内金剛遥かなり
(第七章)



万瀑八潭のひとつ、碧波潭。エメラルドグリーン色をした美しい淵です。



 妙吉祥を下りだす頃には、天候がかなり回復し、青空から時々日が差すくらいになりました。表訓寺のお坊さんの言った通り、天候の悪化はありませんでした。さすが地の人です、内金剛の天気を良く把握しています。
 天候が回復すると、これまで雲に隠されていた内金剛の峰々も少しづつ姿を現しだします。なかなか感じが良い山並みなのですが、私たちが歩いた限り、内金剛は木々が多くて開けた場所が少なく、いまいち山並みの展望が利きません。でも、内金剛の峰々に登ってみると、外金剛の上八潭や万物相に負けないほどの展望に恵まれるともいいます。のりまきはいつの日にか内金剛の峰々に登り、絶景を楽しむことが出来れば……と思います。

内金剛の峰々、いつの日にかのりまきが登頂する日は来るだろうか?

 下りながら、のりまきは行きに取り残した写真をできるかぎり撮るように心がけました。その中で困ったのが、普徳庵より上流側では全く名所の案内表示がないことです。『ああ、きれいな場所だなあ〜』と思っても、そこがいったいどういう場所なのかわからないのです。仕方がないので旅行前に見た、北朝鮮の写真集や日本植民地時代の内金剛を撮影した写真の、あやふやな記憶をたよりに写真を撮っていきました。日本に帰ってから確認してみると、やはりかなりの取り残しがあったようです。
 また、はっきり確認できたわけではないのですが、内金剛の万瀑八潭の光景は、日本植民地時代と比較してかなり変わってしまった可能性があります。のりまきが想像するに、渓谷内に転がっている石がかなり増えたのではないか?と思われるのです。ただ、そうであったとしても万瀑洞の渓谷は、外金剛の九竜淵の渓谷とは一味違った、優れた渓谷であることは今現在も変わりありません。
 今回、のりまきは内金剛に辿り着くことができて、その上に妙吉祥まで足を伸ばせたので本当に大満足ですが、正直、もう少し時間があれば……と思ったのも事実です。例えば戦前のとあるガイドブックには、今回のコースの観光に7時間くらいかけるべきだ……などと書いてありました。元山からの日帰りが必要で、往復に7〜8時間かかってしまう以上、仕方がないのですが、本当に駆け足で内金剛を見ることになってしまいました。

 万瀑洞の渓谷の入り口では、今回の内金剛行きでのりまきが是非見てみたいと願っていた、大岩に刻まれた楊蓬莱の名筆『蓬莱楓嶽元化洞天』と、仙人が碁を楽しんだと伝えられる、岩に刻まれた碁盤をカメラに収めることができました。拓本は見たことはあるのですが、楊蓬莱の文字は古来有名であるだけあって、実に味があるものでありました。

少し見にくいですが……楊蓬莱の名筆『蓬莱楓嶽元化洞天』です。


仙人が碁を楽しんだと伝えられる、岩に刻まれた碁盤

 ところで帰り道に数名の男性が下の方から登ってきたのに出会いました。男性たちはカーキ色の作業着を着て、同じくカーキ色のリュックを背負っていました。そういえば11時半頃に三仏岩に到着してから、私たちはこれまであの二人の少年を除くと、誰も他の登山客に出会っていません。しかも「あの人たちは?」と、L課長に訊いてみると、「道か何かの工事をする人たちだと思います」。といいます。結局この日一日、内金剛を観光したのは実質私たちの団体のみであったようです。

 午後の4時頃、表訓寺に戻りました。出発は4時半とのことで、めいめいころんだ時に負った傷の手当てをしたり、トイレに入ったりしました。L課長は川の方に向かいました。少し経ってからL課長の方を見ると、「こちらに来なさい」という感じで手招きをしています。のりまき・ふとまきは、せっかくですのでL課長の方へと行ってみました。
 L課長は靴を脱いで、渓流に足を浸していました。気持ちが良さそうだったので、のりまきも靴を脱いで川の流れに足を浸してみました。「つ、冷たい!!」ひんやりとしているとは思いましたが、刺すように冷たい水です。気持ちは良いのですが、とても長い時間足を浸けていられません。
 そうこうしているとE.TさんとSさんもやってきて、川の水で顔を洗いだします。汗を拭えて気持ちが良さそうです!「次回はここでバーベキューやりましょう!内金剛にテントでも張れれば最高峰まで行くことも出来る、そして今後、普徳庵あたりに山小屋のような簡単な宿泊施設を作ったらどうかなとも思っています」。と、L課長は内金剛観光にかける意気込みを語ります。金剛山フリークののりまきが次回内金剛に行く時には、内金剛はどのように変わっているのでしょうか?
 続いてL課長は、「最高峰までの道のりは、妙吉祥のあたりでちょうど中間くらいです。以前最高峰へ行った時は、朝、内金剛を出発して、戻ってきたのが午後6時頃でした。最高峰へは以前、日本の男女7名くらいの団体が、外金剛側から行ったことがある(注1)……それ以外に日本人は誰も行っていません。最高峰への道は、内金剛側の方が外金剛側よりもゆるやかでやさしい、外金剛側からの道は大変に険しい!でも内金剛側も最後、金のくさり、銀のくさり(注2)と呼ばれる、とっても険しいところを登る」。と、金剛山山頂への道のりについての、かなり詳しい説明をしました。のりまきもいつの日にか、金剛山山頂(毘盧峰)に立ってみたいです!!
 川べりから離れる際、L課長はふとまきに河原の石をひとつ渡しながら「これを記念に持って帰ってください」。と言ってきました。ふとまきはありがたく内金剛の石を記念に持ち帰ることにしました。

 そうこうするうちに4時半になりました。いよいよ内金剛を出発する時が来ました。次回、内金剛に来れるのはいつになるでしょうか?のりまきにとって、内金剛にはまだまだ宿題があります。例えば最高峰の毘盧峰に登ってみたいし、若山牧水を感動させた白雲台からの絶景も是非、この目で確かめたいです。
 私たちがマイクロバスに乗り込もうとすると、ガイドのHさんが「皆さん、こちらの2人の女性がここから家に帰るので、乗せてあげてもらえませんか?」と言ってきます。見ると内金剛で歩いている他の女性とは、比較にならないくらい垢抜けた服装をした、2人の若い女性がいました。それにしても平壌到着後に同僚のガイドさんを乗せはしましたが、これまでヒッチハイクは完全無視でしたし、行きに出会った負傷した兵士も乗せませんでした。また彼女たちと時を同じくして、男性も表訓寺から家に帰るようです。『どうして彼女たちだけ乗せるのだろう?』という疑問が起きましたが、特に同乗を断わる理由もないので、彼女たちもマイクロバスに乗せて表訓寺を出発しました。あ、運転手さんは特に酔っ払っている様子はなく、普通でした。とりあえず一安心です。最初の道は行きも通った農業用道路のような道ですから、運転手さんの様子は正直、少し気がかりだったのです。

 出発してひと心地ついた頃、ガイドのHさんが、「彼女たちは車に乗せてもらったお礼として、歌をうたうとのことです」。と言ってきました。まもなく、彼女たちはアカペラで歌い出しました。
 素朴かつ澄き透るような彼女たちの歌声は、内金剛の空に溶けていくかのようでした。車窓から広がる光景も、私たちの郷愁をそそります。

このような郷愁を誘う風景の中、素朴な歌が流れる……
ちなみに左下に見える土の道をマイクロバスは進みました。本当、よく通行できたものだと思います。


 やがて行きでも立ち往生した、砕石が敷いてある場所にさしかかりました。案の定、今回もマイクロバスは土の道と砕石とのギャップを上がることができず、立ち往生してしまいました。そこで運転手さんと女性2名を除く我々6人はマイクロバスを降り、土と砕石とのギャップをゆるくするように石を並べました。それからマイクロバスを軽くするために6人は下車したまま、マイクロバスを動かしてもらいました。するとマイクロバスは無事、砕石のある道へと進むことが出来ました。またまたみんなで拍手です(笑)。


マイクロバスが立ち往生した場所から写した、内剛里の一部。

 L課長は「今後、この道はこのように石を敷いて雨でも大丈夫なようにします。必ずやります」。と、改めて強調していました。ところで農業用用道路のような道を下まで降りて、普通の道に戻る際、道の奥の方に行きも見えた検問所が見えました。ここでのりまきが「昔はこの道を通って行ったと思いますが、この道の奥はどうなっているのですか?」と聞いてみたのですが、答えはありませんでした。
 内金剛駅の跡を横目に見た後、内金剛の入り口にあるゲートに到着しました。時計は4時50分を指していました。さようなら内金剛!また来る日まで!!


(注1)この男女7名の毘盧峰登山者とは、世界初の女性でのエベレスト登頂に成功した、女性登山家の田部井淳子氏ら一行のようです。田部井氏らは1998年5月に外金剛側から毘盧峰へと登頂しています。またかなり以前、今井通子氏らも金剛山登山を行なったようです。

(注2)金剛山最高峰である毘盧峰に、内金剛側のメインルートから登った場合、山頂直下に『金梯子銀梯子』という難所があります。ただ、L課長の言うような、『金のくさり銀のくさり』という言い方もあるのでしょうか?ちなみに北朝鮮の金剛山関連のガイドブックは『金梯子銀梯子』となっています。



内金剛遥かなり(第六章)に戻る

内金剛遥かなり(序章/前章)へ戻る

蓬莱の巻に戻る

金剛一万二千峰へ戻る

のりまき・ふとまきホームへ戻る



内金剛遥かなり(第八章)に戻る