内金剛遥かなり
(第五章)



内金剛万瀑洞で、下の村からついてきた少年とのりまき



 内金剛駅の跡地のそばを過ぎた後は、のりまきは川沿いの道を遡り、朝鮮戦争で焼失した長安寺の跡地あたりまで車で行くものだと思っていましたが、私たちを乗せたマイクロバスは川沿いの道を離れて、谷のような地形へと入っていこうとします。見ると川沿いの道には検問所があって、その奥の木立の中には、内金剛の他の家とは明らかに違う、整った形をした屋根が立ち並んでいるのが確認できました。日本植民地時代、長安寺の手前には内金剛観光の中心地として朝鮮総督府鉄道局直営の長安寺ホテル(内金剛山荘)や、日本式や朝鮮式の旅館、更にはみやげ物屋なのが建ち並んでいたといいます。どうも外金剛の温井里がそうであったように、内金剛の長安寺周辺も北朝鮮の労働党や政府の要人の保養所のようにしてしまい、一般人民を締め出しているようです。

 私たちを乗せたマイクロバスは、ちょうど日本の山間部などでよく見られる、農作業用の道路のような道へと入り込んで来ました。L課長が「この道がぬかるんでないかどうか、一番心配でした。もしこの道が通れなかったら、下から歩かなければいけないと思っていました」。といいます。道は特にぬかるんではいませんでしたが、単なる農作業用の道くらいの幅しかありませんので、マイクロバスの大きさでは通るのがやっとです。「これって、日本の登山ガイドブックでは“歩道”として載るだろうな」私たちはそんなことを言い合います。
 少し登ったところで、道に砕石が敷かれているところに着きました。マイクロバスは土の道から砕石を敷いた道との間にあるギャップを登ることが出来ませんでした。そこでみんなで車を降り、土の道から砕石を敷いた道との間にあるギャップをゆるくするように、石を並べたりしました。皆の協力の甲斐あって、マイクロバスは無事に砕石を敷いた道に乗ることができました。もちろんみんなで拍手です(笑)。
 「雨が降っても通れるように、この道全体にこのように石を敷く作業をしているところです」。L課長はそう説明します。「でも、ここは田舎で人手が少ない。そして日本のように機械もないから、みんな手でやらなければならない……だからなかなか作業も大変だ」。とも言います。

 砕石を敷いた道はほんの10メートルほどで、またすぐに元の土の道を登っていきます。新緑の緑がまぶしい山々、そして下のほうには平屋瓦葺の朝鮮式農家が並び、昭和30年代の日本映画にでも出てきそうな、郷愁を誘う光景が広がっています。ちょうどそんな時です、下のほうの瓦葺の朝鮮式民家の近くに、2人の少年がいるのが目につきました。こちらから手を振ると2人の少年は手を振り返します。『ああ、いい光景だなあ〜〜』と、言い合っていたら、なんと2人の男の子は私たちの乗ったマイクロバスを追いかけてきます!その追いかけるスピードの速いこと速いこと!!いくら農作業用程度の道路とはいえ、私たちは車に乗っています。カーブを幾重にも切りながら高度を稼ぐ私たちのマイクロバスを尻目に、少年たちはかなり急な坂を直線的に急登して、どんどん高度を稼いでいきます。車中はざわめいてきました。
 「ありゃ〜〜これは追いついちゃうかな?」E.Tさんがそう言います。「ひょっとしたら追いついちゃいますね!それにしてもすごい脚力だ!!もし追いついたら日本に連れ帰って陸上の英才教育でも施したいですね〜」と、思わずのりまきは答えてしまいました(笑)。

 もともとのスタート地点のハンディがあったのと、さすがに車と人の足の能力差があったのか、この坂道では少年たちはもう少しのところで追いつくことが出来ず、マイクロバスは最高地点を過ぎて下り出します。下りにかかると眼前に内金剛の峰々が迫ってきました!金剛山の名に羞じない風格を感じる峰々です。ああ、ついに内金剛にやって来ることが出来ました!!初めて眼前に広がる内金剛の峰々は、外金剛に較べて緑が濃く、やさしい感じがします。
 内金剛の峰々を見ながら、「最近では、内金剛に来る日本人は2組目です」。L課長はそういいます。「この3月、日本の旅行会社の視察で来た人に続いて、あなたたちが2組目、観光客では初めてです」。どうも本当に私たちが、北朝鮮になってから内金剛初の日本人観光客となったようです。
 下り坂も道幅が狭く、なかなかマイクロバスの運転は大変そうでしたが、やがて下のほうに川が見えてきました。川沿いにマイクロバスが到着すると、そこで停車します。「着きました」L課長がそう言います。時計は11時30分を少しまわったところでした。朝、元山を出発して4時間になろうとしていました!運転手さん、本当にお疲れ様!!

 マイクロバスを降りてまず周囲を見回してみると、全体的に大きな木々に包まれているような感じで、やはり外金剛よりも緑が濃い印象です。マイクロバスの停まった場所の目の前には橋がかかっていました。また、下から登ってくる道とも合流をしていました。この下から登ってくる道こそ、日本植民地時代、内金剛観光のメインルートであった道だと思われます。
 橋を渡って少し進むと、目の前に三仏岩が見えてきました。ずいぶん予想よりも大きなものです。

三仏岩です。なかなか味があります。

 三仏岩の道を挟んで反対側にも、かなりの大きさの岩がありました。この岩の高いところに小さな窪みがあって、「ここから石を投げて、あの窪みに一回で石を置くことが出来たら、その人は男の子を授かると言われています」。と、L課長が言います。そこで時ならぬ石投げ大会になってしまいました。ちなみにE.Tさんのみ、一回で窪みに石を置くことが出来ました。
 ところで石投げをしていた私たちの近くに、さきほど私たちのマイクロバスを追いかけていた2人の少年がやってきているではありませんか!「え〜っ!もう着いたの!!」正直びっくりです。私たちがマイクロバスを降りてからまだ5分と経っていないと思います。いくら下り坂とはいえ、あっという間に追いつかれてしまったのにはびっくりです。さっそくSさんが近くに来るように手招きをしますが、最初はなかなか近くには来てくれませんでした。手招きを続けてみると、2人のうちの一人がSさんのところまでやってきました。そこでSさんは持参のポラロイドカメラで記念撮影をして、出来た写真を少年に渡しました。

 さて、先へと進みます。まず目の前に背中が蛍光色の緑、お腹側が同じく蛍光色のオレンジという、朝鮮半島の派手派手カエルのスズガエルが現れ、みんなびっくりです。のりまきが「スズガエルだ!」と言い、ひっくり返してオレンジ色のお腹を見せると、すかさずガイドのHさんが「のりまきさんはカエルに詳しいんですね〜」と言い、一同大笑いです。
 次に白華庵の跡に着きました。ここには金剛山の寺院で活躍した高僧の墓や碑などが残っていました。ここにはもともと白華庵といわれる著名な庵があったそうですが、早や1919年に失火のため、焼失したといいます。

白華庵の跡に今も残る、高麗〜朝鮮王朝時代、金剛山の寺院で活躍した高僧の墓・碑などです。

 白華庵の跡を過ぎると、川の向こうにかなり大きな寺院が見えてきました。金剛山四大寺の中で唯一、朝鮮戦争での壊滅を免れた表訓寺です。この寺も朝鮮戦争で大きな被害を受けたのですが、一部の建物は焼失を免れ、主要な建物は再建もされました。
 寺に着くと、お坊さんから寺についての説明を受けました。北朝鮮の寺で出会うお坊さんは、袈裟はつけていますが特に坊主頭にはしていません、表訓寺のお坊さんも例外にもれず、頭にはしっかり毛のある袈裟姿の人物が現れました。
 表訓寺のお坊さんは私たちに対して、宗教活動を通して朝鮮半島の『南北統一』について尽力していることを話し、私たちにも『朝鮮半島の統一』への協力を呼びかけていたことが印象的でした。

 表訓寺の庭には芍薬(しゃくやく)が植えられていました。花の季節は過ぎていましたが、1927年6月14日、表訓寺を訪れた若山牧水は

 表訓寺御堂の裏に廻りたればこは真盛りの芍薬の園

 という短歌を詠んでおり、70年以上前の光景が思い出され、感慨深かったです。

表訓寺の光景

 表訓寺の見学をしている間に天候がまた悪くなってきて、雨がぽつぽつ降ってきました。L課長が心配そうにお坊さんに「天気は大丈夫か?」と訊くと、お坊さんは「このあたりの天気はいつもこんなだ、でも今日は大丈夫、天気は崩れない」。といいました。まずは一安心です。この表訓寺の前までは車が入ることが出来、先ほど私たちを降ろしたマイクロバスは表訓寺前の駐車場までやってきていました。そこで表訓寺では運転手さんを含め、みんなで記念撮影をします。

 続いて、表訓寺前の河原で持参した弁当を広げてお昼です♪ 美しい内金剛の景色のもと、河原での昼食は最高です!弁当も美味しく、飲めないL課長とのりまき以外の5人はビールも進んでいます♪基本的に飲んではいけない運転手さんも、私たちがハイキングに行く間は休んでいるから大丈夫だろう……とのことで、ビールを飲んでいました。帰り道にまた例の九折の坂を通るので、ちょっと不安がよぎりましたが……ところで、飲めないL課長とのりまきのためには、ガイドのHさんがジュースを用意していました。なかなか粋な計らいであります。
 私たちが昼食を食べた川沿いの岩のそばには、数ヶ所、焚き火をした跡が残っていました。どうもバーベキューの跡のようでした。どういう人たちであるかはわかりませんが、バーベキューをするために内金剛にやって来ることがあるようです。清らかな川、緑濃い森、美味しい空気……のりまきもそんな内金剛でバーベキューをしてみたいものです。

 食事中、のりまきは今日は是非、朝鮮半島最大の磨崖仏、妙吉祥まで行きたいとL課長に頼んでみました。「やってみましょう」。L課長はそう答えます。これがどれほど大変なことであるのか、このときは誰も気づきませんでした。
 また、食事中の話でL課長が「現代に外金剛を盗られた!」と言っていたことが大変に印象的でした。う〜ん、“盗られた”という意識があるのか……またL課長は、今年中に内金剛に4組くらいの観光団を呼びたいとの希望も話していました。ただ、6月末〜8月半ばは梅雨で内金剛行きは難しいだろうとのことで、観光団は8月半ば過ぎから11月初めくらいに呼ぼうと考えているようです。でも、これも台風なんか来ようものならたちまちあの九折の道が通行できなくなるでしょうから、いくら希望者がいたところで『予定は未定』とならざるを得ないでしょうが……
 それからL課長は、初日の夜にも話していた金剛山山頂の毘盧峰の様子を再び話しました。毘盧峰にあった久米山荘は、L課長によると長朝鮮戦争の際に爆撃にあって破壊され、今では石造りの建物の跡が残っているだけだそうです。あと、山頂近くにはきれいな泉が湧いていて、山頂の周辺を少し掘り返してみると昔の瓶がたくさん出てきて、日本製の瓶が最も多く、続いてソウル製の瓶が多いとの、初日にもした話を繰り返します。
 のりまきはここで、内金剛観光開発に努力しているL課長に、のりまきが今回の旅行に備えて作成したのりまき版内金剛ガイドブックを渡しました。ガイドブックとはいっても、戦前の日本の資料、韓国の金剛山についてのホームページ、そして北朝鮮の資料をコピーしてまとめただけなのですが、この時はL課長に今後の内金剛観光開発のために、少しでも役立ててもらいたいと思って渡したのです。しかし、この先意外なところで、こののりまき版内金剛ガイドブックが活用されることになるとは思いもよりませんでした。

 もうすぐ食事が終わろうとする頃、あの2人組の少年がこちらの様子をずーっと伺っていることに気づきました。のりまきが手を振ってみると、少年たちも手を振り返します。それにしても今日は平日(月曜日)、学校はどうしたのでしょう??
 出発前、私たちが後片付けをしようとすると、L課長とガイドのHさんが、「片付けは運転手さんがするのでいいですよ〜」と言ったので、昼食の後片付けは運転手さんに任せることにしました。ところで、飲み残しのビールが1本半くらいあったのですが、このビールはたぶんL課長曰く、「ざる」である酒豪の運転手さんが片付けたのではないでしょうか?それにしても、これもまた半島特有の『ケンチャナヨ』精神なのでしょうか??

 食事の後、私たちは出発します。まず金剛門という、天然に出来た門を通過します。この先が内金剛、いや、金剛山有数の名所である万瀑洞になります。

天然に出来た門、金剛門

 金剛門をくぐってしばらく歩くと視界が開けました。戦前の金剛山写真集などでよく見る、万瀑洞の光景です。ここから万瀑洞の渓谷美が始まるといいます。この場所になんと例の2人組の少年が先回りをしていました!何事に対しても積極性が光るSさんが、ここでも少年たちに声をかけ、先ほどに続いてポラロイドカメラで少年たちの写真を撮り、出来上がった写真を渡しました。続いてのりまきも少年たちとの記念撮影に納まります。ここでガイドのHさんが少年たちに「何歳?」と聞いたところ、少年たちは「13歳」と、答えたそうですが……朝鮮語がかなりわかるE.Tさんの話によれば、8歳の訳し間違いかもしれないとのことです。

ここから万瀑洞の渓谷が始まる。少年たちが先回りしていたな〜

 道はやがて渓谷に入っていきます。道は時々吊り橋を渡りながら進んでいきます。吊り橋は渡ると結構ぐらつく上に、板もところどころ外れていたりしてかなりスリルがあります。また、このあたりから北朝鮮の国花である、モンラン(オオヤマレンゲ)の花が咲いている光景が目につくようになりました。モンランの芳香が時々、私たちのところまで漂ってきます。また道を歩いていると、リスが結構頻繁に姿を現します。しかしそんな中、外金剛にあったのと同じような、岩に刻まれた政治スローガンの文字が飛び込んできます(-_-メ)。

お約束の政治スローガン……朝鮮労働党万歳……

 渓谷はきれいにはきれいなのですが、正直いまいちぱっとしません。外金剛よりもやはり全体的に緑が濃く、『外金剛は男性的、内金剛は女性的』と言われるのもよくわかるのですが、外金剛に較べて美しさのキレがなく、これでは外金剛の玉流洞の方が上かな?と思い出した頃、銅の柱で絶壁に立つ庵、普徳庵が見えてきました。このあたりになると、渓谷にある淵のエメラルド色も深みを増し、ようやく外金剛に負けない、内金剛万瀑洞の実力が発揮されてきた感じがします。
 ちょうどそんな時、のりまきが濡れた岩に足を滑らせて転倒をしてしまいました!肩から腰にかけてをかなり強く岩に打ち付けられ、思わず「痛い!」と叫んでしまいました。転倒した際、体が岩に打ち付けられるかなり大きな音がしたので、皆びっくりしてのりまきに、「大丈夫か?」との声をかけましたが、立ち上がってみると転倒が派手であった割に、特に怪我をしたわけでもなく、一安心しました。
 ところで……これが実は転倒ラッシュの始まりだったのです。結局ガイドのHさん以外の5人は、内金剛で転倒をしてしまいました。

普徳庵の遠景、絶壁に建っている様子がわかります。

 私たちはまず、普徳庵へ登ってみます。吊り橋を渡り、結構急な坂に取り付き、高度を稼ぎます。日頃の運動不足が身体にこたえます!息が上がってきました。上を見るとL課長が一番先に到着したようです。庵の中からこちらを見ながら笑っています。私たちも一所懸命上を目指します。
 ようやく庵まで到着しました……到着してみると私たち以外にも先客がいました……例の2人の少年です。どうやらとうに普徳庵まで先回りして、私たちのことを待っていたようです。ああ、やはりすごい健脚!!

普徳庵と少年たち




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