韓国ー北朝鮮間のDMZ(非武装地帯)と、南北連結鉄道
2003・12・2〜4日の状況

(その2・南江ー金剛山青年駅の説明)


カタカナ記号(金剛山陸路観光で目立つ地形など)についての説明

オ・旧邑里(旧高城)
 日本植民地時代は高城郡の中心であった場所です。現在は旧邑里と呼ばれているようです。南江のほとりにあって、かなり高い堤防の向こうに街並みが広がっていました。高い堤防は建設後かなりの年数が経っているようで、金剛山観光のためにかさ上げしたわけではなく、もともと高い堤防を作っていたようです。
 街並みの他には、かなり大きな煙突がある工場のような建物が見えました。煙突からは煙が出ている様子は確認できず、操業しているかどうか不明です。また、町外れの方に海金剛観光の際も確認できる、旧東海北部線の蒸気機関車用の給水塔が見えました。

カ・三日浦
 金剛山観光でお馴染の三日浦です。三日浦観光の際も、これまで用いられていた金網で仕切られた川(神渓川)の北側を走っていた金剛山観光専用道路ではなく、陸路観光の往復で用いられている、川の南側の道を主に通るようになりました。今度の道は北朝鮮人民軍の監視は立っていますが、金網は張られていません。
 また三日浦入り口(数字13のあたり)には、束草港で見かけたものと同じものと思われる、コンクリート製と木製の枕木が置かれていました。

キ・金剛山青年駅
 1997年4月15日に“完成”したと報じられた、『金剛山青年線』の終点です。駅名と線名につく“青年”とは、青年突撃隊といわれる若人の勤労奉仕によって作られた鉄道であることを意味しています。
 駅の場所は、旧東海北部線の外金剛駅とほぼ同じ場所であると思われます。北朝鮮の駅らしく、駅の正面には故・金日成主席の写真が飾られ、その両脇は政治スローガンで固めてあります。
 駅の周囲の空き地には三日浦の入り口と同じく、束草港で見かけたものと同じものとみられる、コンクリート製と木製の枕木が置かれていました。枕木はかなり大量に置かれていて、他に枕木を見かけた、検問の行なわれた場所と三日浦周辺よりも量が多そうでした。また金剛山青年駅から先の南北連結鉄道部分の架線は、まだ全く作られていません。既存の金剛山青年線は一応架線があって、電化されています。
 南北間の連結鉄道は北朝鮮側でも現在工事がそれなりに進んでいるようですが、実のところ韓国側と一緒で、金剛山青年駅より先の、既存の金剛山青年線の方が問題が大きそうです。金剛山青年線は明らかに最近全く利用されておらず、路盤が流出してレールが浮いてしまっている場所もありました。金剛山地区内ですらこんな状況なのですから、金剛山以北、元山までの鉄道の現況がどうなっているのか、はなはだ心もとないところです。


行程中見えた特色ある光景(数字)

12・今回の金剛山陸路観光で、この場所が初回と二回目の金剛山観光の時に見かけた『途中で落ちている橋』の場所であると推定できました。今回は橋の橋脚が作り直され、真新しいものになっていました。今後近いうちに橋の本体が架け直されると思われます。

13・三日浦のところでも説明しましたが、このあたりに束草港で見かけたのと同じものと考えられる、コンクリート製と木製の枕木が置かれていました。

14・日本植民地時代の地図と、現在の状況とが最も違う場所がこのあたりです。日本植民地時代は、万物相・温井里、そして九竜淵の方から流れてくる神渓川と、南の方から流れてくる南江がいったん14のあたりで合流して、それからまた分流していましたが、現在は神渓川と南江は合流することなく、神渓川は12のあたりから北東方向へ流れていきます。
 東海線臨時道路は数字14のあたりで南江を渡ります。そこには新しい橋が架けられています。

15・この場所で三日浦・海金剛観光の際に用いられていた、神渓川の北側を走っていた旧金剛山観光専用道路とぶつかります。神渓川に架けられている橋は仮橋のようで、観光バス一台がようやく通れる感じです。
 またこの場所には故・金日成主席が子どもたちに囲まれている大きな絵画があります。ここから少し三日浦に進んだ場所に、集落と学校がありました。学校はかなり水はけが悪いようで、校庭には大きな水溜りがいっぱいありました。また、校庭には鉄棒がありました。

16・17 このあたりで、多くの作業員が盛んに鉄道工事を行なっているようでした。工事内容は鉄道路盤の整備のようです。作業員とともに現代の重機も見えました。ただ、他の工事場所と同じく、手持ちぶさたに見える作業員も多かったです。

18・東海線臨時道路の方は、このあたり広い場所を進みます。道路は舗装されていませんが、一応ローラーか何かで固めたようで、それなりにしっかりとした道路でした。臨時道路はもともとあった道路を簡単に整備し直したものなのかもしれません。また先にも触れたように道路脇に金網が張られていない点がこれまでの金剛山観光道路との大きな違いです。
 道路の周囲の多くは田んぼのようですが、あぜ道がはっきりとせず、耕地なのか荒地なのかよくわからない場所もありました。また、ところどころに青い芝のような草が見えたので、ひょっとしたら稲の裏作として麦を播いているのかもしれません。
 そんな広々とした場所に、貧弱な送電線が3本、走っていました。また、臨時道路の脇のあちこちで作業員たちが工事をしていました。不思議なことに作業員たちは、私たちの金剛山陸路観光の往路では道の脇に溝を掘っていましたが、2日後の帰路の時にはその溝を埋めていたことです。温井里に近い場所で溝に電線か電話線みたいな線を埋めている場面を目撃したので、2日間の間に溝に何かを埋める作業があったのかも知れません。

19・旧邑里、温井里に次ぐ大きさと思われる集落があります。日本植民地時代の名前は『両松里』ですが、現在の名前は不明です。集落は臨時道路のすぐ目の前にあるのですが、道路と集落の間には高くて新しいコンクリート壁が立てられています。集落は昔ながらの朝鮮式家屋が並んでいて、往路はちょうど夕暮れ時で、ほとんど全ての家の煙突からは、夕ご飯の用意なのか白い煙が立ち昇っていました。また、集落内には学校があって、貧弱ながらバスケットゴールも見えました。
 また、この集落と川(神渓川)の反対側にある集落との間、みんな川を歩いて渡っていました。
 このあたりの臨時道路脇でも、相変わらず北朝鮮の作業員たちが数人〜10数名づつ集まって作業をしていました。

20・このあたりに、高射砲のような砲が5門置かれていました。砲はどれも北側を向いていました。

21・川の反対側から遠望するしかなかったので詳細は不明ですが、このあたりはそれなりに鉄道の路盤の工事が進んでいるようでした。また、ところどころで土砂の山が積まれているところも見えました。そして架線はまだ作られていないことは確認できました。
 このあたりの枕木・レールの敷設が完成しているかどうか、正確にはわかりませんが、金剛山青年駅周辺に大量の枕木が用意されていることから考えると、まだ枕木・レールの敷設は済んでいないのではないかと思われます。

22・九竜淵方面から流れてくる神渓川と、万物相・温井里の方から流れてくる温井川が合流します。東海線臨時道路は合流直前の神渓川を渡ります。橋は南江に架けられた橋と同じく、新しい橋です。合流地点ではまた川を歩いて渡る人の姿をよく見かけました。

23・以前はもっと西側の丘の中腹に置かれていた、トラックに積まれた連射砲のようなものがあります。砲の積まれたトラックは全部で3台ありました。

24・丘を韓国の重機と数十人の北朝鮮作業員が共同でならし、雪遊び場を作っていました。工事の様子としてはどうも小さなゲレンデを作っているようで、ソリ遊びや簡単なスキーが楽しめる場所となりそうです。ちなみにこの場所は地図を見ればわかるように、かつて日本植民地時代、『外金剛スキー場』があった場所です。

25・ここで東海線臨時道路はこれまでの金剛山観光専用道路と繋がります。三日浦のところの説明でも触れましたが、三日浦観光の際もだいたいこの『東海線臨時道路』を使い、三日浦方面へ向かいます。


束草港で見かけた南北連結鉄道用の枕木・レールはこちら

(2003・12・14 完成)



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