温井里の謎



左は1925年、右は1980年頃の温井里の温泉場
両方の写真にある、尖った形をした山は文筆峰です。
かなり雰囲気が変わったことがわかると思います。

(左・1926年刊行 朝鮮地質要報第七巻/右・1981年刊行 ピョンヤン外国文出版社金剛山より)

外金剛観光の基地、温井里
山懐に懐かれた、温泉の湧く風光明媚な場所として古くから知られています。
ところで、のりまきの調査の結果、
日本統治下の温井里と現在の北朝鮮の温井里の場所が違うという
驚くべき事実が判明しました。
そして……日本時代の温井里の村人は、北朝鮮時代になって
住んでいた場所を追われたのではないか?との
重大な疑惑も持ち上がっています。



まずは下の二枚の地図をご覧下さい。
上は1939年発行、下は1995年発行の温井里とその周辺の地図です。

財団法人金剛山協会発行・金剛山探勝コース図・1939年より )



(朝鮮国際旅行社発行・朝鮮観光地図帖・1995年より)


 上の二枚の地図はほぼ同じ場所を示しています。上の地図と下の地図とも、『城北里』『大慈峰』『文筆峰』などの地名がそれぞれ同じ場所にあることが確認出来ます。しかし温井里の場所のみが異なっています。1939年は文筆峰と大慈峰の麓にあたる場所にあった温井里が、1995年はかなり川(温井川)の下流の方に移ってしまっていることがわかります。1939年と1995年の温井里は直線距離で約2キロも離れています。そればかりではありません、1995年の温井里がある場所は1939年当時は養珍里と呼ばれていたこともわかります。
 1939年の温井里はいったいどうなってしまったのでしょうか?1995年の地図を見る限り、以前の温井里があったあたりには『金剛山ホテル』と『金剛山革命事績館』があることがわかります。2002年の金剛山旅行の際、金剛山ホテル(金剛山旅館)のそばを通りましたが、どうも松林の中に保養所などが立ち並んでいるのみで、民家らしい建物は確認出来ませんでした。
 1920年代の温井里は300人以上の人が住む集落でした。その人たちは一体どこに行ってしまったのでしょう?

 温井里は“移動”した可能性が一番高いではないでしょうか?つまり1939年の場所から温井川の下流約2キロのところに温井里は移動した……そう考えるのが一番順当な考えではないかと思います。しかし温井里の集落が移動したとしても、何故、移動したのかという問題が残っています。
 北朝鮮の多くの景勝地は一般の人民が立ち入れないようになっていて、高位層の別荘や保養所が立ち並んでいる…との話をよく耳にします。金剛山もそんな状況になっている可能性が最も高いのではないでしょうか?金剛山の場合、特に温泉場は高位層の休息場としての需要が高そうです。温泉の湧く温井里からある日、住民が下流の養珍里とその周囲に移転させられ、養珍里が温井里となり、昔の温井里は高位層の使う保養所や別荘、そして外国人観光客が利用するホテルが建つこととなった……これがのりまきの予想する温井里の謎の回答です。

 ↓の地図は、縮尺も書き方も違いますが、同じ温井里温泉場の地図です。1925年が旅館・公衆浴場・土産物屋などがある普通の温泉場の印象であるのに対して、2001年は林の中に保養所のような建物がぽつんぽつんと建つ、別荘地のような場所になったことがわかると思います。参考にしてみてください。

1925年の温井里の地図

2001年の温井里の地図



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