金剛山観光開発

1998年11月18日に始まった韓国からの金剛山観光
金剛山観光は当初、朝鮮半島南北融和のシンボルとして大いにもてはやされました。
また、観光事業を経営する現代グループは、
金剛山に“観光施設”を作り、より多くの観光客を呼ぼうと努力します。
この項では南北首脳会談前後までの、比較的順調であった頃の金剛山観光の流れと
現代グループの金剛山観光施設の建設状況をまとめてみました。

(2004・1・25 最終加筆)


 1998年11月18日に始まった金剛山観光は、当初は9月に開始される予定だったのが11月まで延びた経緯もあって、ある程度の準備が可能だったのか、観光開始にあたって大きな混乱はありませんでしたが、観光施設などはまだまだ未整備でした。
 金剛山観光開始後まもなく、1999年1月に現代グループは北朝鮮側と金剛山観光開発についての取り決めを結びます。北朝鮮は現代側に金剛山全域及び金剛山から少し離れた通川・侍中湖地区までの『30年間の土地・施設利用権・観光事業権』を与えます。
 現代側はこのような権利を与えられ、バラ色の夢に包まれた『観光計画』を立案します。まず最初に金剛山観光の基地として温井里(注1)に休憩所・温泉・売店を作り、2000年末までにゴルフ場・海水浴場・キャンプ場などを建設、2001ー2005年までの第二期には観光地区を通川まで広げ、その上でスキー場・空港も建設し、その後も元山までに観光地区を拡大させ、海洋博物館なども建設するといったものでした。
 ところでその際の合意事項で『30年間の土地・施設利用権・観光事業権』よりも、もっと重要なことが取り決められました。北朝鮮側に支払う“観光料”のことです。現代側が北朝鮮側へ支払う観光料は1999年1月から2005年3月までの6年3ヶ月の間に、なんと総額9億4200万ドル(約1200億円)にも及ぶこととなったのです。このあまりにも巨額の“観光料支払い”は金剛山観光の事業としての採算性をなくし、金剛山観光全体にきびしくのしかかっていきます。
 また交渉過程で表に出ない『ヤミ金』が北朝鮮側に流れていったとの噂も常に流れ、金剛山観光の『朝鮮半島南北融和のシンボル事業』としての位置付けの裏に、様々な駆引きやもくろみがあったようです。

 現代グループは金剛山観光など対北朝鮮事業を専門に行なう『現代峨山』を1999年2月5日に設立します。現代峨山はその後現在に至るまで金剛山観光事業の中核を担っています。ちなみに“峨山”とは現代グループ総帥、鄭周永氏のペンネームだそうです。
 現代の作った『観光計画』は、当初は計画通り順調に進みます。まず1999年2月28日には温井里に休憩所・食堂・売店を備えた施設『温井閣』と、北朝鮮名物のサーカスを演じる『金剛山文化会館』が完成します。これらの建物は金剛山観光の始まる直前の1998年10月に建設が開始されていたもので、予定通りの完成でした。
 また1999年2月4〜6日には鄭周永氏が5回目の北朝鮮訪問を行い、金剛山観光の北朝鮮側窓口である朝鮮アジア太平洋平和委員会の金容淳会長(金正日氏の側近)と会談を行い、金剛山のある高城郡に現代側が100万ドルをかけて3万坪の畑にビニールハウス76棟を建設する代わりに、高城郡の人民委員会が農作業をして金剛山観光で観光客が消費する野菜・果物を納品するという“南北共同営農事業”を行なうことで合意します。実際この事業は軌道に乗り、高城(長箭)の町の近くにビニールハウスが作られ、金剛山観光客はそこで作られた野菜や果物を食べることになります。


 その後金剛山観光は順調に進みますが、黄海での韓国と北朝鮮との軍事衝突があった直後の1999年6月20日、金剛山観光中の主婦、閔泳美(ミン ヨンミ)氏が北朝鮮の環境保護巡察員に亡命をそそのかしたとのことで北朝鮮当局に抑留されます。ミン氏は5日間の取調べを受けた上で釈放されますが、金剛山観光は一時中断されて観光客の身辺安全保証策を現代側と北朝鮮側が協議することとなったのです。
 協議は7月いっぱい続けられましたが、8月1日に妥結して40日あまり中断していた金剛山観光は8月5日より再開されます。合意内容は
・重大な刑事事件などの問題が発生した時は、南北双方から3〜4名の人が出席して『金剛山観光事業調停委員会』が行なわれる。
・問題発言を行なった観光客は即日追放する。
などでした。

 1999年9月28日、鄭周永氏は北朝鮮を訪問し、10月1日には金正日国防委員長と2回目の会談を行ないます。この中でこれまで韓国人しか認められていなかった金剛山観光に外国人が参加できるようにすることや、金正日氏の側近として知られる金容淳(キム ヨンスン)朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長が今後訪韓をする予定とすることなどが決められました。
 10月23日、実際に外国人が初めて金剛山観光に試験的に参加します。ただし日本人と在日韓国・朝鮮人はまだこの時点では金剛山観光参加は認められていませんでした。
 1999年12月31日には金剛山温泉がオープンします。温井里は昔からの温泉場で、戦前の日本統治時代には温井里は温泉場として栄えていましたし、北朝鮮時代の金剛山観光でも『金剛山温泉』の入浴は観光コースに必ず含まれていたので、現代グループの金剛山観光でも温泉を楽しめるようになることが待ち望まれていました。(注2)

 2000年5月11日には温井閣内にレストランが完成します。450席の温井閣レストランは金剛山観光客の食事に使われるだけでなく、金剛山ピビンパプなど北朝鮮名物料理も味わうことが出来るようになりました。
 同じ月の24日、金剛山観光船が停泊する高城(長箭)港の本埠頭が完成します。これは防波堤と観光船が停泊する二本の埠頭とはしけの停泊する埠頭を備えた本格的なものです。埠頭完成までは観光船が接岸できないために金剛山観光客は上陸の際にはしけに乗り換える必要があったのですが、直接上陸することが可能となって観光客にとって便利になりました。
 またこれに先立って2000年3月には“南北営農事業”の最初の収穫である『3万個の白菜』の収穫も行なわれました。そのほかにも2000年3月9日からは東海港ばかりではなく釜山港からの金剛山観光船もスタートし、また6月からは金剛山地区の良質な水を韓国企業『泰昌』が金剛山ミネラルウオーターとして売り出すなど(注3)、この頃金剛山関連の事業はまだ順調でした。
 そのようなムードの中、現代峨山は北朝鮮側に『高城(長箭)港から温井閣までの観光客の自由通行』の実施を希望していきます。これは金剛山観光中、両脇を金網で遮断された道を集団で移動させられる点が評判が悪いため、改善を求めたものでした。この問題は幾度となく提起され、その都度かなり良い答えを北朝鮮側から得るのですが、未だに実現しないのです。
 折りしもこの頃は金大中氏と金正日氏が歴史的会談をする『南北首脳会談』の開催について決まりつつある状況で、金剛山観光も南北融和ムードの影響を受けて意気盛んでした。しかしまさにそのような中、現代グループは数百億円単位の巨額のヤミ資金を北朝鮮側に送金しつつあったのです。このヤミ資金送金は金大中政権が『南北首脳会談の実現』を目指して現代グループに依頼して送金したとの説が強いのですが、送金事情もまだよくわかっていませんし、お金の使途に至っては全くの藪の中です。

 2000年6月13日、韓国の金大中大統領はピョンヤンに飛び、北朝鮮の金正日国防委員長と歴史的な南北首脳会談を行ないました。15日までの会談で『南北共同声明』が発表されました。この中で南北離散家族再会と南北の道路・鉄道連結などが決められました。
 しかし南北の鉄道・道路の連結についての取り決めはなかなか実を結ぶことがなかったのです。今のところ東海線と京義線の臨時道路が繋がったのみで、鉄道・本道路の連結についてはまだ見通しが立たない現状です。一方、南北離散家族の再会は断続的に行なわれていきます。そして離散家族の再会場所は多くの場合金剛山となり、『離散家族の面会所』を金剛山に設置する計画が持ち上がってきます。

 南北首脳会談の直後に鄭周永氏は訪朝し、6月29日には3回目の金正日氏との会談を行ないます。その中で金剛山地区を『特別経済地区』として選定し、まず海金剛の南江から通川までの約50キロの区間を世界的な貿易・金融・文化・芸術都市として開発することと、金剛山地区内に北朝鮮の人材を活用し、韓国と北朝鮮が共同で運営する先端技術研究開発団地『金剛山バレー』を作ることで合意します
 しかしこの約束もなかなか実行されず、現在まで『特別経済地区』のみが2002年10月に『観光地区』としての指定がなされ、約束のごく一部が果たされた形となっています。
 またこの時の訪朝で、北朝鮮のホテル・金剛山旅館を現代が借りること、高城(長箭)港に浮かぶ海上ホテルを建設することも決められました。

 一連の会談後もしばらく金剛山観光は順調でした。当時既に金剛山観光の慢性的赤字体質は知られていたのですが、南北首脳会談前後の高揚した雰囲気の中、あまり問題視はされていませんでした。
 金剛山観光はまだ追い風に乗っていました。まず2000年6月30〜7月4日の間、金剛山地区で自動車競技(金剛山ラリー)が実施されました。また金剛山地区に海水浴場をオープンさせる計画を立てます、が、これは北朝鮮側との意見調整が上手く行かず、このときは失敗に終わります。

 そして8月8〜10日、現代峨山の鄭夢憲会長が北朝鮮を訪問します。このときの訪問では500頭の牛を連れて北朝鮮に向かいました。牛を連れた北朝鮮訪問は1998年6月と10月に続いて3回目で、鄭夢憲氏は8月9日、金正日国防委員長とも会談しました。会談の結果、金正日国防委員長は合意文章に署名。文章にはゴルフ場やスキー場の開発や新たに内金剛の観光を開始することなどが記されていました。
 またこの時の訪問でこれまで金剛山観光が認められていなかった日本人・在日韓国・朝鮮人も金剛山観光が出来るとの合意がなされたのです。早くも8月18日、最初の日本人・在日韓国・朝鮮人が韓国から金剛山へ観光に向かいました。

 9月11〜14日にはかねて懸案の、金正日氏の側近:金容淳(キム ヨンスン)朝鮮アジア太平洋平和委員会委員長の訪韓が実現します。そして9月30日には金正日国防委員長が現代峨山の鄭夢憲会長の案内で金剛山の現代観光施設を視察します。この視察中に金正日氏は軍隊の反対で計画倒れとなっていた金剛山のゴルフ場造成について、『ゴルフ場を作るように』との指示を出したのですが、この話はやはり今に至るまで全く実現の兆しがありません。

 10月1日には高城(長箭)港の波止場に建設中であった海上ホテル『ホテル海金剛』がオープンします。そして翌10月2日、現代峨山は北朝鮮が外国人観光客宿泊用として使用してきた『金剛山旅館』と、金剛山旅館の出張レストランである木蘭館・丹楓館を30年契約で借りる契約を結びます。ちなみに金剛山旅館は改修の上で金剛山観光客の宿泊施設として利用する予定でしたが、老朽化がひどく(1958年オープン)、改築費用が約30億円もかかることがわかり、今現在はまだ改築も金剛山観光客の利用もされていません。


 その後急速に金剛山観光は累積した数百億円にも及ぶ巨額の赤字が問題となり、2000年末には危機的な状況となっていきます。当初設定した北朝鮮側に支払う“観光料”があまりにも高く、割高な旅行になってしまったことが赤字の最大の原因であることはいうまでもありません、が、観光の経過を見ればわかるように『北朝鮮側の約束の多くが空証文であった』ことも、集客に悪影響を及ぼしたことは確かです。
 この北朝鮮側の“空証文”は、金剛山地区を『特別経済地区』ないし『観光地区』に指定する問題や、なんといっても陸路観光の問題で如実に表れていきます。また紆余曲折のあげくにようやく約束を果たしたように見えて、全く実が伴っていないといった点も問題なのですが、別の項(金剛山観光の危機金剛山陸路観光をめぐって)で、詳しく触れていきたいと思います。


 その後も金剛山観光については必死の営業努力が続き、ペースは鈍ったとはいえ観光施設の整備も行なわれていきます。そこで2000年11月以降の施設の整備状況を以下に簡単にまとめておきます。

 まずは2001年1月6日、金剛山観光船『雪峰号』が束草(ソクチョ)から初出航します。これで金剛山観光航路は、東海(トンへ)・釜山(プサン)・束草の3ヶ所になりました。雪峰号はスピードが速く、また母港の束草港が北朝鮮寄りにあるために金剛山へ行くまでに1泊する必要がなく、2泊3日の金剛山観光ツアーが行なわれるようになりました。これが現在まで行なわれつづけている基本の金剛山観光です。
 2001年2月24日には金剛山で統一念願ミニマラソン大会が開かれました。

 それからしばらくは金剛山観光の危機対応に追われ、観光施設整備は進みませんでしたが、2002年に入り、金剛山観光に韓国政府の補助が行なわれるようになって、まず温井閣に免税店がオープンします。
 そして金剛山観光客の増加に伴い、6月3日からは金剛山観光船、雪峰号の運行回数を月に10回から20回へと倍増させ、3泊4日の金剛山観光新ツアーも開始となりました。また、同時にコンテナを改造した金剛山観光従業員宿舎を更に改造した金剛山観光客の宿泊施設(金剛ビレッジ)がオープンとなったのです。

 それから長箭湾内の1キロメートルの海岸を金剛山観光客に対して海水浴場として開放され、金剛山海水浴場が7月10日オープンしました。
11月には金剛山に北朝鮮で初めてのコンビニエンスストアーもオープンしました。コンビニは温井閣休憩所と金剛ビレッジに建設されました。コンビニは陸路観光の開始によって大幅に観光客が増えることを見越して建設されたと思われます。
 この頃、南北の間では『南北離散家族の面会所』を金剛山地区に建設する問題が話し合われました。実際に北朝鮮側は建設予定地である温井里鳥抱(チョボ)村の住民を2002年11月には移転させ、建築に対して強い意欲を見せます。しかし建物の規模の点で南北間の折り合いがつかず、その後の核問題などの北朝鮮情勢緊迫化もあって、南北間での話し合いは断続的に行なわれ、対立していた面会所の規模については意見の歩みよりも見られていますが、まだ着工に漕ぎつけるまでには至っていません。

 2003年に入り、ホテル海金剛の2階にゲームセンターを設けることと、金剛山に自動車キャンピング場を建設することが決まりました。また陸路観光客を見越して『温井ビレッジ』という新たな宿泊施設も作られますが、陸路観光はわずか3回で中断し、金剛山観光自体も全世界で猛威を振るうSRASの影響で4月末から6月末までの約2ヶ月間、中止されてしまい、現代峨山の資金状態は極めて悪化しており、今後の経過が全く予想できない状況となっています。その上、金剛山観光を終始先頭に立って推進してきた現代峨山の鄭夢憲氏が2003年8月4日に投身自殺をしてしまい、それに伴って8月13日まで金剛山観光が一時中断するなど、金剛山観光をめぐる情勢は更に混迷の度を深めて行きます

 しかし北朝鮮がかつて作ったレストランである九竜淵コースの入り口に木蘭館と三日浦のほとりの丹楓館は、改装がなされた上で2003年夏ごろから利用されるようになりました。
 そして金剛山旅館の入り口左隣にある高級朝鮮料理が楽しめるレストラン、金剛苑も2003年度の夏の観光から利用ができるようになりました。また、観光新コースとして2003年夏には、日本植民地時代から金剛山の本格的登山コースの一つとして知られていた、動石洞ー世尊峰ー九竜淵周遊コースが観光客に開放されました。
 懸案であった陸路観光も9月1日より復活がなされ、金剛山温泉敷地内にはジオドームという、10名程度の大人数が宿泊できるドーム型の宿泊施設ができました。
 2003年12月31日には、旧日本植民地時代に外金剛スキー場があった、温井里近郊の丘に雪遊びやそりが楽しめる簡易スキー場がオープンしました。現在、ホテル海金剛前の空き地ではペンション型の新たな宿泊施設の建設が行なわれ、2004年1月には完成したようです。このペンション型宿泊施設は、在日韓国人が投資をしたとのことです。また同じ2004年1月には高城(長箭)湾沿いに海鮮レストランがオープンして、北朝鮮の海でとれた100パーセント天然物の海の幸が堪能できるようになったようです。
 そして2004年春のリニューアルオープンを目指して、かつて北朝鮮の建設した金剛山旅館の修築も進められています。
 今後ゴルフ場やケーブルカーの建設も予定されているといい、まだまだ金剛山の観光開発についての努力が地道に続けられているようです。


(注1)この温井里はもちろん北朝鮮時代の温井里です。旧日本統治時代は養珍里と呼ばれた場所です。旧温井里は今現在、『金剛山旅館』や保養所らしい建物が松林の中に立ち並ぶ場所となっています。(温井里の謎…を参照してみて下さい)

(注2)金剛山温泉のオープンは1999年11月19日としている資料もあります。各種資料から見て正確と思われる1999年12月31日をここでは採用しました。

(注3)金剛山ミネラルウオーターは韓国国内で人気を呼びましたが、水の仕入れ価格をめぐる北朝鮮側との対立で、2001年販売中止となってしまいました。



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