懐かしの万龍閣


 戦前の日本植民地時代、金剛山には以下のような日本旅館がありました。

外金剛・温井里
嶺陽館
萬龍閣
松月旅館

外金剛・高城
高城館
(海金剛には高城館の支店があった)
花屋

内金剛
内金剛旅館
蓬莱館
不知火旅館

その他、金剛山最高峰の毘盧峰直下には久米山荘という山小屋もありました。日本の敗戦、そして朝鮮戦争という歴史の激動の中、これらの日本旅館は全て消えてしまいました。
最近、温井里にあった日本旅館「萬龍閣」の一人娘さんと、高城にかつて住んでいた方と知り合うことが出来、貴重なお話を伺うことができました。この場を借りてかつての金剛山の一面を紹介したいと思います。
(ご本人たちからお聞きした話プラス当時の資料を適宜加え、のりまきが編集した形で紹介しています)


第一部・懐かしの萬龍閣

 私は大正7年(1918)年生まれ、89歳になります。もともと父母が朝鮮で一旗揚げようと思い、半島に渡ったと聞いています。父は長箭で料亭を、そして私の母が萬龍閣を切り盛りしていました。
 金剛山は紅葉がものすごくきれいでした。そう、桜もきれいでした。いつもお客さんがたくさんやってきていて、冬もスキー客が来ました。スキー客は多いなんてもんじゃなかったですよ!当時は萬龍閣の二階まで雪が積もったので、二階からスキーを履いて直接スキーに出かけられるほどでした。
 私はピアノを弾くのが趣味で、旅館にはピアノがありました。あと萬龍閣にはテニスコートや卓球場もありました。写真が趣味なお客さんのために写真暗室の設備なんかもありました。
 山沿いにあることもあってか萬龍閣は階段が多い結構入り組んだ建物で、そのうえ広いので、初めてのお客さんは温泉から部屋に帰れずに迷子になったりしました(笑)。看板の温泉は小石の間からお湯が直接湧き出していました。金剛山の湯に浸かると肌が白くなると言ってた人もいましたよ。お隣の嶺陽館の温泉は玉子を敷き詰めたような石の間からお湯が湧き出していました。
 萬龍閣の裏手は一本道で、道沿いにはみやげ物店が並び、後ろの方には橋があって人家もあったように記憶しています。そうそう、お隣の嶺陽館と共同浴場(金剛温泉)との間の細い路地があって、そこを抜けていくと萬龍閣に出るのですけど、浴場の天窓がちょうど路地裏に面していて、いつも男湯が見えていたのです(笑)。
 萬龍閣には有名な人も泊まりに来ていました。朝鮮総督や閣僚なんかも来ましたね。特に小磯国昭総督が良く来られてました。そうした有名人が来ると人手が足りなくなったので、知り合いにお手伝いを頼んだりしました。あとは将棋の木村名人(木村義雄)も来ました。木村名人の万物相で対局している写真が残っていますよ。
 旅館で働いていた人は皆、日本人でしたね。泊まる方も日本人中心だった記憶があります。萬龍閣の裏手には小川が流れていて、よく朝鮮の人たちが洗濯をしていました。温井里には神社があって、息子の初宮参りも温井里神社でやりました。
 酒まんじゅうのようなマッカリ饅頭、あとは餡の中に松の実を入れ、へそまんのように真ん中に一粒、松の実を乗せた松の実饅頭なんかがありましたね。戦争が激しくなってくると統制が厳しくなって、こっそり作っていたのですが(笑)。美味しかったですよ〜
 (お土産に持っていった昭和14年発行「観光朝鮮」の、萬龍閣の宣伝をお渡しする)
 ああ、この和服姿の人は私です!本当になつかしい!!ああ、これはお隣さんの嶺陽館だ。嶺陽館の人はどうなってしまったのか、全くわからないです……
 終戦後、着の身着のままで日本へ戻ってきました。夫は釜山で引き揚げ者の援護関係の仕事をしていた関係で、夫だけ遅れての帰国となりました。朝鮮から引き揚げ、いったんは山口県の故郷に落ち着いたのですが、やがて下関にあった旅館を購入して、旅館を営みました。かつて萬龍閣に泊まってくださった方や知人が、下関の旅館にも泊まりに来てくださったりしました。「萬龍閣の方がずっと大きかったね〜」などと言われたこともあります(笑)。
 そして萬龍閣で仲居をされていた方の中で、戦後も長く付き合いが続いていた方もいました。仲居をしていた人たちとは比較的最近まで時々旅行を一緒にしたりしたのですが、皆亡くなってしまいました……

注1…萬龍閣のお隣、嶺陽館のご主人さんは沼さんといい、現在の山口県下関市長府出身であることは当時の文献でわかっていますが、残念なことに全く所在不明です。


第二部・高城物語

 私は海金剛近くの高城で生まれ育ちました。私の家族はもともと広島の出身で、おじいさんの代に蔚山で酒屋や造船の仕事をした後に高城にやってきたといいます。家は満州へ行っていた叔父からの仕送りや、朝鮮人に家を貸したり畑で野菜を作ったりして生活をしていました。
 三日浦や金剛山は学校の遠足場所で、海金剛へは全校生徒で海水浴にに行ったりしていました。海が荒れた時には時折浪の音が聞こえてきました。自宅から1〜2キロだったのかもしれません。
 金剛山への遠足は九龍淵や万物相、それから水晶峰に行った記憶があります。丸木橋を渡ったり崖に打ち込んだ鎖を伝ったり、かなり危ない道でした。今、あんな遠足をしたらきっと問題になるでしょう(笑)。そうそう、水晶峰には小さな水晶がいっぱいありました。そこいらの道端にも結構水晶は転がっていましたね〜あと、鮮やかな色彩のお寺に、遠足でよく行ったことを覚えていますが、どこのことだか忘れてしまいました(注2)
 私の住んでいた場所は高城の東里という場所です。朝早く自宅前を牛車が通り、肉屋には牛や豚の頭が並べられていました。高城の町の南側にある南江は、秋になると鮭が上ってきました。冬になると南江に厚い氷が張るので、その氷を日本人の氷屋が切り出して籾殻の中に保存し、夏になるとかき氷にして売り出していました。秋、氷がなくなった倉庫には籾殻がいっぱい残り、高い仕切りの上から籾殻めがけて飛び降りて遊んでいました。海からは毛ガニやウニ、あわびなんかが獲れ、茹でた毛ガニがおやつでしたね(笑)。
 高城には東里と西里があって、東里は日本人中心で、西里は主に朝鮮人が住んでいました。東里はちょうど京都の町のように碁盤目に整理された町並みで、役所や店舗が並んでいました。駅(東海北部線高城駅)の近くには、赤い屋根をした鉄道官舎が何十軒も整然と並んでいたことを覚えています。南江に近い場所には見晴亭と言う名の料亭があり、芸者さんもいました。高城にはカフェや旅館、映画館なんかもありました。
 西里には朝鮮人経営のお店がたくさんあり、端の方には市場なんかもありました。高城にはなぜか中国人も多くて、中華料理店や衣類を売る店なんかをやっていましたね。高城全体では朝鮮人8割、日本人1割、中国人1割といった人口比だったように思います。朝鮮人はサーカスが好きで、町はずれの広場で毎年サーカス団がテントを張って興行していました。
 高城の南に永朗湖という奇岩に囲まれた湖があって、永朗荘という看板が立っていてそこで日本人会が花見をしたりしていました。看板の廻りには建物などなかったですね(注3)。
 叔母が萬龍閣の一人娘さん(第一部の主人公)と親友で、著名人が萬龍閣に泊まりに来て忙しい時など、よく手伝いに行っていました。あと萬龍閣の近くにあった大藪食料品店が叔父の奥さんの実家で、叔母は大藪食料品店が経営する金剛山中の山小屋にも食料を運んだそうです。

 高城の町には学校が二つあって、朝鮮人1000人、日本人が100人くらい生徒がいました。朝鮮人はほとんどが南江そばの学校に通い、日本人、そして郡長のお子さんなど朝鮮人の有力者のお子さんは、私が通っていた高城国民学校で学びました。高城国民学校は全校生徒100人ほど、私の学年は小六の時に男女合わせて16人でした。その中に何と近隣にある分校の校長の子どもが6人もいました。温井里にあった日本人分校は全校生徒20人くらいだったようです。高城国民学校へは、何人の生徒が遠くから汽車通学していました。また外金剛の方には木炭で走るバスがあったのですが、高城あたりにはなかったので、海金剛近くの漁村あたりからも皆、徒歩通学していました。当時は4〜5キロくらい歩くのはあたりまえでしたよ。
 朝鮮人の通う学校は、通う生徒があまりに多すぎるので二部制をとっていたように記憶しています。学校も別なくらいですから、朝鮮の文化や生活を目にする機会はありましたが、朝鮮の人と付き合う機会はありませんでした。道の物売りから朝鮮語で話しかけられたら「国語(日本語)で話しなさい!」と注意していました。生意気だったのですね……
 私の小学校時代は戦争がだんだんと激しさを増す時期だったので、全校生徒で海辺の松林まで行き、松の切り株を掘って大八車に乗せて持ち帰ったことが何度もありました。なんでも松の根から採れる松根油を航空機の燃料にするとかで、小学校1年の頃から重労働させられていたわけです。

 敗戦後、まず朝鮮人の青年団が結成され、日本人の家から貴金属と土地の権利書を回収していきました。それから皆、一週間分の食料を持つように言われた上で学校に収容されたのです。まもなくソ連軍が進駐してきて、毎日「女を○名出せ!」と言われるようになりました。最初は水商売をしていた女性を送り出していたそうですが、やがて立場の弱い家の娘さんも送り出さざるを得なくなって、川に身投げする人まで出るようになってしまいました。
 近所の朝鮮人から「山を越えて逃げればよい。と言われ、実際に行ってみたらソ連兵に脅され帰ってこなければならなかった人もいました。仕方なく帰ってみると家の中のめぼしい物が全て持ち去られてしまっていた……といったことも起きました。
 私の家族は昭和20年の11月、海金剛から闇船に乗って脱出しました。闇船代は一人1000円。1円で朝鮮のお餅が10個買えた時代なので大金です。夜、漁船の底に隠れて海金剛を出航し、朝、38度線の南側にある注文津という場所にたどり着くことが出来ました。北側と違って38度線の南側はソ連兵とは違って、アメリカ兵がチョコレートをくれたりして、日本への帰国も比較的スムーズに出来ました。それでも日本へは着の身着のままで帰ることになってしまいましたが……
 日本へ着いてみたらまず、日本人が働いていることに驚きました。金剛山では、日本人は人を使う仕事ばかりしていたのです。お百姓をしている日本人を見てほんとうにびっくりしました。
 同級生とは昭和20年11月以降、会っていないのです……私一人先に帰ってきてしまい、お別れも出来なかったので、皆、無事に帰ってこれたのかどうか……でも、きっとどこかで生きていると思っています。

(注2)これは金剛山四大寺のひとつ、神渓寺のことだと思われます。

(注3)永朗荘はもともと別荘地として分譲されました。建物がなかったということは、結局別荘地としての開発は上手くいかなかったものと思われます。




金剛山の昔話に戻る

金剛一万二千峰へ戻る

のりまき・ふとまきホームへ戻る