内金剛遥かなり
(第一章)



金正日総書記党事業開始40周年記念で行なわれた金日成広場でのダンスパーティ
後姿は踊るふとまき、自家製の巨大なウエストポーチが目立ちます(笑)



 2004年6月19日(土)の朝4時、のりまき・ふとまきは起床しました。昨晩のうちに旅行の支度は済ませてあったので、着換えと簡単な荷物チェックを行なったらすぐに、遥かなる内金剛をめざす旅に出発しました。
 折りしも南海上には台風があり、ここ数日の天気は日本も朝鮮半島も良くないことが予想されていて、北朝鮮奥地の内金剛行きには天気の不安がありましたが、旅行の出発はやはり楽しいもので、のりまき・ふとまきともに大荷物を抱えながらも足取り軽く、始発電車の待つ駅へと向かいました。
 電車の乗り継ぎも順調で、予定通りに羽田空港に到着し、中国の瀋陽までの航空券を引き換え、更に荷物も預けて身軽になって朝食を食べました。この頃から気になりだしたのが私たち以外2名の今回のツアー同行者のことです。1名のTさんという人は事前に連絡がついたのですが、どんな感じの人であるかまではわからずじまいでしたし、あとのひとりはいったいどのような人なのだかまったく見当もつきませんでした。私たちは羽田空港でTさんの姿を探してみたのですが、最初に乗る飛行機は単なる羽田ー関空の国内線です。大勢の乗客の中では全く見当がつきませんでした。
 機体トラブルがあったとのことで出発が30分遅れてしまいましたが、関空への飛行は順調でした。出発時の天気は良く、飛行機からは富士山や南アルプスがよく望めました。予定時刻からやや遅れて関空に到着し、時間の余裕があまりないこともあって、少し急いで瀋陽行きの国際線乗り継ぎの手続きをしました。関空でもまだ北朝鮮への同行者が誰なのだかわかりませんでした。

 瀋陽に到着する前、飛行機は大連を経由します。大連の飛行場前には立派な新興住宅街がずらーっと並んでいて、最近話題の中国の経済発展の凄まじさが実感できました。
 大連では瀋陽に向かう私たちもいったん飛行機を降ろされ、中国の入国手続きをします。入国手続きのカウンターで列に並んでいると、一人の男性が私たちが今回、北朝鮮旅行を手配したのと同じ旅行会社のマークが入った書類を持っていることに気づきました。この人物がTさんで、今回のツアーに同行する人物の一人でした。E.Tさんは訪朝歴10回以上という北朝鮮観光経験豊富なベテランで、今回の旅行でも色々とお世話になることになります。
 しかし、もう一人の同行者はいまだ不明です。E.Tさんが旅行会社の担当さんに問い合わせてみたところ、もう一人も訪朝歴が何回かある人物であるとのことでした……すると今回の北朝鮮旅行は、のりまき・ふとまきが最もビギナーということになります。いったいどんな旅になるのでしょうか?

 時間になったので飛行機に再び乗り込み、瀋陽へ向かいます。座席に着いてからまもなく、E.Tさんが隣に座っている男性のことを、少し離れたところに座った私たちに「この人が一緒に行くそうです」。と言ってきました。その男性は関空から大連間もTさんの隣に座っていたのですが、お互い気づかなかったそうです。
 瀋陽に到着して、私たちはその男性に挨拶しました。男性はSさんといい、今回で訪朝4回目とのことでした。Sさんは今回の旅行参加者の中では一番積極的に、聞きにくい質問もガイドにぶつけていき、おかげでただガイドの話を聞くだけではわからない、色々な面が見えてきたと思います。

 瀋陽からは高麗航空に乗って一路平壌を目指すことになります。平壌行きの飛行機の手続き開始を待っていると、正体がよくわからない日本人が集まってきました。若い2人組の女性や、親族が北朝鮮にいるという中年女性などとともに、いちばん正体が謎である男女4人組がやってきました。この4人組、観光客でもビジネス客でもジャーナリストでもなさそうでした。観光客は私たちのグループだけのようでしたから、あとの人たちが北朝鮮にいったい何をしに行ったのか、よくわかりません。
 ところで……今回の旅行関係の書類を見ていて、のりまきは面白いことに気づきました。私たちの北朝鮮ツアーの名称が『日朝友好親善観光団』となっていたのです。そんな話聞いてないよ〜〜(苦笑)。後から出てきますが、平壌に着いてから私たちのツアーは『日本15次観光団』であることがわかりましたので、今回のツアーの正式名称は『第15次日朝友好親善観光団』となるのでしょうか(大笑)。

 平壌行きの飛行機は例によって旧ソ連製の飛行機です。飛行機はほぼ満席でした。前2回は暑い盛りに行ったおかげで、下界では暑く、飛行機が上昇するにつれて涼しくなり、また着陸前に暑くなるという“天然冷房”飛行機でしたが、今回はまだ暑くなる前だったので比較的快適でした。機内ではガムと飲み物のサービスがあり、さっそくチャレンジです。ふとまきはさっそく北朝鮮製のビールを飲んでいました。飲んでみると意外とアルコール分の低そうなビールでした。

 夕方の5時少し前、予定時間通りに平壌に到着しました。4年ぶりの平壌空港ですが、あまり変わっている様子はありませんでした。空港での手続きも比較的順調で、入国審査前にガイドさんが待っていた前回とは違い、今回は普通に入国手続き終了後にガイドさんが現れました。ガイドさんは一人は前回、2000年の訪朝時と同じHさんで、あとの一人は朝鮮国際旅行社のL課長さんという人で、後から合流するとのことでした。
 空港では北朝鮮観光では恒例なのですが、みんなパスポートをガイドに預けました。ところで今回の参加者のうちSさんのみは携帯電話を持参していて、Sさんはパスポート以外にも携帯電話を預けることになりました。
 平壌市内に出発前、トイレに行ってみたところ、すごくきれいなトイレになっていました。特に訪朝歴豊富なTさんがひどく驚いていました。E.Tさんによれば『日朝首脳会談の際、日本側にトイレが不評だったかなにかで変えたのでは?』と言います。

 私たち一行が乗る車はマイクロバスでした。今回のツアー参加者は4人ですし、内金剛のような奥地に行くのですから、もう少し小さな車が現れるかと思っていたので意外でした。マイクロバスは私たちを乗せて平壌市街へと向かいます。挨拶の後、ガイドのHさんは笑いながら、「ふとまきさん以外は皆さんベテランさんなので、説明はふとまきさんにします」。と言って、ふとまきに対して平壌の説明をし始めました。
 平壌の天気は曇り空でした。マイクロバスに乗りこむやいなや、Sさんがビデオカメラを廻しだしたのにはびっくりしました。空港から平壌市街へと向かう間に感じた北朝鮮の第一印象としては、2000年の時とあまり変わっていない感じがします。やがて平壌市街に入った頃、Hさんは「今日は祝日です」。と、意外な話をし始めます。「祝日??何の??」北朝鮮観光のベテランであるE.Tさんがさっそく聞き返しました。
 「今日は金正日総書記が金日成総合大学を卒業された後、1964年6月19日に党で事業を開始されてからちょうど40年目になる日なのです」。ガイドのHさんはそう答えました。『いったい何のこと?』Hさんの言い回しがややわかりにくかったので、のりまきは少し考えてしまいました。『ああ、そうか!金正日総書記が朝鮮労働党で仕事を始めて、今日で40年になるのか……いうなれば就職40周年記念日か!!』どうも今日6月19日は、北朝鮮の国じゅうで金正日総書記の就職40周年をお祝いしているようなのです。国じゅうで就職40周年を祝って貰えるとは、きっと金正日総書記は世界一の果報者に違いありません。

 やがて平壌市内でL課長がマイクロバスに乗り込んできました。それから「今日の予定ですが、まず夕食を食べに行きましょう。それからホテルにチェックインして、すぐに金日成広場で行なわれる記念の夜会に行ってみましょう」。とHさんがこれからの予定を話します。旅行会社から事前に貰った予定表では、まず万寿台の金日成銅像に行くことになっていましたので、北朝鮮旅行恒例の予定変更がさっそく始まりました。ところで『記念の夜会』とは、訪朝経験の豊富なE.Tさんによれば一大ダンスパーティとのことで、ゴールデンウイーク時に訪朝をすると、必ずと言ってよいほどメーデーを祝う夜会に参加できるそうです。
 マイクロバスは夕食が用意されている食堂へと向かいました。前回も初日の夕食を食べた場所と同じでしたが、近くには平壌一般市民向けらしいビアホールが出来ていて、店の外まで長い行列が出来ていました。夕食のメインは簡単な鍋のようなもので、何故だかわかりませんが前回同様、パンもついてきました。それなりに美味しい食事でしたが、後から振り返ってみると今回の北朝鮮旅行では正直、一番はずれの食事でした。
 食事の席上、L課長は「最近、日本から朝鮮に観光に来られる人は減っています」。と話していました。どうも最近の険悪さ漂う日朝関係が影響しているようです。話の中でL課長は「今は日本で朝鮮観光の宣伝をしようにも時期が悪い」。という話と、「最近は、朝鮮と南(韓国)とが仲良くやっていこうというようになってきたのだが、アメリカが邪魔をしている」。という話を強調していました。
 また、私たちの訪朝の前に平壌を訪問した小泉首相についても「朝鮮の人はみんな『何をしに来たの?』という思いで見てました」。と、説明しました。拉致問題やら核問題やら日朝交渉やら……北朝鮮については日頃のニュースである程度知っていたつもりでしたが、L課長の口ぶりからも改めて、私たちが難しい時期に訪朝したことを実感しました。
 食事中、雨が降り出しました。雨はかなり強くなってきて、2日後の金剛山行きを前に不安がよぎります。食事後、金日成広場での夜会の時間が迫っているとのことで、最初の予定を変更していきなり金日成広場へ出かけることになりました。

 夕闇の平壌市街を走り、金日成広場近くに到着しました。広場の近くにはすでに大勢の人と多くの車がやってきていて、“夜会”とやらがかなり大きなイベントらしいことがわかります。L課長は私たちに入場券を配りました。入場券の裏を見ると、朝鮮文字で『日本15次観光団』で書かれているのがわかりました。15次というのはたぶん2004年になって15組目の観光訪朝団ということでしょう。
 降り続く雨の中、夜会を見るために集まった大勢の人の中を私たちは進みました。Sさんは「(北朝鮮で)こんなに大勢の人の中を歩けるのは初めてだ!これだけでも感動だ!」といいながらビデオカメラを廻していました。
 金日成広場を望むことができるひな壇に向かう人々は、それぞれ決められた入り口からひな壇に入場するようになっていました。大勢の人が入場している入り口もあれば、見るからに高級幹部しか入れなさそうな入り口もありました。私たちは一番奥の方にあった6番の入り口からひな壇へと向かいました。

 ひな壇に出てみてびっくりです!金日成広場には多くの人々が並んでいるではありませんか!特に女性はほとんど原色系の派手なチマチョゴリを着ていて、壮観な眺めです!!また、広場の向こうの方には大勢の合唱団が並んでいます。“夜会”というのは一大ダンスパーティであることは先ほど聞いたばかりですが、改めて納得です。
 広場中に集まった人々は号令一下、いったん広場の端に寄せられます。やがて合唱団の中ほどに楽器を抱えたオーケストラが現れ、続いて独唱歌手が現れました。まもなく再び号令一下、いったん端に寄せられた人々が広場全体へと広がり、合図とともに一大ダンスパーティ『金正日就職40周年記念夜会』が始まりました。

ダンスする人々

 大勢の人々がダンスする姿は、実に見ごたえがある光景です。合唱団の奥の方でも大勢踊っていましたし、広場両脇の建物の間にも踊りの輪が出来ていましたので、踊っている人の数は数千では足りず、万の単位だったかも知れません。
 ふと、ひな壇で踊りを見ている人々を見ると、中国からの観光客の姿に混じって、夏服の学生服姿をした、大阪の朝鮮高校の学生たちがいました。今回の北朝鮮行きの前に、先日新潟港に万景峰号がやって来たとのニュースを聞いたので、万景峰号に乗って故国に修学旅行に来た、修学旅行生なのかもしれません。

 ダンスが始まってしばらく後、ひな壇から降りられるようになりました。するとみんなひな壇から降りて、近くからダンスを眺めるようになりました。するとガイドのHさんが「どうです?皆さんも踊っていませんか?」というので、のりまき・ふとまきはHさんに連れられて踊りの輪に入ってみました。
 もちろん初めての踊りなので、最初はまったく勝手がわからず戸惑いましたが、少し慣れてくると面白いことがわかってきました。まず、振り付けは曲が変わっても大きくは変わらないことです。どの曲でもだいたい似たりよったりの踊り方をしていました。そしてもっと大きな特徴は、私たちが小学校で習ったりしたダンスでは、曲が進むにつれてパートナーチェンジがありますが、北朝鮮のダンスでは基本的にパートナーが変わらないのです。新しい踊り手が来るなどしてパートナー関係が崩れるまで、ずーっと同じ人と踊りつづけているのです。
 踊っている人の姿を見ると、多くの人は喜々として踊っています。日本でもダンスは小学校の体育の指導要領で『集団意識を育てる』といった目的で授業に取り入れられていると思いますが、大勢のダンスの輪とその中で喜々として踊る人々を見て、のりまきはこの“夜会”には、集団意識の高揚といった目的を感じざるを得ませんでした。

 ダンスの輪から抜けて一休みしていると、同行のE.Tさんが現れ、『踊ってみたい』とのことだったので、今度はふとまきとE.Tさんが踊りに行きました。のりまきはカメラマンとしてついて行きます。ふとまきとE.Tさんはすぐにパートナーが見つかり、楽しげに踊りだします。特にE.Tさんは本当に嬉しそうです!!踊りながら飛んだり跳ねたり!E.Tさんのハッスル振りには周囲の北朝鮮の女性たちも笑っています。

踊るふとまき


ハッスルするTさん

 やがて写真を撮っているのりまきのところにも『踊りませんか?』と、北朝鮮の女性が現れました。こういう時は写真を撮っているよりも踊っている方が楽しいです。のりまきも再び踊り出しました。みんなが踊りつづける中、いつしか雨も止んでいました。雨上がりの少し蒸し暑い中、踊りの熱気が体全体に廻っていくのが感じられます。

 約一時間ほどで夜会は終了しました。終了後みんなグループごとに集められ、点呼を取られていました。どうも地域とか職域などの団体で『動員』がかけられていたようです。また夜会中は、トラックに載せられた投光器まで動員して金日成広場を明るく照らしていましたが、終了後はすぐに暗くなっていきました。

 私たちはマイクロバスに戻り、宿泊場所である羊角島ホテルへと向かいました。思いもかけぬ“夜会”の参加もあって、チェックインは9時をまわっていました。チェックイン後、部屋に荷物を置いてからホテル一階で、ツアー参加者4名とL課長とガイドのHさんの6人で飲み会です。飲み会の中で、L課長が内金剛について「私は内金剛に何度か行って、日本人観光客が興味を持ちそうなことを地元のお年寄りから聞いてきた……かつて金剛山には鉄道が走っていたが、1944年に突然レールが外された。『何でだろう?』と思っていたら、まもなく日本が戦争で負けた。これは日本が戦争で負けることを予想して線路を持っていったのでは?と思った……という話を、内金剛のお年寄りから聞いた」。という話をしてきました。
 思いもかけぬところで金剛山電気鉄道の話が出て、のりまきはびっくりです。早朝からの旅の疲れが出て、眠気が襲ってきていたのですが、金剛山電気鉄道の話を聞いてすっかり眠気がふっとんでしまいました。「今も鉄道跡はあるのですか?」のりまきはL課長に聞いてみます。「ありますよ。鉄道が走っていたところが周囲より高くなって残っていたり、トンネルの跡もあります」。
 「今度の内金剛行きの時、鉄道の跡を見ることができますか?」と、聞いてみると「はい、見ることができます」。との答えが返ってきました!内金剛への道のりはいまだ遠いけれども、ますます内金剛行きへの期待が高まります。
 またL課長は、金剛山最高峰である毘盧峰の様子についても、「私は金剛山の山頂まで行ったことがある。山頂には日本の頃のものと思われる山小屋の跡が残っている。石造りの山小屋だったようだ。また、山頂にはきれいな泉が湧いているところがある。山頂直下の土を少し掘ってみると、ガラス瓶がたくさん出てくる。一番多いのが日本製の瓶で、次に多かったのがソウル製のものだった」。と、かなり具体的な話をします。のりまきにとってL課長の話は、なお一層内金剛に対する思いを募らせることになりました!
 それからのりまきはL課長に、玄武岩の柱状節理が見事な『叢石亭』に行けるかどうか聞いてみました。すると「叢石亭には私も行ったことがない」。といいます。L課長が行ったことがないとは、どうも叢石亭への道は思った以上に遠いようです。そんな時、ガイドのHさんが「叢石亭には元山から船で行く計画がありますよ〜〜」。といいます。どこまで本当の話かわかりませんが、将来、期待したいと思います。

 ところで……みんなビールを結構調子良く飲んでいたのですが、飲めないのりまきとともに、L課長もビールをほとんど口にせず、Tさんやのりまき・ふとまきが持参した甘めの駄菓子をしきりと口に放り込んでいました。どうやらL課長も典型的な下戸のようです。「L課長さん、お酒苦手なのですね」。と、のりまきが聞いてみると、L課長は苦笑いしながら頷きました。

 様々な話で盛り上がったこともあって、飲み会は11時半頃にお開きとなりました。のりまき・ふとまきは部屋に戻るとさっそくお風呂に入って、床についたらまもなく爆睡に突入です。




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