内金剛遥かなり
(序章/前章)



古来内金剛有数の名所である、銅の柱で絶壁に立つ庵、普徳庵


ついに行くことができました!内金剛!!
観光客としての訪問は、なんと約60年ぶりとなる内金剛
内金剛はある意味、日本植民地時代の1910年代前半頃のような
手付かずの状態に戻っていました……



内金剛遥かなり・目次

第一章・北朝鮮入国、そして金正日総書記党事業開始40周年記念式典

第二章・平壌観光、そして元山へ

第三章・内金剛へ・運転手苦難の行軍

第四章・内金剛到着・マイクロバスに飛び乗ろうとした人民軍兵士

第五章・内金剛観光(1)・少年がどこまでも付いて来る〜〜

第六章・内金剛観光(2)・そして我らも苦難の行軍!

第七章・内金剛観光(3)・内金剛にこだまする歌声

第八章・内金剛から元山へ・ようやく戻ってきました!

第九章・朝の元山港桟橋散歩、そして共同農場

第十章・平壌に戻ってボーリングとプリクラ体験

第十一章・鉄道事績館で金剛山電気鉄道の車両にご対面


裏日記



(前章)
内金剛旅行に向かうまで


内金剛にある、朝鮮半島一の大きさを誇る磨崖仏、妙吉祥
像の高さは約15メートルにもなるという。
妙吉祥は今回の内金剛旅行の最終目的地であった



 今回の内金剛行きは、のりまき・ふとまきのこれまでの金剛山行き以上に遥かに遠い道のりでした。
 のりまきが内金剛行きのツアーの募集があると知ったのは、2002年の第二回金剛山旅行の直後でした。まさか内金剛に行けるとは思ってもみなかったのりまきは、さっそく旅行社に問い合わせをしました。しかし、仕事の都合もあって2002年のツアー参加は断念せざるを得ませんでした。
 翌2003年にも内金剛ツアーの募集がかかりました。2003年のツアーには参加できそうな日程があり、実際に旅行申し込みをしたのですが、今度は北朝鮮政府の日本人観光客の入国禁止措置によって、旅行の実施そのものもが不可能になってしまいました。9月末には禁止措置が解除となったため、10月の内金剛ツアーの募集は行なわれたのですが、またまた仕事の都合でツアー参加を断念せざるを得ませんでした。ところで2003年までの内金剛行きツアーは、人数が集まらずにツアー催行がキャンセルされたり、ツアーが行なわれた場合も内金剛行きが中止されて、実際に内金剛まで辿り着くことができたツアーはありませんでした。
 2004年に入って、6月実施予定の内金剛行きツアーの募集がなされました。いよいよ3年越しの念願を叶えたいと思い、のりまきはツアー申し込みをしたのですが、人数が集まらずツアーとしてはキャンセルとなってしまいました。しかし今回は人数が集まらなくとも内金剛行きを実現させたいとの強い要望が北朝鮮側から上がり、旅行社の担当さんの方から「のりまき・ふとまきさんたちがよろしかったら、人数が予定通り集まらなくとも内金剛に行ってみますか?」と言われました。もちろん私たちは「ぜひお願いします!」と旅行会社の担当さんにお願いしました。北朝鮮側との交渉の結果、結局4人の参加者での内金剛旅行が実現したのでした。

 北朝鮮側からの強い要望の陰には、朝鮮国際旅行社のL課長の内金剛観光開発に対する努力がありました。L課長はこれまで内金剛に5〜6回視察を行い、金剛山最高峰の毘盧峰までも足を伸ばしたといいます。『現代に外金剛を盗られた!』とまで言っていたL課長とすれば、外がだめならばなんとか内金剛に観光客を呼びたいという気持ちがあったようです。
 それにしてもなぜ外国人である我々が、韓国側からの観光客と一緒の場所を観光することが都合が悪いのかがわかりませんが……とにかくL課長は内金剛の道の修繕を働きかけたり、日本人観光客の関心が高そうな、金剛山電気鉄道の跡地について内金剛の古老に聞いてまわったりするなど、内金剛観光実施に向けての努力を続けていて、内金剛にぜひ観光客を呼びたいという思いが高まっていたのでした。
 のりまきの足掛け3年にわたる内金剛行きの希望と、朝鮮国際旅行社のL課長の内金剛観光実施に対する強い願いとが合致して、今回の内金剛行きが実現したのでした。
 また、内金剛への道のりは朝鮮国際旅行社の運転手の誰もが行きたがらないという悪路続きであり、運転手さんの苦労も並大抵のものではありませんでした。旅行記本文の前に、今回の内金剛行きに努力していただいた皆さんと、一緒に最後には道なき道を登ったツアーメイトの皆さんに感謝を述べたいと思います。




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