりました。温井里駐在所が調べた1934年の金剛山観光客(宿泊客)は年間33000人を越え、これは東海北部線の開通前である1929年の2.4倍になったのでした。また1934年には年間10000人以上の団体観光客が金剛山の最寄である外金剛駅を利用しました。ちなみに団体の多くは朝鮮各地から金剛山観光に訪れた朝鮮人観光客であったと見られています。
 金剛山観光でよく用いられた外金剛駅は、金剛山電気鉄道の内金剛駅が朝鮮伝統建築をモデルに造られたのに対して、欧風のモダンな建物でした。駅の構内にはホテル会社が経営する駅構内食堂があり、喫茶・軽食を楽しめるようになっていました。また登山弁当を頼むことも出来たようです。

金剛山探勝案内記(松浦翠香著・1934年)に載せられた外金剛駅構内食堂の広告

 建設工事は更に進められ、1937年12月には襄陽まで開通しました。その後も全通を目指して『時局匡救窮民救済事業』として、生活に困窮した人々を雇用するなどの工夫をしながら工事が続けられましたが、日中戦争→第二次世界大戦と突き進んでいった情勢の悪化によって、結局東海北部線は完成することなく1945年8月の日本の敗戦を迎えます。

 東海北部線の建設はかなりの難工事であったようです。安辺から束草あたりまでは地質年代では現代に近い第三紀・第四紀の隆起地帯が続き、軟弱な地盤の沼地や崩れやすい山地が多く、鉄道の構造物の沈下や崩れやすくもろい岩質のために工事への支障が多発したようです。 また工事中たびたび水害に襲われ、大きな被害があったといいます。ちなみに崩れやすく軟弱な地盤に悩まされている点は、北朝鮮側で現在行なわれている東海線の工事現場を見ても感じられたことですし、また江原道は南北ともに2002年・2003年と立て続けに台風による大きな水害に見舞われており、この点でもかつての日本植民地時代の東海北部線工事での困難の記述と一致しています。

 日本敗戦後、開通済みであった安辺ー襄陽間の東海北部線は全体が北朝鮮側に属し、一括して北朝鮮側で運行を行なっていました。しかし1950年6月に始まった朝鮮戦争の結果、東海北部線は大きな被害を蒙り、更には南北に分断されてしまったため、鉄道の走ることのない廃線となってしまいました。
 北朝鮮側の安辺ー高城間については時々鉄道再建の話が持ち上がり、工事も断続的に行なわれていたという話もあります。結局1997年4月15日、金剛山青年線として安辺ー金剛山青年間が“開通”しました。しかし金剛山青年鉄道は、金剛山で見る限りたしかに単線電化がされた線路がありますが、実際には使われていないようです。

 そして今、東海北部線は韓国と北朝鮮とを繋ぐ南北連結鉄道のひとつとして、復活工事が行なわれています。2002年9月13〜17日に金剛山で行われた南北鉄道・道路連結会談の席で、朝鮮半島西側の京義(平釜)線とともに、東海線の南北連結工事を開始することが決定され、2002年9月18日には韓国側の高城統一展望台と北朝鮮側の金剛山青年駅とで、南北連結鉄道の着工式が同時に行なわれました。その後、2002年10月12〜13日に金剛山地区の金剛山旅館で行われた南北間の鉄道・道路の連結に関する第2回実務協議の結果。韓国側から北朝鮮側に行う、鉄道・道路工事用の装備・資材の供与・レンタルの具体的内容について合意されました。
 その結果、現在まで韓国側から提供された重機や枕木などの装備や資材を使って、北朝鮮側の労働者が工事を進めるという方法で北朝鮮領内の鉄道工事は進められています。工事は難航している面もありそうですが、日本植民地時代の東海北部線の遺構である橋脚を新たに作り直す(あるいは補修か?)するなど、それなりに工事は進んでいる様子です。


 2003年12月の工事状況は↓を参考にしてみてください。

2003年12月の非武装地帯・南北間連結鉄道の状況(地図編1)

2003年12月の非武装地帯・南北間連結鉄道の状況(説明編1)

2003年12月の非武装地帯・南北間連結鉄道の状況(地図編2)

2003年12月の非武装地帯・南北間連結鉄道の状況(説明編2)

束草港にあった南北連結鉄道の枕木・レール


(注)金剛山青年駅は、東海北部線の外金剛駅と同じ場所に建てられていると思われます。


 なお東海北部線をはじめ、朝鮮半島の南北分断の結果分断されてしまった4本の鉄道については、小牟田哲彦氏が研究されています。皆さん是非参考にしてみてください。

《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道 4:東海北部線》
(鉄道ジャーナル2003年10月号)

《朝鮮半島 軍事分界線を越えていた4つの鉄道(補遺)》
(鉄道ジャーナル2004年2月号)

『鉄馬は走りたい』
(草思社 2004年刊)


参考文献

満鮮の行楽(田山花袋著・1924年刊)
朝鮮・昭和2年1月号より、朝鮮鉄道新規計画(朝鮮総督府・朝鮮・1927年)
朝鮮・昭和2年4月号より、東海岸鉄道の経済的価値と元山港(朝鮮総督府・朝鮮・1927年)
金剛山探勝案内記(大熊瀧三郎著・1934年刊)
金剛山探勝案内記(松浦翠香著・1934年刊)
朝鮮・昭和10年8月号より、国立公園と金剛山(朝鮮総督府・朝鮮・1935年)
朝鮮鉄道四十年略史(朝鮮総督府鉄道局・1940年)
鉄道ピクトリアル1969年8月号・韓国における鉄道網の形成過程





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