金剛山南北綱引き合戦
(1980年代からの金剛山観光開発の流れ)


鄭周永氏(現代グループ創始者)の遺した対北朝鮮交渉五戒

1・服装…服装は紺色の背広に白のワイシャツを勧める。服装から最大限礼儀正しさを表現すべきだ。

2・テーブルマナー…交渉時はいつも正しい姿勢で座っていなければならない。椅子によりかかったり姿勢が乱れていると、北朝鮮側が私たちのことを生意気に思ったり、北朝鮮側を馬鹿にしていると思われかねない。

3・笑顔…笑うこともなるべく自制した方がよい。交渉中の適度な笑顔は良いが、度が過ぎれば北朝鮮側に『自分が見下されている』。との誤解を与える恐れがある。

4・質問…質問も少なめにした方がよい。質問が多ければ北朝鮮側の関係者は“保安”感覚に敏感なために嫌がるのみならず、私たちに“隠れた意図”があるのではと疑うようになる可能性がある。

5・忍耐…資本主義制度に慣れていない北朝鮮では、ひとつのことがらを決定するまでに長い時間がかかってしまうことが多いので、それにじっと耐えねばならない。


上記の文章はインターネット中央日報の日本語版、2001・4・24の記事をもとに、文意を変えない程度に箇条書きにしてみました。


 
《これまでの金剛山観光の流れ》

 金剛山観光は1998年11月18日に開始され、すでに7年以上継続されています。これは現在、北朝鮮を相手としたビックビジネスで最も長期間継続している事業でしょう。金剛山観光をめぐっては様々な事件が発生しています。そこでこれまでの金剛山観光の歩みを振り返ってみましょう。


1・金剛山観光の開始まで

 日本植民地下の金剛山がかなりの観光開発が進み、朝鮮半島一の観光地となっていたのと対照的に、北朝鮮時代の金剛山は基本的に閉ざされた場所となってしまいました。多くの観光資源を抱える金剛山は、その豊富な観光資源のほとんどが活用されることなく1980年代まで時代が過ぎていきました。
 外資を導入した形での金剛山観光を初めて提唱したのは、北朝鮮の故金日成主席であるとのことです。1981年、金剛山の属する江原道労働党の党委員会に出席した金日成氏は、『金剛山に外資を導入して、各種観光資源を整備して多くの観光客を呼び、外貨を稼ごう』。との呼びかけを行ったことがあるとの話が伝わっています。この当時、北朝鮮は第六回党大会が終わった直後で、金正日氏への権力後継の流れが決定的になりつつあり、北朝鮮政府は国内の経済状況の改善を図り、金正日氏への後継体制を磐石なものにしようとしていました。更にその後『合弁法』が施行され、外資を導入した形での北朝鮮経済の活性化を模索していくこととなります。金日成氏の発言もそういった流れの中で出てきたものかと思われます。

 ところが経済活性化の試みがはかばかしく進まない中、1980年代末の東欧・ソ連の社会主義圏崩壊が発生してしまいます。社会主義圏、特にソ連との貿易に大きく依存していた北朝鮮経済は壊滅的な打撃を蒙ることになります。そのような中、1989年には金日成氏は1981年の時よりも更に踏み込んだ形での金剛山観光を提唱していきます。また同じ1989年には韓国有数の財閥、現代グループの鄭周永会長が北朝鮮を訪れ、金日成氏と会談の上、金剛山観光の実施についても話し合いました。韓国側と金剛山観光との接点はこのとき初めて出来たのです。
 北朝鮮経済はその後も改善をすることなく、1990年代に入ると破綻状態に陥ります。そのような中、金剛山観光開発をめぐり、統一教会の文鮮明氏らも北朝鮮当局に働きかけを行っていきます。結局、対北朝鮮宥和政策(いわゆる太陽政策)を打ち出した金大中氏が韓国大統領となった後の1998年6月、現代グループの鄭周永氏が牛500頭を連れ板門店を越えて北朝鮮を訪問し、北朝鮮当局との話し合いの中で韓国側から直接金剛山を観光する、いわゆる“金剛山観光”の開始が決まりました。それから実際の観光開始まで紆余曲折があったのですが、10月になって鄭周永氏が再度北朝鮮を訪問し、最高指導者の金正日氏との直談判の結果、1998年11月からの“金剛山観光”開始が本決まりとなったのです。
 鄭周永氏はもともと金剛山近くの通川郡の生まれで、金剛山観光はいわば氏の故郷を舞台としたビジネスとも言えました。観光開始当時、鄭周永氏はすでに80歳を超えており、故郷を懐かしむあまりに金剛山観光事業を開始したのではとの声もあがりましたが、韓国大統領選にも出馬した経験のある鄭周永氏は金剛山観光事業を通してまず南北の和解を進め、そして北朝鮮が開放された日にはビジネスを進めるにあたって最も有利な立場に立つことを狙ったもののようです。

2・金剛山観光の開始

 韓国側からの金剛山観光は、韓国東海岸の港から金剛山地区にある港、高城(長箭)港へ船で直接向かい、金剛山観光を行う形で始められることとなりました。海路とはいえ、韓国から直接北朝鮮に向かうことができるようになったことは画期的で、当時南北融和の象徴として大いにもてはやされました。しかしこのことは結局、金剛山観光は観光事業であるとともに朝鮮半島の南北対話の“成果”としての役割を担わされることにつながり、常に政治や社会情勢の波に翻弄される“歪んだビジネス”として運命付けられることになったのです。
 1998年11月18日、韓国東海岸にある東海港から初めての金剛山観光船が金剛山へ向けて出発しました。当初、韓国側から初めて直接に北朝鮮へ向かうことが出来る金剛山観光は韓国国内の話題を集め、大いに賑わいました。しかし当初から金剛山観光は大きな課題を抱えていました。まず現代グループが北朝鮮側に支払う巨額の観光料負担のために、金剛山観光は極めて高い旅行となってしまったのです。また金剛山観光自体も金網越しに金剛山観光を行うことが出来るだけで、旅行での大きな楽しみのひとつである、現地(北朝鮮)に住んでいる人々との交流は全く望みようもない観光であったのです。そのうえあまりにも観光に対する制限が多く、やがて金剛山観光は『金網観光』とか、『あれダメこれダメ』観光などと揶揄されるようになります。

 金剛山観光開始直後、現代グループは金剛山観光開発について北朝鮮側窓口である朝鮮アジア太平洋平和委員会と取り決めを結びました。それには、今後現代グループが30年間の金剛山の独占利用権を持つこと、2005年3月までに合計9億4200万ドル(実に1000億円以上)もの金剛山観光料を支払うことなどが取り決められていました。現代グループが持つ金剛山地区の独占利用権はやがて50年間にまで延長されます。また、現代グループは1999年2月に金剛山観光開発など対北朝鮮事業を専門に行う会社『現代峨山』を創設し、金剛山観光を推進する体制を整えました。
 もちろん現代グループはより多くの観光客を呼ぶために、金剛山温泉や北朝鮮名物のサーカスが鑑賞できる金剛山文化会館などを造って、金剛山観光振興を図っていきます。もともと日本植民地時代は朝鮮半島一の観光地であったわけで、きちんとした観光開発を行えば観光客を呼び込むことは難しくないとの目論見もありました。しかし観光を進めるにあたっての北朝鮮側との交渉の苦労は、当初の予想を遥かに超えるものでした。
 観光開始当初、北朝鮮側との交渉はお互いのプライドのぶつかり合いで、『毎日毎日ほとんど喧嘩』状態が続いたといいます。そんな中、1999年6月20日に金剛山観光初期最大の事件、ミン・ヨンミ事件が発生します。実はミン・ヨンミ事件の直前に、朝鮮半島の西海岸で韓国と北朝鮮との大規模な衝突が発生していました。ミン・ヨンミ事件はその影響を受けたと思われます。
 事件の概要は、金剛山観光客であるミン・ヨンミ氏が北朝鮮側曰く、『環境巡視員(金剛山中で観光客の監視を行っている人たち)に亡命をそそのかした』とのことで、北朝鮮側に拘束され、金剛山旅館(今の金剛山ホテル、当時は北朝鮮側によって完全に運営されていた)に監禁されてしまったという内容です。ミン・ヨンミ氏が金剛山旅館に拘束された後、韓国側は全く彼女との連絡が取れない状態に陥ってしまいます。そこで金剛山旅館の近くから様子を伺いながら、北朝鮮側に開放を促していきます。結局ミン・ヨンミ氏は5日間も北朝鮮側に拘束され、謝罪の後に開放されました。観光開始から半年あまりという、まだ北朝鮮に慣れない頃に発生したこのミン・ヨンミ事件が、金剛山観光に携わる人々の多くがこれまで最も困難な事件であったといいます。
 ミン・ヨンミ氏事件はあったものの、金剛山観光の滑り出しは思ったよりも順調でした。最初の頃は社会情勢も金剛山観光を後押ししました。特に2000年の6月には金大中韓国大統領がピョンヤンへ行き、北朝鮮の金正日国防委員長と会談し、南北間の融和ムードは頂点に達しました。ところでこの会談は、韓国政府から金剛山観光などで北朝鮮との関係が深かった現代グループを通じて多額の現金が北朝鮮側に流れた結果、実現したものとの説があります。実際南北首脳会談の直前に5億ドル(約600億円)もの大金が、現代グループから北朝鮮側に渡されたことが明らかになりました。それ以外にも北朝鮮には現代グループなどから巨額のお金が流れているとの噂が絶えません。

3・金剛山観光の危機

 2000年の末頃から金剛山観光は危機に陥ります。直接の原因は北朝鮮に支払う毎月約14億円にもなる巨額の観光料です。割高感がある上に制限の多い『金網観光』である金剛山観光は、当初思ったように参加者が伸びずに観光収入は伸び悩み、巨額の観光料を北朝鮮側に支払うと現代側に多額の赤字が生まれていったのです。もちろん巨額の観光料は金剛山観光料金自体を引き上げており、割高な金剛山観光はますます客足が遠のいていました。それに加えて金剛山観光のために建設した、各種観光施設の巨額の設備投資も赤字となってのしかかりました。
 金剛山観光で生み出される巨額の赤字は日本円にして数百億円の規模に達し、韓国有数の財閥、現代グループの経営にも深刻な打撃をもたらすほどでした。しかも2000年には現代グループに後継者争いが発生し、混乱に追い討ちをかけます。韓国国内で王子の乱といわれた後継者争いの結果、父鄭周永とともに対北朝鮮事業を行ってきた五男の鄭夢憲氏が現代グループの後継者となりますが、後継者争いのもう一方の主役であった次男の鄭夢九氏は、現代グループ内きっての優良企業である現代自動車を率いて独立してしまったのです。さらに鄭周永氏六男の鄭夢準氏も現代重工業などの企業をを率いて独立してしまい、金剛山観光を支える現代グループそのものが大きく縮小してしまいました。

 現代グループは金剛山観光を立て直す努力を開始します。金剛山観光の問題点ははっきりしていました。まず料金が高いこと、そして観光としての魅力に欠けることです。料金が高い理由はべらぼうに高い観光料です。これをまず何とかしなければなりません。観光の魅力をアップするには金剛山の観光設備を充実させ、もっと観光を自由にしていくように働きかけることが重要と判断されました。
 現代グループはまず金剛山にカジノと免税店の開設を申請します。カジノは韓国政府の反対もあり実現しませんでしたが、免税店は金剛山に開設され、現在は多くの客を集めるようになっています。また現代グループは金剛山を北朝鮮の観光特区に指定するように働きかけていきます。観光特区に指定されればこれまでよりも観光施設をスムーズに建設することが可能になり、観光の自由度もより高まっていくものと期待されたのです。
 観光料金の引き下げと観光特区指定に関しての交渉は、2000年末ごろから開始されます。特に重要性が高かった観光料金引き下げ問題では交渉が繰り返されました。北朝鮮にとっても金剛山観光の収入は貴重な外貨獲得源です。韓国から毎日のように多数の観光客を呼び寄せることは北朝鮮体制にとってもリスクある選択です。観光料を下げてくれと言われてはいそうですかと言うわけにはいきません。
 結局、現代側は観光料を支払わない、いや、資金繰りの困難さのために支払えなくなってしまったのです。こうなると北朝鮮側もそして金剛山観光を支援してきた韓国政府も困ってしまいます。何とか金剛山観光を続けるために話し合いを重ね、2001年6月には観光客数に比例した形で観光料を支払うこと、そして近々に金剛山を観光特区に指定することで合意します。
 実はこの合意の際、現代は北朝鮮側に貸しを残すことになります。まずは観光開始当初に約束した、2005年月までに合計9億4200万ドルの観光料を払うという契約が反故になってしまったことです。その上、2001年6月の合意までの間に未払いとなった観光料が2400万ドル積み残しとなってしまいました。これらの北朝鮮側への貸しは金剛山観光に影響を与えていきます。

 しかし金剛山観光の苦境は続きます。観光料が下がったのはまあ良いとして、観光特区の指定が約束通り実行されなかったのです。そうなると金剛山観光はこれまでと同じような形で行われ続けることになります。観光形態そのものにも課題がある金剛山観光は、これでは客数が伸びることが期待しにくくなります。金剛山観光客は伸び悩み、2001年後半から現代峨山は深刻な危機に見舞われます。

 南北融和の象徴である金剛山観光が立ち枯れてしまえば韓国政府も困ってしまいます。民間企業である現代グループが北朝鮮相手のビジネスを行っているわけなので、韓国政府の介入には問題もあったのですが、金剛山観光に対する支援策を打ち出すことにしました。半官半民の韓国観光公社による支援や、南北交流基金から有利な条件でお金を借りられるようにしたのです。
 
 2001年半ば以降、4隻あった観光船を1隻に減らすなど金剛山観光そのものの経費の節減につとめるなどの対策を立てたのですが焼け石に水……2001年末にかけて金剛山観光は存続の危機に立たされます。
 そのような危機の中、金剛山観光について2つの大きな動きが始まりました。ひとつは2002年初めに韓国政府が決定した『金剛山観光料金政府補助』です。これは学生・教師・高齢者などが金剛山観光を行う場合、その経費の多くを韓国政府が補助するという実に型破りなもので、多くの人にとって一気に割安となった金剛山観光は2002年春以降、再びブームとなって息を吹きかえします。韓国政府としては『太陽政策』の最大の成果である金剛山観光を立ち枯れさせるわけには行かなかったのでしょうが、一企業グループの行なっている事業に過度の“肩入れ”を行ったことには違いなく、この措置は各方面からなかり多くの批判を浴びました。

4・金剛山陸路観光

 金剛山観光の危機に対する対策として2001年半ば頃からは金剛山に陸路で向かう、『金剛山陸路観光』を推進しようという動きが始まりました。韓国東海岸の港から金剛山近くの高城(長箭)港まで船で向かうこれまでの金剛山観光では、往復にかなりの時間を要し、日帰りや1泊2日などの短い日程の金剛山観光商品の開発は困難でした。陸路で金剛山に向かうことが出来たならば往復の時間が短縮され、短い日程の安い観光商品などの開発も可能です。更に南北間の軍事境界線を民間人が直接越えることができるようになれば、もう一段南北の融和が進んだと、金剛山観光の成果を高らかに謳いあげることが出来ます。もちろん南北間の軍事境界線を直接越える陸路観光はそれ自体が観光のセールスポイントになります。
 しかし、軍事境界線をじかに越える形となる金剛山陸路観光の推進は、軍事面の問題も絡んでなかなか上手くまとまりませんでした。そのような中、2002年の7月に北朝鮮当局は公定の物価・給料を10倍以上引き上げるという破天荒な経済政策を突如実施します。それからの北朝鮮は日本政府に拉致問題を認めたり、核開発の凍結を解除したり等々、外交面でも多くの“大問題”を引き起こし、朝鮮半島を巡る情勢は一気に緊迫していきます。

 そして北朝鮮をめぐる国際情勢が厳しさを増しているにもかかわらず、朝鮮半島の韓国と北朝鮮の間同士では、鉄道・道路で南北間を結ぶことが合意され、2002年9月には実際に着工が行われました。このことには朝鮮半島の南北間の鉄道・道路連結について熱心なロシアの意向も影響していると思われます。工事は軍事境界線周辺に埋設されている地雷の撤去作業から始まり、地雷撤去が終了後に鉄道・道路の建設が進められるという流れで進んでいきました。そのような中、太陽政策を推し進めてきた金大中大統領の次の大統領を決める大統領選挙が2002年12月に行われ、金大統領の太陽政策を基本的に継承する盧武鉉氏が大統領に当選します。

 一方、南北間の道路工事は、多少もめごとがあったものの、12月始めには韓国側から金剛山に向かう東海岸の『臨時道路』が完成し、あとは軍事境界線通過の方法の取り決めが出来れば金剛山陸路観光が開始できるようになったのですが、問題の“取り決め”がなかなかまとまらず、しかも2003年初頭にかけて北朝鮮の核問題がよりいっそう緊迫の度を加えるようになって、金剛山観光に再び悪雲が立ちこめだしました。2002年に開始された金剛山観光客への韓国政府の観光料金補助は、韓国国会の決定で、北朝鮮の核問題について良い方向への進展がなければ事実上予算が“凍結”されることとなったのです。また、先にも触れたように2000年6月の南北首脳会談の直前、現代グループから巨額の裏金が北朝鮮へ渡された実態が明らかになるなど、金剛山観光をめぐる情勢は厳しさを増しました。

 しかし2003年1月末、軍事境界線を越える方法についての南北合意がなされ、金剛山陸路観光についての最大の障害は取り除かれました。そして2003年2月5日には陸路観光コースの事前調査ということで、韓国側から初めて軍事境界線を陸路で直接越えて金剛山に向かいました。2月14日にはテスト観光が行われ、2月23日からは陸路本観光も始まりました。しかし陸路本観光は3回行なわれただけで早くも2003年3月には中断してしまいます。
 その上、世界中で猛威を振るう新型肺炎『SARS』を水際で食い止めるためと称して、北朝鮮側が金剛山観光客の受け入れの一時中断を求め、結局、2003年4月26日の出航便から金剛山観光は一時中断されることになってしまいました。

 折りしも米・中を交えた三カ国協議の席で、北朝鮮は核兵器の所有を明らかにするなど、北朝鮮情勢はますます緊張の度を加えています。また対北朝鮮ヤミ支援問題は2003年4月17日より特別検事による捜査が始まりました。
 特別検事の捜査は着実に進展し、5月28日には2000年6月に現代グループが行なった『対北朝鮮ヤミ支援』は、実は南北首脳会談の『見返り』として大統領府の指示のもとで行なわれた可能性が極めて高いことが明らかになりました。捜査は金大中大統領の責任追及まで進みそうであり、このような事態を見た北朝鮮側は、金剛山観光の6月再開と、7月には陸路観光の再開を行なうことを提案してきました。結局6月10〜13日までの間に金剛山を訪問した現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長と北朝鮮側の朝鮮アジア太平洋平和委員会側との話し合いの結果、金剛山観光の復活と、陸路観光も7月中に“復活”することで意見の一致を見たのです。実際、陸路観光の6月27日海路からの金剛山観光は約2ヶ月ぶりに復活します。
 7月23〜25日、現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長は再び金剛山を訪問し北朝鮮側と交渉し、9月1日から陸路観光を復活することで北朝鮮側と意見が一致しました。しかし陸路観光復活が正式に確定しないまま、8月4日に鄭夢憲氏が自殺してしまいます。
 鄭会長の死去を受けて北朝鮮側は金剛山観光の一時中断を要求し、金剛山観光は8月6日出発以降分から再び一時中断となってしまいました。しかし8月13日に金剛山観光は復活し、13〜16日にかけて金剛山を訪問し北朝鮮側と交渉した現代峨山の金潤圭社長によると、陸路観光が9月1日から復活することが正式決定して、実際に9月1日に陸路観光が復活します。

 陸路観光がスタートした後、金剛山観光は比較的順調に進み始めます。陸路観光は海路と比べて金剛山往復にかかる時間が短く、日帰り観光、一泊二日観光が可能となりました。またツアー価格も以前に比べて下がり、金剛山観光客は順調に集まるようになってきました。
 金剛山の観光施設も整備が進みだします。かつて北朝鮮が建設した金剛山旅館、金正淑保養所などの宿泊施設がリニューアルされ、それぞれ金剛山ホテル、外金剛ホテルとしてオープンし、また平壌に本店がある冷麺の老舗、玉流館の金剛山支店が開業するなど、観光施設の充実も観光客増大に寄与します。金剛山中の観光コースでは北朝鮮側の案内員が説明をするようになるなど、金剛山観光全体として南北の共同事業としての色彩が濃くなって、事業開始時のもくろみ通り、金剛山観光が南北融和に大きな役割を果たせるようになったと思われました。

5・再び金剛山観光の危機

 しかし金剛山観光は決して安定することはありませんでした。まず2005年秋、鄭夢憲会長自殺後に現代グループを継いだ未亡人の玄貞恩会長が、これまで対北朝鮮事業を取り仕切ってきた金潤圭氏を職務上の不正を理由に解任しました。すると北朝鮮側が抗議し、金剛山観光客の受け入れを半減させる措置を取りました。この問題は結局北朝鮮側が折れて解決しましたが、2005年末には韓国側職員が飲酒運転で北朝鮮兵を跳ね、死傷者を出すという騒動が勃発します。この事件の補償問題も現代側に大きな負担となりました。
 2006年になって、金剛山観光は北朝鮮情勢の大波をもろに被るようになります。まず7月初めのミサイル発射により観光客が減少します。またアメリカなどから北朝鮮に現金収入をもたらしている金剛山観光に対する風当たりが強くなっていきます。そのような中、2006年10月8日に北朝鮮がついに核実験を行い、北朝鮮に対する本格的な制裁措置が国連で論議されることとなって、金剛山観光はまさに存亡の危機に立たされることになります。韓国政府は事業の継続を決定しましたが、国連での制裁内容いかんによっては事業の継続が困難になり、またアメリカからの事業中止を求める動きがより活発化するのは必至と見られています。

 このように金剛山観光は、南北融和を求める根強い動きに後押しされながら発展してきた事業なのですが、不安定かつ緊張状態の連続である北朝鮮情勢に左右されて現在まで続けられています。今後とも大変に複雑な歩みを強いられると思われます。


〜以下のコーナーで、これまでの金剛山観光の流れを、項目に分けて更に詳しく追ってみます〜

1・魅力溢れる観光資源、金剛山観光開発開始まで:(1981年頃〜1998年11月まで)
 韓国側資本を導入した形での金剛山観光開発の源流から、実際に現代グループの金剛山観光が始まるまでを追ってみます。

2・金剛山観光開発:(1998年11月から)
 開始当初、南北融和の象徴としてもてはやされた金剛山観光……当初の計画通りにはいかなかったものの、現代グループの手によって金剛山に“観光施設”が作られていきました。ここでは南北首脳会談後までの金剛山観光の流れと、金剛山観光開発の経緯についてまとめてみました。

3・金剛山観光の危機:(2000年10月頃から)
 多くの赤字を生み出し、危機を迎えた金剛山観光。中止論と存続論の中で揺れた金剛山観光の動きを見てみます。

4:金剛山観光政府補助:(2001年6月〜2002年9月)
 韓国政府の観光費用補助によって息を吹き返した金剛山観光。その異例なやり方のため、韓国国内でも多くの議論が巻き起こりました。

5・金剛山陸路観光:(2001年2月頃から)
 金剛山陸路観光がどのようにして提案され、そしてどのような経過を辿っていったのかを追ってみます。

6・対北朝鮮ヤミ支援問題(2002年2月頃から)
 金剛山観光を始めとする韓国の対北朝鮮事業では、明るみにされていない巨額の“ヤミ支援”を北朝鮮に行っているとの話が絶えません。実際、現代グループから北朝鮮側に5億ドル(約600億円)もの資金がひそかに渡されていたことが明らかになっています。
 ここでは金剛山観光に関係が深い“ヤミ支援”問題について触れていきます。

7・金剛山観光開発(2)
 観光特区指定と陸路観光開始後、これまでよりも順調に進みだした最近の金剛山観光開発について紹介します。

8・離散家族再会事業
 観光とともに金剛山で行われているもう一つの重要事業、離散家族再会事業について紹介します。

9・その他の金剛山での南北共同事業
 韓国の技術を導入した農場、南北共同で再建中の神渓寺、鉄道・道路工事などについて紹介します。

10・そして再び金剛山観光の危機


《謝辞》
“金剛山南北綱引き合戦”は、韓国の新聞、朝鮮日報・中央日報・東亜日報の日本語版の記事を中心として、朝鮮通信社などの記事も参考にした上でまとめ、作っています。語学がさっぱりだめで、韓国語もカタコト以下ののりまきにとって、これら新聞の日本語版がなければこのコーナーは全く出来なかったでしょう。大変に感謝しています_(._.)_。



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