金剛山観光陸路を見て
イ・スノォン(小説家)



「ハンギョレ」新聞、2002年12月31日より、抄訳。カッコ内に(注)として、訳者が適宜、注を入れたところがある。この記事を書いたイ・スノォン氏は、1957年生まれ。1985年、江原大学卒業、1988年、「昼の月」で「文学思想」新人賞を受賞し、デビュー。1996年には東仁賞を受賞
また、のりまきの注は(注1)という形で表記し、実際の注は文末にあります。


ジープはソウルから東へ東へと夜の道を走る。前の座席には、新聞記者がふたり、後ろの座席には画家のイ・ジョング氏と私が座った。大統領選挙が終わって何日もたっていないため、はじめは選挙の話をしていた。外は冬とは思えない暖かさである。ソウルからずっと車窓には雨粒が流れていた。ヤンピョン(楊平)、ホンチョン(洪川)、そしてインジェ(麟蹄)を過ぎると、道の横の山々がすこしずつせまってくるようになった。しばらくすると、雨は雪に変わり、車窓のワイパーは忙しそうに動きだした。ジンブ嶺峠(注。雪嶽山の北側を束草方面にこえる峠)にさしかかると、道路にまで積もった雪で、そのまま夜の闇底が白くなるようだった。ジープのライトがときどき舞い込む鳥の羽根のような雪をかきわけ、車は用心深く前へ進んだ。

しかし、ジープのなかで、私はすこし興奮していた。ジンブ嶺峠から西へもうすこし行けば、20年前、私が軍隊生活をおくり、何度も登ったヒャンノ峰がある。その頃、そこから望遠鏡でよく、遠くかすんだ金剛山を眺めたものだ。いま、私が行く道は、陸路で休戦ラインのなかの非武装地帯を過ぎ、「金剛山へむかう道」へと続いているのだ。ジンブ嶺からジープは、ふたたび東へと向きを変えた。吹雪はさらに激しくなった。私には、故郷の雪と変わりがないように感じられた。だが、私の故郷のカンヌン(江陵)より北にあるここは、雪がさらに多く降る。ジンブ嶺よりも道が険しいハンゲ嶺とミシ嶺は、すでに通行が制限されている(注1)。

この地の気候について小さい頃から聞いた漢詩の一節のような言葉がある。「通高之雪 襄江之風 一口之難説」という言葉だ。「通川」(トンチョン)と「高城」(コソン)(注。どちらも北朝鮮江原道)には雪が多く降り、「襄陽」(ヤンヤン)と「江陵」(注。どちらも韓国江原道)には風が強く吹くが、そのことを一口で説明するのは難しいという話だ。風にむかい馬がひざまずき、雪に松の木がひび割れもするところ、そこを通って海路ではなく陸路で、金剛山へ向かう道が開かれようとしている。

しかし、小さいとき聞いたその話だけで、今回の取材に同行しようとしたのではない。雪と風の話のように、小さい頃から聞いてきた、もうひとつの伝説的な話のためである。何年か前に金剛山へ行く海路が開かれたときよりずっと前に、年をとった大人たちから聞くことができた金剛山修学旅行の話は、やはり私たちにはまるで遠い伝説のように聞こえなかっただろうか。いや、金剛山という言葉自体が、私たちにはひとつの伝説であったのではないか。

人びとは、かつてここ襄陽か高城からソウルへ通じる汽車があったということを知らない。また、ソウルからも金剛山へと通じる汽車があったことだけでなく、襄陽か高城から金剛山へ汽車で行っていたということを知らない。いま、ここに残っているものは、汽車のレールが敷れていた線路の盛り土と鉄橋を渡していたセメントの橋跡だけだ。子供の頃には、そのような跡が、汽車駅もない江陵と襄陽のあいだに、なぜあるのかと気に懸かったものだ。解放と分断、そして朝鮮戦争ののち、使われることもなくなり、久しく人びとの記憶のなかに忘れられた鉄道がひとつ、この地にあった。

「東海北部線」。いまはプックピョン(北坪)から江陵、キョンポデ(鏡浦台)を結んでいる鉄道をいう。総延長50キロのこの鉄道は、1962年に完工され、嶺東線の一部として編入された。しかし、元来の東海北部線は、いまではそれを記憶している人は多くはないが、江原道の元山(ウォンサン)のすぐ下に位置する安辺(アンピョン)から襄陽まで結ぶ、総延長192,6キロの鉄道のことであった。この鉄道は、南側から北側に上って行くのではなく、ソウル元山を結ぶ「京元線」の終点近くの安辺から南へ下りてきていた。いまから74年まえの1929年に、安辺からフッゴク(歙谷)まで鉄道が通じ、その後、通川、長箭(チャンジョン)、外金剛(ウェグンガン)、高城、杆城(カンソン)、束草(ソクチョ)、襄陽を結ぶ路線が連結されたのである。

雪のなかの夜道を、ジンブ嶺から東海側へとのろのろと這うように進むジープのなかで、私は身内の年長者のひとりに電話でたずねた。

「むかし、襄陽から汽車に乗り、金剛山へ行ったとおっしゃっていましたよね。その話をもう一度、聞かせてもらえませんか」。

「あァ、私が15歳のとき、杆城からはじめて汽車に乗り、ソウルへ行ったんだが、そのとき、(マラソンの)孫基禎選手がベルリン五輪で金メダルをとったという話を聞いたよ。それはまちがいなく覚えているんだが、ところでそれは何年のことだったかな」。

「1936年のことですよ」

「おおよそ、その頃のことだろうよ。鉄道線は襄陽までその翌年に連結され、そのときからはそこから乗ってソウルへも行き、金剛山へも行き、北間島(プックカンド)(注。白頭山北側の中国領。植民地支配下、土地を奪われた朝鮮人が移住。抗日運動の拠点でもあった)にも行く人たちもその汽車に乗って、元山、咸興(ハムン)(注。咸鏡南道)のほうへ上ったと聞いたよ。ソウルへの汽車は、安辺で元山から降りてくる汽車に連結されたんだ」。

「金剛山へ行く人はどうしたんですか」。

「杆城駅、高城駅をすぎ、外金剛駅からは、名前のとおり金剛山へはすぐだった。そこにはたくさんの人が出かけたよ。遊びでも休養でも来ていたよ」。

電話の主の年齢は82歳である。とにかく、ここまでは興味深い話だ。電話をしているあいだ、その人も興が尽きないといった感じだった。しかし、そのあとには、つらい話が続いた。

朝鮮は解放されたが、38度線で分けられた。その頃、襄陽、江陵のあいだの線路もほとんど放置されたままになった。38度線は、いまの休戦ラインよりずうっと下の、襄陽郡のヒョンナム面に引かれた。そのため、襄陽と江陵間の線路は自然と使い道がないままに撤去され、現在のように鉄路を残した盛り土と鉄橋のけただけが残されているのだ。襄陽と高城のあいだを走った汽車路線も、朝鮮戦争により、この地域が荒れはて、自然と消滅し、「東海北部線」という言葉さえ現代史の神話のなかに入れられてしまったようだ。釜山を基点とし、北上する現在の国道七号線(注。東海岸にそって慶尚北道、江原道に通じる)も、やはり、同じ運命をたどった。道はあっても、その先を行くことができないようになったのだ。(注2)

その日の夜は、チョジン(猪津)を過ぎたファジンポ(花津浦)で休んだ。ここには金日成の別荘があったという話は子どもの時、反共教育かなにかで聞いたことがある。「通高之雪」という言葉のように、一晩じゅう雪は降り続いた。ジンブ嶺は凍てついていても、海岸地域は穏やかで、道路の雪は下へ降りていくにつれ、みな溶けていた。

さあ、これから、あたらしく開通した金剛山へ向かう道を目指していくのだ。私たちを乗せたジープは、チョジンの検問所で立ちどまった。この検問所から先は、許可なくして民間人が進むことはできない。そこで家を建てたり、生活したりできない「民統線」(注。民間人統制地域)だ。そのなかに、農地をもっている人も国の許可を受けねばならず、軍部隊の統制に従わなくてはならない。しかし、ここにある民統線の検問所から5キロほどさらに北側にある統一展望台までは、だれでも簡単な手続きさえすれば、行くことができる。かつては私たちには悪夢のようにあった「安保」がいつのまにか、ひとつの観光商品になったようだ。検問所の真正面に「果て(終わり)の家」という看板をかかげた食堂があった。まさにその建物は韓国では最北端に位置する民家であるはずだ。

あらかじめ連絡をつけておいた、ユ大尉とパク少領が、わたしたちを案内してくれた。休戦ライン側には、さらにたくさんの雪が降り、私たちの乗ってきたジープでは進めないので、チェーンをつけた軍用ジープに乗り換えた。ジャンパーのかわりに軍服に着替えた。まさに、私たちが立っているところは、民統線の入り口にあるチョジンの検問所、そしてそこはまだ完工はしていないが、新年3月に着工され、9月ごろには完工するあたらしい東海北部線鉄道の出発地となるところだと言う。

チョジン検問所から民統線のなかに入っていく道路は、あたらしい道として造ったのではなく、以前に残されたレールを取り払った鉄道路の盛り土を広げ、造ったものだ。そのため、黄色い中央線の表示のうえに赤い点点が押されているが、それは鉄道を敷設するために測量をした跡だと言う。はじめは鉄道路だったのが、いまは自動車路となり、新年にはその道はふたたび本来の鉄道路へと変わるということだ。金剛山へ向かうあたらしい道は、その鉄道の横にあたらしく造るとのことだ。

こうして民統線をへて、民間人が観光で行く最北端の統一展望台の横を通り、チェーンをつけた軍用ジープは雪道をのろのろと進んだ。進んでいくと、道の横に、金剛山陸路観光が本格的に始まると使用される「出入国管理所」の建物が見えた。金剛山観光が始められても、ひとつの国土のなかで、わたしたちは「出入」管理ではなく、「出入国」管理を経なければ、ここへ入ることができない。それは、どうにもならないわたしたちの現実であり、また、そうするほかはない私たちの悲しい手続きなのだ。

ここからジープは、休戦ラインの鉄柵の通門(金剛山陸路開放のために、南北が軍事境界の鉄柵のなかに門を開けた)へと、金剛山観光路としてつくられた新しい道をたどり、近づいた。幅5メートルの舗装していない砂の道。現在では、あたらしく連結された京義線鉄道と、この道とが、国土の東側と西側で、南北を結ぶ唯一の「気管」である。わたしたちは、休戦ラインの最後の鉄柵の横をすぎ、通門のまえに達した。遠くから鉄柵を望み見るだけでも、あぁ、これが分断なのだと思い、胸がつまる。

だが、この鉄柵のあいだに、あたらしい門が開けられている。正面に、その通門がある。ここから北朝鮮の通門までわずか1・2キロ。相変わらず降りしきる雪のなか、しばらく写真を撮影するために、通門を開けたものの、私たちは一歩たりとも、足をそのなかに入れることはできない。この非武装地帯内で、こちらの側が半分を造り、向こう側が半分を造ってできた道だ。1945年、解放とともに国土が分断されたのち、58年ぶりに南北がおたがいに心をひとつにし、あの軍事境界線の恐ろしい三重の鉄柵の一部分を開けて結んだ道だ。

これから本格的に金剛山陸路観光が始まれば、多くの人びとがあの道を通って、北の地を踏むことになる。しかし、どうして、あの道を金剛山観光の道とだけ言うことができようか。これから、西側では京義線をとおして、私たちの商品が鴨緑江を越え、中国の鉄道と連結されるだろうし、東側ではこの道とあらたに造られる鉄道路をとおして、ロシア大陸横断鉄道と連結されるだろう。いまはまだ小さい道でしかないけれども、この道によってこそ、私たちが世界へ出ていき、民族も出ていくことができるのではないだろうか。

このように、このように、新年が明るく、新しい気運がみなぎってくることを・・・。

そして、いつかは、あの分断の象徴のような鉄柵も撤去される日が来ることを・・・。

(元記事はこちらになります)

(注1):ジンプ嶺(陳富嶺)は、半島内陸部から東海(日本海)方面へと抜ける国道46号線にある峠で、雪岳山を大きく北側に迂回する形をとっている、ジンプ嶺のそばには韓国では有名なアルプススキー場がある。ハンゲ嶺(寒渓嶺)とミシ嶺(弥矢嶺)はそれぞれ雪岳山の南北端にあるような峠で、ジンブ嶺よりも標高が高く険しい。ちなみにヒャンノ嶺はジンプ嶺から東海(日本海)側に下る国道46号線西側にある標高1296メートルの山である。

(注2):日本植民地時代の東海北部線ですが、1997年4月15日に安辺ー金剛山青年(旧・外金剛駅)間が復活して金剛山青年線となりましたが、実際に列車の運行がされているかどうか疑問です。


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