韓国ー北朝鮮間のDMZ(非武装地帯)と、南北連結鉄道
2003・12・2〜4日の状況

(その1・統一展望台ー南江の説明)



カタカナ記号(金剛山陸路観光で目立つ地形など)についての説明

・高城統一展望台
 韓国側は高城統一展望台の場所を推定するところから躓きました(笑)。だいたい韓国で発行されている地図上の高城統一展望台の位置からしてバラバラで、正直困ってしまいました。
 結局、高城統一展望台で撮った写真や日本植民地時代の5万分1の地図から判読できる地形も参考にして場所を推定しました。
 ところで……ここから先、北朝鮮側の金剛山青年駅までは、韓国側、北朝鮮側ともに鉄道(ないし道路)工事が行なわれていたのですが、今回、統一展望台以南で工事が行なわれているかどうかについては確認ができませんでした。これは北朝鮮側にも言えることなのですが、実のところ南北連結鉄道(道路)完成への最大の障害は、DMZやその周辺ではなく、その外側にあるような気がします。

・鑑湖
 韓国・朝鮮語ではカムホと読みます。見た感じ、湖というよりも大きな池といった雰囲気です。水深が浅い湖のようで、アシ原が広がり湖面は地図上の表示よりも小さいような感じです。鑑湖は、かつては金剛山(海金剛)の景勝地のひとつとして知られていました。以前は金剛山にゆかりのある人物の中でも最も著名な、楊蓬莱が住んだという飛来亭の跡なども湖畔にあったようです。アシ原と静かな湖面を渡る白鷺、その先に九仙峰の勇姿が広がり、絶景といえます。

・九仙峰
 標高は低いのですが、その形よき岩山の姿は金剛山の一角を占める風格を感じる山です。鑑湖を過ぎてからの九仙峰などの岩山の荒涼たる光景は、西部劇などで見かけるアメリカ西部の風景を思い出させるものがあり、東洋離れした感じがします。
 そんな荒涼たる光景の中、多くの朝鮮人民軍兵士らが鉄道工事に携わっています。
 また、九仙峰の南側ふもとには韓国側からの進入を防ぐために金網が張られているようです。

・寶湖?
 この湖の名前は実のところ不明なのですが、地図上で最も近くの集落名が「寶湖」なので、寶湖と推定しました。
 金剛山陸路観光のハイライトの一つが、この湖畔で行なわれる検問です。金剛山への往復とも、この湖畔で金剛山観光バスに朝鮮人民軍兵士が乗り込み、不審物がないか、不審な者がいないかどうかの検問をします。また、バスの下部、荷物置き場の収納されている荷物も検査します。バスの運転手に荷物置き場を開けさせて、点検をするのです。
 ただ、個別の事情聴取などは行なわれず、バス内も荷物もそれぞれ一瞥する程度のものなので、検問は形式に近いものです。
 また、湖畔には南北連結鉄道用の枕木が置かれています。この枕木はまず束草港の港にある駐車場に一時的に保管され、そこからトラックで運ばれたもののようです。枕木はここから先、三日浦近くと金剛山青年駅そばにも置かれていました。
枕木についてのもっと詳しい情報はこちら


鉄条網・軍事境界線など(アルファベット)

・韓国側鉄条網
 3重の厳重なる鉄条網。高圧電流も流されているようです。この付近まで鉄道の路盤は完成しています。ここから統一展望台までの工事状況は、臨時道路と鉄道との場所が離れるためによくわかりませんが、統一展望台からの光景から判断すると、工事が行なわれていることは間違いないです。

・軍事境界線(MDL)
 朝鮮戦争停戦後まもなく軍事境界線上に立てられた目印の立て札が、50年の年月を経て、朽ちかけながらまだ立っていました。境界線を示す立て札は、小川にかかる橋の北朝鮮側たもとにありましたが、5万分の1の地図上で確認できる橋の位置では、鑑湖からの距離感からいってかなり南寄りすぎるので、のりまきが軍事境界線の位置を推定しました。境界線を挟んで韓国側は迷彩服を着た数人の兵士が塹壕に入り北側を睨み、北朝鮮側はカーキ色した軍服に同じような色の毛皮の帽子を被った軍人等が要所要所に立っています。
(参考・板門店で撮影した軍事境界線を示す立て札)

・北朝鮮側鉄条網T
 鑑湖の南側すぐにある2重の鉄条網。高圧電流は流されていそうでしたが、韓国側と比較して鉄条網の高さが低く、貧弱な感は否めません。南北臨時道路は、この鉄条網上にある錆びた鉄製の門をくぐります。金剛山観光バスの護衛(監視?)役の北朝鮮側車両は、この鉄条網のところで引き返しました。

・北朝鮮側鉄条網U
 鑑湖の北側すぐにあります。北朝鮮側鉄条網Tと瓜ふたつの二重の鉄条網です。ただ、こちらの鉄条網は臨時道路上に門はなかったと思います。鉄道の方には柵がありましたが…
 ここまで単線の線路が敷設されていました。電化はされていません。この先、鉄道工事などで多くの人民軍兵士が働いている区間になります。


行程中見えた特色ある光景

・このあたりから2の番号のあたりまでは低地と丘が交互に現れます。低地のあちこちに水溜りがみられました。1916年の地図では田んぼとなっている部分もあるので、もともと水はけが悪い場所なのかもしれません。落葉樹が多いようで、多くの木々が既に葉を落としていました。なお、番号1の付近は道路上にネットが張ってありました。統一展望台脇の駐車場から見ると、ちょうどこのあたりの上で南北を繋ぐ鉄道(道路?)の高架の工事を行なっており、落下物よけのネットだと思います。

・韓国側で最も急な坂を登りきった場所。韓国側からの進行方向左に道が分かれます。どうも地図上の標高203メートルの丘の上に韓国軍の監視所があって、そこまで繋がる道路だと思われます。この地点まで道路は舗装されていて、それ以降はしばらく無舗装ー舗装が交互に現れた後、完全に無舗装となります。

・韓国側の鉄条網にぶつかります。道はしばらく鉄条網に沿って海側に向かいます。

・このあたりの鉄道の路盤はほぼ完成しているように見えます。日本での建設直後の鉄道の路盤を思わせる、真新しくかつきれいな路盤です。臨時道路脇では、軍事境界線の説明でも書きましたが、一定間隔で塹壕の中から韓国軍兵士が数名、銃を持って北朝鮮側を睨んでいました。

・『軍事境界線まであと200メートル(少々記憶があいまいですが……)』という真新しい看板が立っています。その看板の前後から、鉄道にレールが敷かれているようになります。鉄道は単線で、架線は張られておらず、現況では電車や電気機関車の走行は不可能です。

・軍事境界線を越えると、当然のことながら監視の兵士が朝鮮人民軍になります。軍事境界線の説明でも書きましたが、カーキ色した軍服に同じような色の毛皮の帽子を被った軍人等が2〜3名、赤い旗を持って要所要所に立っています。その先も引き続き人民軍は道路脇に立っていますが、一人で立っている場所もあったし、複数で立っている場所もありました。
 また、線路と臨時道路の外側10メートルくらいのところには高圧電流が流されていると思われる金網が張られており、線路と臨時道路は外部から隔離された形になっています。

・北朝鮮側鉄条網Uの近辺から、作業をしている人民軍兵士らしき姿がよく目につくようになります。鉄道の線路が敷かれているのは北朝鮮側鉄条網Uまでなので、ここから先の鉄道はまだ工事中区間となります。また、鉄道工事以外にも建物を建てている作業員などが目につきました。
 建物の建設作業は北朝鮮側独自の工事らしく、今回の金剛山旅行で見かけた九竜淵入り口の木蘭館の増築工事のように、木枠にコンクリートを流しこんでコンクリートブロックを作り、そうして作られたコンクリートを積み上げる方法で作業が進められていました。
 鉄道工事は韓国側から提供された重機(現代建設の文字が見える)も使用されていましたが、多くの人手による人海戦術も併用されていて、重機がうなりをあげる傍らで大勢の作業員が作業をしていたりします。
 作業員は紺色のトレーナー風のものを着ている人たち、水色の薄い長袖Tシャツ風のいでたちの人たち、カーキ色の軍服姿の人たちがいました。作業員の中には、真新しい白いヘルメットを被っている人もいました。想像ですがカーキ色の軍服以外は韓国側提供のものではないでしょうか?雰囲気としては、カーキ色の軍服姿の人たちの多くは、紺のトレーナー風や水色Tシャツ風作業員のことを監視している感じでした。作業員の中には中年の男性もいましたが、多くは若者で、高校生くらいの年齢にしか見えない人もいました。
 場所によっては赤旗やスローガンが書かれたポスターが並べられており、そのような中に北朝鮮の国旗も立てられていました。

・検問が行なわれた湖の周辺は、多くの作業員(100人以上)が作業を行なっていました。が、このあたりはいったい何の仕事をしているのかわからない、ただ突っ立っているだけのように見える人も多かったです。このあたりは砂質のもろい地盤のところらしく、せっかく盛り上げた線路の路盤が、あとからあとから崩れているようで、工事はかなり難航している感じです。
 ここでは金剛山からの帰り道、女性兵士の集団に出会いました。また赤いネッカチーフを巻いた15〜20人位の小学校高学年くらいの年に見える男女混合の子どもたちの集団行進も見かけました。ちなみに先頭の子どもは、祝日に家の門に飾られる日の丸くらいの大きさの赤旗を持っていました。
 エの説明のところでも書きましたが、湖のほとりの広場のようなところにはかなり多くの枕木が野積みにされていました。この枕木は束草港で見たものと全く同じもののようで、コンクリート製の白い枕木と、木製の黒い枕木がありました。
 また、8番から9番にかけて、田んぼの跡のような場所が広がっていました。1916(大正5)年測量の同地図を見ると、確かにこのあたりは昔、田んぼであったようです。

・8の地点から先も、ところどころで何やら作業が行なわれています。しかし労働意欲は決して高くないようで、ぶらぶらしているように見える人も多いです。9の地点で建設中の線路の路盤は、東海線臨時道路の下をくぐります。それから先、これまで隣同士であった建設中の鉄道と東海線臨時道路との場所が離れます。

10・南江という少し大き目の川にかかる橋脚が、遠くから確認できました。橋の場所は基本的に日本植民地時代の東海北部線の橋と同じようです。遠目からなので確実ではありませんが、橋脚は真新しいものに見えました。つまり日本植民地時代のものではなく、今回の南北間連結鉄道工事で新たに作り直されたもののようです。
 なお、日本植民地時代の東海北部線の南江に架かる橋の位置は、日本植民地時代の金剛山観光ガイドブック:金剛山(昭和16年版)付録の金剛山探勝コース図にあるものが最も確からしく、10番の場所推定もそれに倣いました。

11・このあたりは今でも耕作されていると思われる田が広がっていました。1916(大正5)年以降、現在までの間にそれなりに河川改修が行なわれたようで、現在の川は蛇行していません。また、このあたりから少しづつ軍人や作業員以外の北朝鮮の人たちの姿が見えるようになります。大きな屋根の下で、集団で藁打ちのような農作業をしている光景も見かけました。


束草港で見かけた南北連結鉄道用の枕木・レールはこちら

(2003・12・12 完成)



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