金剛山陸路観光をめぐって
(2003・9・6 最終加筆)


1:金剛山陸路観光の経過

 1998年11月に開始された、韓国から海路で直接北朝鮮領内の金剛山に向かい観光をするという金剛山観光は、約半世紀に渡って対立や反目を続けていた朝鮮半島の南北関係にとって画期的な出来事でしたが、2001年始め頃からは陸路で直接、南北間の軍事境界線を越えて金剛山へ向かう、いわゆる『金剛山陸路観光』の実現を目指す動きが活発化し、実現に向けて様々な駆引きが繰り広げられていきました。
 そして2003年2月にいったん金剛山陸路観光は実現するのですが、事前踏査・モデル観光各1回ずつと、本観光はわずか3回で中止になってしまいます。中断後半年、南北間の様々な交渉や駆引きの結果、陸路観光は9月1日から復活をします。


《第一部 南北間道路・鉄道の着工まで》

 金剛山の陸路観光は、いつ頃から話題になっていたのでしょうか?私の手元の資料では、どうやら2001年初頭あたりから陸路観光の実施についての話が出始めていたようです。実際、韓国側から始めて陸路で金剛山に向かうことが出来たのは、2003年2月5日のことですから、陸路観光の話が出てから実現までに2年の月日が流れたわけです。この2年の間に、陸路観光をめぐって南北間で様々な駆引きが行われたことはいうまでもありません。
 陸路観光の話が出始めた頃の資料を見ると、どうやら金剛山観光の不振が陸路観光案の最初の引き金となったようです。金剛山観光の観光客が思ったように伸びず、金剛山観光事業の不振が現代グループの経営にまで大きな影響を与えるようになる中、金剛山観光客を増やそうとするいくつかのアイデアが生み出されたのですが、その中で船を使って金剛山に向かうこれまでの金剛山観光と較べて、陸路で金剛山へ行けば往復に要する時間の短縮ができる上に、バスは船よりも往復の費用が安くあがるため、陸路観光は観光料金の引き下げができるため、陸路観光が実現すれば観光客数の増加に大きく寄与すると考えられたのです。
 実際2001年初めには高速船による金剛山日帰り観光の開始も検討されたくらいですから、費用のかからない観光商品を開発して、なんとか金剛山観光客を増やそうとする努力の中で陸路観光がクローズアップされた面も大きいのですが、陸路観光とは、南北の軍事境界線を観光客が直接越えていくことになります。この問題は当初から単なる観光振興策を大きく逸脱する側面を抱えていたと言えるでしょう。もちろん“観光であって観光ではない”というところは金剛山観光全体にも当てはまることなのですが、朝鮮戦争終了後も完全な平和が訪れることなく、世界史上最長の“休戦”状態が続き、長年対決を続けていた南北……なかなか思うように話が進まないのも仕方のないところでした。

 2001年2月20日から金剛山を訪問した鄭夢憲・現代峨山会長は、北朝鮮側の窓口である朝鮮アジア太平洋平和委員会側と陸路観光の推進を要請します。このときはその要請は受け入れられませんでしたが、2001年3月10日から14日までピョンヤンを訪問した金ハンギル・韓国文化観光部長官と北朝鮮当局との会談の結果、まず金剛山地区を観光特区として指定することで合意がなされ、3月20〜21日、金潤圭・現代峨山社長の金剛山訪問時の北朝鮮側との交渉で、2001年中に金剛山陸路観光を実施することとなったのです。
 2001年4月2日、韓国の林東源・統一部長官が金剛山陸路観光推進についてぶち上げます。林長官はこの中で『金剛山陸路観光が成功すれば、採算割れで苦しんでいる金剛山観光事業の正常化につながる』。と触れました。ただし2001年4月13日、韓国では総選挙が行われたので、2001年3月から4月当初にかけての流れは総選挙を睨んでのものであった可能性も高いです。
 韓国総選挙後の4月24〜25日、鄭夢憲氏はピョンヤンを訪問します。このときは金潤圭氏も一緒でした。北側との交渉の席では、もちろん陸路観光開始について要請したのですが、北朝鮮側の反応ははかばかしいものがなく、結局5月の半ばになって『観光料の未納が解決された時に陸路観光の許可について話し合いたい』。との北側の意向が示されます。これを受けて5月23日から28日にかけて金潤圭氏は金剛山に行き、朝鮮アジア太平洋平和委員会側と交渉を重ねました。交渉の過程で北朝鮮側の態度に軟化が見られ、陸路観光についても推進していく方向で話が進みました。
 金潤圭氏は6月7日から9日にかけて再び金剛山で朝鮮アジア太平洋平和委員会側と交渉、2001年秋から金剛山への陸路の建設工事を開始して、陸路観光を2002年下半期に実現させることで合意しました。そして2ヶ月以内に金剛山観光特区とすることでも合意がなされ、このときは金剛山観光の活性化について南北間の合意が大きく進展したのです。

 さて、金剛山観光についての南北間の合意がなされた直後の6月20日、韓国観光公社が金剛山観光に投資をすることが決まりました。韓国観光公社は公企業であり、事実上韓国政府が金剛山観光に対して支援に乗り出したことになります。韓国観光公社が金剛山観光に投資するお金は南北協力基金から融資を受けることとなり、その融資を金剛山観光事業を行なっている現代峨山が使うことになったのです。観光特区指定を睨んで、金剛山への投資について視察団が金剛山へ送られたり、とりあえず金剛山観光の活性化に成功したかに見えました。
 ところがです。6月から2ヶ月経っても金剛山の観光特区指定は行われませんでした。秋から予定されていた陸路の建設工事も始まることなく、10月3日から5日まで金剛山で行われた『金剛山観光活性化に向けた南北当局間会談』も物別れに終わりました。この会談の主題のひとつが“陸路観光の推進”であったことはいうまでもありません。同月中に2回目の会談が予定されていたのですが、北朝鮮側の不参加により会談そのものがキャンセルされました。その頃には韓国観光公社の支援にも関わらず南北協力基金からの追加の融資は受けられず、再び現代峨山は深刻な経営危機に陥り、金剛山観光は中止の瀬戸際に立たされます。
 2002年に入ると、金剛山観光に対して韓国政府の本格的なテコ入れが行われることが決まりました。3月には南北協力基金からの追加資金援助を受けられる形となり、4月からは金剛山観光費用の一部を韓国政府が補助することも決定し、金剛山観光はひと息つくこととなります。そして2002年4月に入り、金大中大統領の特使、林東源氏が北朝鮮を訪問し、金正日氏と会談を行います。任期満了まで1年足らずとなった金大中大統領が、膠着状態となった南北対話にテコ入れを図ったのです。その際に『金剛山観光活性化に向けた南北当局間会談』の第二回会談を6月11日から開催することが決まりました。しかしこの会談は前日になっても北朝鮮の参加表明がなく、またもやお流れとなってしまいます。
 2002年8月12〜14日、ソウルで第7回南北閣僚級会談が行われました。その際、金剛山地区と韓国側を陸路で繋ぐ、東海線の鉄道・道路の連結の推進と、これまで2回会談の予定が流れていた『金剛山観光活性化策を討議する当局者会議』を、9月に行うことなどが決まりました。そして同じ8月27〜30日にソウルで行われた第二回南北経済協力推進委員会では、東海線の鉄道・道路を来る9月18日に着工し、また金剛山観光客と離散家族再会に利用する、東海線臨時道路1.5キロを11月末までに完成させることで合意しました。1年半にわたって進みそうで進まなかった金剛山陸路観光ですが、これで2002年の間に金剛山陸路観光が実現する見込みになりました。
 ところが、上手く行きそうになったら止まってしまうのが南北間の関係です。今回も9月10〜12日に金剛山にある金剛山旅館で行われた第2回金剛山観光活性化策を討議する当局者会議』(金剛山観光会談)の場で、金剛山観光料の支払いを韓国政府が保証することを北朝鮮側が強く要求し、その要求を韓国側があくまで拒否し、結局会談は合意に至らず決裂してしまいます。会談の決裂によって、金剛山陸路観光の早期実現に黄信号がともる形となったのです。
 しかし、金剛山観光会談が決裂した直後の9月13〜17日に金剛山で行われた、南北鉄道・道路連結会談の席で、京義線(平釜線)と東海線の道路・鉄道の連結と、東海線の臨時道路の通行を12月初めに始めることなどで合意に達し、京義線(平釜線)と東海線それぞれで、9月18日に工事の着工式が行われることが決定したのです。
 


《第二部 南北間道路・鉄道着工後》

 ピョンヤンで小泉首相と金正日氏との会談が行われ、いわゆる『拉致問題』の存在を認めた9月17日以降の北朝鮮情勢は混迷を続けて、国際的な大問題となってしまいました。金剛山陸路観光も、その混迷を極めている北朝鮮情勢の影響を受けるようになっていきます。更には2002年末の韓国大統領選挙を控え、金剛山陸路観光は大統領選にも微妙な影響を及ぼすことになります。
 2002年9月18日、予定通り京義線(平釜線)と東海線の道路・鉄道の連結工事の着工式が南北同時に行われました。そして金剛山陸路観光で使われる東海線では韓国側の統一展望台と北朝鮮側の金剛山青年駅で着工式が行なわれました。北朝鮮側の着工式にには北朝鮮の洪成南首相や現代峨山の金社長、アンドレイ・カルロフ駐朝ロシア大使などが参列しました。なお、ロシアはかねてから南北間の鉄道・道路の連結に積極的で、北朝鮮側にたびたび働きかけを行っています。

 朝鮮戦争以来50年間に渡って閉ざされていた軍事境界線を越えて、南北の鉄道・道路を結ぶ工事は、当初思いのほか順調でした。まず10月12〜13日に金剛山地区の金剛山旅館で行われた南北間の鉄道・道路の連結に関する第2回実務協議の結果。韓国側から北朝鮮側に行う、鉄道・道路工事用の装備・資材の供与・レンタルの具体的内容について合意しました。しかしちょうど同じ頃、韓国政界と対北朝鮮政策を大きく揺るがすことになる、北朝鮮側に現代グループが巨額の資金をひそかに渡していたのではないかという、いわゆる『北朝鮮ヤミ支援疑惑』が大きくクローズアップされてきました。

 南北間の陸路連結の流れに暗雲が立ちこめ始めたのは11月に入り、南北間の地雷除去→道路・鉄道工事…といった一連の流れが順調に進み、いよいよ工事最前線と軍事境界線までの距離が南北ともに100メートルとなった時点からです。工事開始当初の取り決めにより、軍事境界線から100メートルのところまで工事が進んだら、南北双方が相手側に地雷の除去作業を検証する『検証団』を派遣することになっていたのですが、検証団を軍事境界線を越えて相手側に派遣する時に、国連軍の板門店軍事停戦委員会に事前に通告するか否かをめぐって北朝鮮側と国連軍側が対立し、身動きがとれなくなってしまったのです。
 検証団の名簿を、南北間に開設された直通電話で直接通告しようという北朝鮮側の主張と、停戦協定に従って名簿を軍事停戦委員会に通告しなければならないという国連軍司令部側の主張が対立して、検証手続きが遅れてしまい、その影響で11月6日以降、地雷除去の作業が中断してしまいました。南北間は断続的に話し合いを続け、国連司令部が韓国を通じ間接的に北朝鮮側の検証団名簿を入手することでいったんは妥協が成立しかけます。実際11月18〜20日に行われた南北の鉄道・道路連結実務接触の第二回会談で、南北間の道路・鉄道の接続地点とその地点の高さを確定するために11月26・27の両日に、東海線の測量を南北共同で行うことと、臨時道路開通後の車両通行方法と手続きについて合意され、陸路開通の機運は高まってきました。
 ところがです、北朝鮮側は24日、地雷除去検証手続きを議論するために、25日に板門店で軍事実務会談を開催しようという韓国側の提案を拒否します。北朝鮮側は改めて『北朝鮮人民軍はDMZ地雷除去検証作業に、在韓国連軍司令部が干渉することは絶対受け入れられない』との強硬な意見を述べ、南北間の鉄道・道路の連結、更には金剛山陸路観光も暗礁に乗り上げたかに見えました。
 しかし18〜20日の会談で合意された東海線の南北共同測量は予定通り実施されました。そして地雷除去検証手続きについては当面棚上げにして、11月28日に地雷除去を南北ともに再開します。これは軍事実務会談がお流れになった後の25日、韓国側が行った『とりあえず地雷を先に取り除いたらどうか?』との提案に、北朝鮮側が乗ってきたことにより工事が再開となったのです。この頃、韓国大統領選挙は与党の盧候補と野党の李候補の一騎打ちの情勢となり、南北間の鉄道・道路の連結・および金剛山陸路観光の成り行きは、緊迫した大統領選の流れもあっていっそうあわただしくなっていきます。

 そして11月28日には、いよいよ金剛山陸路観光の事前踏査が12月5日に行われ、12月11日から陸路試験観光が始まるとの話が出てきました。12月1日には国連軍と韓国側との間では軍事境界線通過に関しての合意も出来て、今度こそ陸路観光開始が迫ってきたかに見えました。
 ところがです……北朝鮮側が12月3日になって、『金剛山観光関連問題に合意してから、軍事境界線通過問題について話し合いたい』と通知してきたのです。具体的には「陸路観光の観光日程・道路通行と、関連した合意が得られていない現時点で、双方の軍隊が軍事分界線の通過について話し合うのは、その順番から言っても適切ではない」。と主張してきたのです。つまり観光についての取り決めが出来ていないのに、軍事境界線通過について話し合っても仕様がないではないか……ということです。しかし北朝鮮側の思惑としては
@韓国側が提示した1人当たり50ドル台という金剛山陸路観光費用を、従来の海路での観光並みに100ドル程度まで値上げしてもらいたい。
A現代峨山が北朝鮮側に支給することになっている、金剛山観光代金のうち未払い金2400万ドルの早期支給を要求。 
などがあるのではと見られました。現代峨山の金潤圭社長がピョンヤンで交渉を行いましたが、なかなからちがあきません。そのあげくに、『金剛山陸路観光で用いられる東海線の臨時道路のうち、北朝鮮側の一部で地盤が弱いので補強工事を行わねばならない』との理由で、陸路観光の踏査と試験観光の日程が一週間程度遅れる……との話が持ち上がってくるありさまです。
 同じく12月3日、東海線の地雷除去作業が南北ともに終了します。12月12日には待望の東海線臨時道路が完成し、いよいよ実際の陸路観光の取り決めの合意を待つばかりとなったのです。陸路観光の踏査については、12月17日頃に行う話がいったんお流れとなったのですが、改めて20日前後に実施し、それから年末に陸路試験観光を実施して新年を金剛山で迎える計画が進められることとなりました。そして12月19日には、金大中大統領の対北朝鮮宥和政策を継承する、盧武鉉氏が韓国大統領に当選します。
 そのような中、北朝鮮側が非武装地帯に機関銃を持ち込んだ問題で、南北間に緊張が走ります。そして予定より遅れて12月23日に実施された南北軍事実務会談では、南北間の軍事境界線の通行問題が話し合われたのですが、結局意見の一致を見ることができませんでした。結局時間切れで2002年の間には金剛山陸路観光の事前踏査は実現しませんでした。

 2003年に入ると金剛山陸路観光開始について、目に見える形での進展が少なくなります。1月14〜23日にかけて、現代グループの鄭夢憲会長が北朝鮮を訪問し、更には1月21〜24日に行われた第七回南北閣僚級会談がソウルで開かれたのですが、共に思ったように成果が上がらず、金剛山陸路観光は暗礁に乗り上げてしまったかに見えました。
 そのような中、1月27日になって突如、南北間の軍事境界線の通行問題が解決します。この日、南北の軍事当局者は『東西海地区南北管理区域臨時道路通行の軍事的保障のための暫定合意書』に署名します。最後までもめつづけた軍事境界線通行問題は『(通行)承認に関する手続上の問題は、2000年11月17日と2002年9月12日に締結された国際連合軍側と朝鮮人民軍側間の合意書2項と、2002年9月17日に締結された軍事保障合意書1条2項に準じ、停戦協定に従って協議・処理する』と定められました。この合意は停戦協定の遵守という原則を北朝鮮側が受け入れたことになり、従来の立場からかなり大きな譲歩をしたことになります。これには1月20日頃から疑惑の存在が確実視され始めた、現代グループの対北朝鮮ヤミ支援の追及問題も関連していると見られます。折りしも北朝鮮の核開発問題もアメリカ側と膠着状態となってしまい、北朝鮮側とすれば南北関係の融和を図ることで事態の打開の糸口を図ろうとしたのかもしれません。

 対北朝鮮ヤミ支援問題は、ついに疑惑の当事者たる現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長らの出国禁止措置がとられるようになってしまいました。1月30日には対北朝鮮ヤミ支援問題が疑惑ではなく真実であったことも明らかとなります。そんな中、金剛山陸路観光の事前踏査を北朝鮮側が受け入れるとの返事が返ってきました。しかし受け入れには『陸路観光の実現に尽力した、現代グループの鄭夢憲会長・金潤圭社長が一番最初に軍事境界線を越えてきてもらいたい』。との条件がついていました。
 ヤミ支援問題の当事者であり、韓国からの出国禁止措置を受けていた鄭夢憲会長・金潤圭社長が、『金剛山陸路観光のテープカットに来て貰いたい』。との北朝鮮の要請を受けて陸路で金剛山に向かうということにはかなりの批判が集まりました。が、韓国政府は結局特別許可を出し、鄭夢憲会長・金潤圭社長は金剛山陸路観光事前踏査に向かうことになったのです。


《第三部 陸路観光開始…しかし……》

 鄭夢憲会長・金潤圭社長ともに特別許可を貰って2月5日、陸路観光事前踏査に出発します。紆余曲折の末に、ついに金剛山陸路観光が始まったのです。そして2月14日には予定通り陸路試験観光が行われました。同じ14日には、現代グループの対北朝鮮ヤミ支援問題について金大中大統領が謝罪をします。そして現代が北朝鮮に秘密裏に送った資金は5億ドル(約600億円)に及ぶことも明らかとなったのです。
 北朝鮮側は韓国側の対北朝鮮ヤミ支援問題の追及に対し、露骨に不快感を示します。しかし野党優位の韓国国会は、この問題の追及を押し進めようとします。そんな中、一般の観光客が参加する金剛山陸路観光の本格実施が、2月21日から開始される予定だったのですが、2月21日の当日になって中止となってしまいます。北朝鮮側の説明では、『道路補修工事のための発破作業が失敗し、石が道に流れ出て、バスを運行できなくなった』とのことでした。

 金剛山陸路観光自体は2月21日の次の日程として予定されていた23日に開始されますが、23日以降は25日・27日と3日間のみ行われただけで、3月1日から陸路観光自体が中断されてしまいます。北朝鮮側は『南北間を連結する鉄道の工事のために、しばらく金剛山観光客の乗るバスが通れないため』、と説明しているそうですが、実際には、@金剛山陸路観光客の観光料金の金額をいくらにするか、北朝鮮側とまだ話し合いの最終決着がついていないこと。A南北間の鉄道・道路の建設工事を行っている朝鮮人民軍と、金剛山観光の北朝鮮側窓口となっているアジア太平洋平和委員会との間に陸路観光をめぐる意見の対立があるらしいこと……が、原因と見られています。当然、現代峨山側は何度となく工事の状況や陸路観光再開の見通しについて北朝鮮側に問い合わせてみたのですが、なかなかはっきりとした返事を貰えず、陸路観光の中断は長期化します。

 現に鄭夢憲現代峨山会長と金潤圭社長は、3月11〜13日はピョンヤンへ、3月27〜29日は金剛山へ行って、北朝鮮側の朝鮮アジア太平洋平和委員会と金剛山陸路観光について協議をしました。しかしアメリカのイラク攻撃の影響で、3月26日から平壌(ピョンヤン)で開かれる予定だった南北経済協力制度実務協議会の2回目の会議と海運協力のための3回目の接触を、北朝鮮側が一方的に延期してしまいました。更に韓国国内では対北朝鮮ヤミ支援問題について、4月17日から特別検事が捜査を開始しました。
 その上従来の海路からの金剛山観光も、4月25日には折からの新型肺炎SARSの問題で中断してしまいました。現代側は早急に金剛山観光と陸路観光の再開をするように北朝鮮側に働きかけていきます。

 そんな中、5月28日には特別検事の捜査の結果、対北朝鮮ヤミ支援は2000年6月に行なわれた南北首脳会談の見返りとして北朝鮮に提供されたものである疑いが極めて強く、送金自体が大統領府の指示で行なわれた可能性が高いことが明らかになりました。
 現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長へも捜査の手が伸びつつあり、両名とも違法行為で起訴される見通しにもなってきました。そんな中、北朝鮮側は5月29日、6月初めから金剛山観光の再開を行い、7月には陸路観光の再開も行ないたいとの意向を示し、更に観光再開の話し合いのために、鄭夢憲会長・金潤圭社長の訪朝を要求してきたのです。状況的には2月の陸路観光事前踏査の時と同じような揺さぶりを北朝鮮側がかけてきたわけです。
 結局6月10〜13日までの間に金剛山を訪問した現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長と北朝鮮側の朝鮮アジア太平洋平和委員会側との話し合いの結果、金剛山観光の復活と、陸路観光も7月中に“復活”することで意見の一致を見ました。実際、陸路観光の6月27日海路からの金剛山観光は約2ヶ月ぶりに復活します。しかし陸路観光の方は7月になっても復活しませんでした。

 特別検事の捜査結果に基づき、現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長は対北朝鮮ヤミ支援問題で起訴されますが、起訴後も金剛山関連事業については特に問題なく行なっているようです。事件の捜査そのものもどうやらヤマを超えたようで、対北朝鮮ヤミ支援問題では、鄭夢憲会長・金潤圭社長ともに傷を負ったけれども致命傷は受けなかったという形になりそうです。

 2003年7月23〜25日に金剛山を訪問した現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長は、金剛山観光の北朝鮮側窓口である朝鮮アジア太平洋平和委員会側と交渉を行い、その結果、2003年9月1日から金剛山陸路観光が“復活”するとの発表がされました。実際、金剛山観光中に急病にかかった韓国人患者を陸路で韓国側へ搬送したこともあり、陸路そのものは使用可能の状況であると思われます。結局、陸路観光の復活は、金剛山観光に陸路の使用を認めるかどうかの北朝鮮側の意向次第だったわけです。

 金剛山陸路観光復活が正式に決まらない中、現代峨山の鄭夢憲会長が8月4日に自殺してしまいます。鄭会長の死亡を受けて北朝鮮側は金剛山観光の一時中断を要請し、8月6日以降出発分から一時中断となってしまいました。今回の観光中断は比較的短く済んで、8月13日に金剛山観光は復活します。そして観光復活と同時に現代峨山の金潤圭会長は金剛山を訪問し、北朝鮮側と金剛山観光などについて協議を行い、9月1日から陸路観光を“復活”させることで合意しました。そして今回は予定通り2003年9月1日、金剛山陸路観光は復活しました。

 ここのところ国際情勢は更に緊迫の度を加えており、朝鮮半島の南北関係にも暗雲が漂っています。金剛山観光を始めとする南北のパイプ役であった鄭夢憲氏は非業の死を遂げました。これから金剛山観光・陸路観光はいったいどのような展開になっていくのでしょうか?目が離せない情勢が続くと思われます。


参考リンク…高電社の金剛山陸路観光記事(韓国中央日報の記事を翻訳したもの)

2:金剛山陸路観光関連の記事(T氏翻訳による、ハンギョレ新聞記事)


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