DMZを越えて
(第一章)


夕暮れの束草港から南北連結鉄道の枕木を載せて、DMZへ向けて出発するトラック

(2003・12・16 完成)


2003年11月29日(土)
 旅行出発の日は、あいにくの雨模様でした。しかものりまき・ふとまきともに数日前から体調を崩し、旅行出発当日も、二人ともかなりひどい下痢を起こしていました。そのうえふとまきは夜勤明けの出発となり、実のところ出発時は二人ともあまり意気が上がらない旅行でした。
 特に夜勤明けのふとまきは正直かなりしんどい中での出発となりましたが、電車を乗り継いでなんとか成田に向かい、17:00出発の大韓航空で出国しました。
 成田空港までの電車で休むことが出来たこともあり、家を出発する時よりもふとまきの調子はやや上向きでしたが、そもそものりまき・ふとまきとも下痢であまり食事が出来ないような状況だったので、ソウルに到着してからが正直少し不安でした。
 飛行機は午後7時半頃仁川国際空港に到着しました。何だかんだでリムジンバスに乗って仁川国際空港を離れたのが午後8時過ぎ……今回は翌日に飴屋の金さんと再会する予定があったため、あらかじめホテルを予約していたのが救いです。道は思ったよりも込んでおらず、約1時間で予約したホテルがある江南地区まで到着しました。
 しかしリムジンバスを降りてから、ホテルまでどうやって辿り着くかも難問でした。予約していたホテルは少しわかりにくい場所にあったのです。疲れていたのりまき・ふとまきは、結局タクシーに乗ってホテルに向かうこととしました。最初に停めたタクシーはどうやら方角が違うということで乗車拒否、2回目に停めたタクシーには、快く乗せてもらいました。ただ、どうもホテルの場所がわかりにくかったようで、信号で停車するたびにのりまき・ふとまきが持参したホテルの地図を確認します。
 3回目の信号での停車の際、運転手はにっこり笑って「大丈夫」といった感じで私たちに地図を返します。するとそれから約数分で、タクシーは無事にホテルへ到着しました。やれやれです……
 チェックインを済ませ、部屋に入ってすぐにお風呂に入り、ひと息つく間もなくのりまき・ふとまきとも早速爆睡です。

2003年11月30日(日)
 ホテルで心地よく眠り、のりまき・ふとまきとも調子は上向いてきました。ようやくDMZを越えて北朝鮮へ向かう元気も出てきました(笑)。朝はホテル近くを散歩です。約5分ほど歩いたところでうどん・マントウ(餃子ような食べ物)屋を発見。のりまき・ふとまきともうどんで朝食です。うどんにはふりかけのかかったご飯がついてきました。うどんもなかなかの美味でしたが、のりまき・ふとまきとも、2日ぶりに食べるごはんの美味しさに感激です。
 旅行前のメールのやりとりで、金さんとはホテルの喫茶店で10時に待ち合わせの約束です。10時少し前にチェックアウトを済ませ、喫茶店に行って見ると金さんがいました!
 金さんと再会して、お互い言葉が不自由な中、なんとか色々話をしてみると、金さんはどうも今日中にのりまき・ふとまきが束草へ行く約束をしていることを知らなかったようでした。金さんは今日一日、ソウルのあちこちを案内してくれるつもりだったようなのです。のりまきは『あれ?メールに書いたのにな??』と思ったのですが、金さんから話を聞いてみると、どうやらメールが文字化けを起こし、メールの本文は読めなかったようなのです。ただ11月30日という日付けとメールに添付したホテルのホームページを見て、何とか来れたようなのです。
 本当に良く会えたものだなあ……と思いながら、私たちと金さんはホテルを出発です。まず、束草行きのバスが出発する江南のバスターミナルに向かいました。のりまき・ふとまきがバスターミナルのコインロッカーに大きな荷物を預けようとすると、金さんが『待ってくれ』と言った感じで止めます。なんだろうと思うと、金さんは近くのバス会社の係員が休憩をする場所のようなところに行って、バス会社の係員を捜し出しました。そして係員を見つけると『この荷物をしばらく置いておかせてくれ』といった感じで頼み込みます。金さんと係員はしばらく話をしていましたが、結局荷物をその場所に置いておくことが出来るようになったようで、のりまき・ふとまきとも大荷物をバス会社社員の休憩場所に置いて、身軽になって出発です。
 体調のことを考え、束草には夕方頃には到着したいと思ったため、ソウルを午後2時〜3時頃には出発することにしたので、あまり時間がありませんでした。結局、仁寺洞をぶらぶらして、仁寺洞にある北朝鮮・開城風の美味しいマントウを食べさせてくれるお店で食事をして、PC房(インターネットカフェのようなもの)で、確かにのりまき・ふとまきから金さんへのメールが文字化けを起こしていることを確認したら、あっという間に午後2時近くになってしまいました。そして金さんとは私たちがソウルに戻る12月5日にもう一回会うことにしました。
 金さんは結局私たちと別れた後に、金剛山で仕事をしている間に知り合ったという金剛山温泉の責任者の人と会うことにしたようでした。金剛山温泉の責任者は、休暇でソウルに戻っているとのことでした。
 「のりまき・ふとまきさんがもう少し金剛山に行くのが遅ければ、金剛山温泉の料金をただにして貰えたのに」。と、金さんは笑います。ちなみに金さんは約一年間金剛山で仕事をしたお陰で、一年に一回、ただで金剛山を旅行できるといいます。
 また、金さんは「春と秋、金剛山は一番きれいです。春になると金剛山旅館のまわりに桜の花がいっぱい咲きます。秋は紅葉がきれいです」。とも話してくれました。そういえばのりまき・ふとまきは夏と冬には金剛山に行っていますが、春と秋はまだ行っていません。金剛山・温井里の桜並木の写真は、日本植民地時代の写真も残っていて、また20年あまり前に北朝鮮が発行した金剛山の写真集の中にも、温井里の満開の桜並木が写っている写真がありましたが、かつての温井里の面影がほとんど無くなってしまった今でも、桜の木だけは過ぎし日の名残が残っているようです。
 また金さんは「金剛山で働く北朝鮮の人たちは何か物をあげようとすると、『南の人間から贈り物なんて貰えない』と口では言いながら、こっそりと受け取ってしまうのです」。という、実に興味深いことも話していました。今回の旅行では、金剛山で韓国側の現代職員と北朝鮮側の監視員が本当に打ち解けたように話をしている場面をよく見かけましたが、金剛山観光が始まってはや5年……その中で様々な人間関係が生まれ、贈り物のやりとりなんかも出てくるようになったのでしょうか。

 さて、あっという間に時間は午後2時をまわり、江南バスターミナルに戻り、のりまき・ふとまきは束草に向けて出発です。バス会社社員の休憩場所に行ってみると、荷物は無事残っていました。良く見ると私たち以外の荷物もあるようで、他にも荷物を預けている人がいたようです。
 午後3時前、金さんと別れて束草行きの高速バスに乗り込みます。体調はいくぶん回復傾向ですが、のりまき・ふとまきともまだまだお腹に違和感を感じていました。束草までは3〜4時間かかります。韓国の高速バスにはトイレがありません……ちょっと心配でしたが、バスは束草へ向けて出発します。
 道は空いていました。バスは快調に飛ばしていきます。のりまき・ふとまきともいつしか眠ってしまいました……出発後約1時間半で、束草行きのバスが途中休憩をするソサという名のサービスエリアに着きましたが、前回と前々回、ここで食べてとっても美味だったクンマンドゥ(揚げ餃子のような食べ物)も残念ながら今回はお預けです。
 ところでソサで休憩中、私たちのバスの隣に『世一観光』の観光バスが停まりました。あれあれと思っていると、中から『千葉県○○○○』などと書かれた名札をつけた人々がぞろぞろと降りてきました。どうやら日本からの統一教会の団体バスのようでした。
 ソサでの休憩後、バスは再び走り出します。相変わらず道は空いていて、バスは快調に飛ばします。午後6時半ごろ、バスは束草に到着しました。バス乗車中、とりあえずトイレは大丈夫で、のりまき・ふとまきともども一安心です。
 束草に到着後、kuniさんに連絡しました。約20分後kuniさんが現れました。約1年半ぶりの再会です。kuniさんと再会後、とりあえず宿探しとなりましたが、kuniさんの知人が所有しているという、バスターミナル近くのウイークリーマンション風の建物の11階に泊ることにしました。正面に海が見える絶好のロケーションのところです♪ここで束草で宿泊する予定の金剛山へ行く前の2日と金剛山帰り1日の、合計3日間、泊まることにしました。宿泊料は3泊で8万ウォンでした。
 ところで、束草にはこういったウイークリーマンション風の物件を何軒も持っていて、観光客を泊らせてお金を稼いでいる人がいるそうです。kuniさんの知人もその一人で、夏場などは面白いように儲かるとのことでした。
 kuniさんとは翌日、金剛山の南端とも言われている『金剛山乾鳳寺(クムガンサンゴンボンサ)』に行くことになりました。この日はのりまき・ふとまきで夕食を食べて、早い時間にお休みすることにしました。夕食は前回、kuniさんに薦められた束草高速バスターミナル近くのカルククス(うどんのような食べ物)店にしました。
 カルククスは海の幸や野菜がたっぷり入っている美味しいもので、のりまき・ふとまきともども堪能しました。そして帰りにコンビニで明日の朝食用のパン・オレンジジュースなどを買い込み、部屋に戻りました。部屋に戻ったらシャワーを浴びてさっさと就寝です。まさにいい子ちゃん生活です(笑)。

2003年12月1日(月)
 早寝をしたこともあって、のりまき・ふとまきとも朝は7時ごろには目を覚ましました。胃の状態はのりまき・ふとまきともまだいまいちといったところで、せっかく買ったパンも全部食べられません……
 しかし天気は大変に良く、東海(日本海)も、海の反対側に聳える雪岳山もとってもきれいに見えます。kuniさんがやってくる10時頃まで、のりまき・ふとまきは部屋でのんびりしていました。
 10時少し前にkuniさんがやって来ました。kuniさん運転の車で金剛山乾鳳寺へ向かいます。車は北の方向に進み、やがて山の中の方へと入っていきます。噂には聞いていましたが、金剛山乾鳳寺とはかなり山の奧の方にある寺のようです。
 金剛山乾鳳寺には昼前に着きましたが、月曜日の昼前ということもあって私たち以外には誰もいません。寺は広い敷地の中に真新しい寺院建築が並んでいます。解説を読むと、金剛山乾鳳寺は豊臣秀吉の朝鮮侵略時、僧兵を率い、加藤清正と直談判したことでも知られるサミョンダンという名前の高僧ゆかりの寺なのだそうですが、寺の周辺は朝鮮戦争の激戦地となり、跡形もなく焼けてしまったといいます。
 寺を見て廻って、最後に本堂と思われる建物に寄ってみると、kuniさんが寺の人と何かお話をし始めました。kuniさんによると、寺の人に頼むと、金剛山乾鳳寺の宝物、『仏舎利(釈迦の遺骨)』を見せてくれると言うのです。やがて私たちは係りのおばさんに連れられて、本堂の中に案内されました。
 本堂の中には本尊と思われるかなり大きい仏像が祀られており、その脇には耐火金庫のようなものが置かれていました。そして天井から名前が書かれた灯篭のようなものが数多く吊り下げられていました。私たちが本堂に案内された時、堂内にはお坊さんが一人いてお経をあげつづけていました。私たちを本堂内へ案内してくれたおばさんは、何度か五体投地を繰り返し、やがて耐火金庫の鍵を開けました。
 耐火金庫の中はびっくりするほど派手に飾られていました。開けられた耐火金庫に向かっておばさんは何度か頭を下げた後、私たちに耐火金庫のところに来るように促します。金庫の中には、貴金属で作られたと思われる容器に納められた仏舎利がありました。仏舎利は骨と言われれば骨かなあとも思えるし、石だと言われればやっぱりそうかなあ……と感じてしまうようなものでした。
 仏舎利を見た後、のりまき・ふとまきは乾鳳寺オリジナルのカレンダーをいただきました。そして再建中の寺の瓦を寄進するように促され、のりまき・ふとまきは1万ウォン払って寄進をしました。瓦にはしっかりのりまき・ふとまきの名前を書かせていただきました(^o^)。乾鳳寺観光の最後は高僧サミョンダンの記念館を見学しました。記念館には立体映像が見られる装置まであって、『金かけているなあ〜』といった感じの建物でした。

 乾鳳寺の後は、郷校という昔の寺子屋のような場所に行ってみたのですが、あいにく閉まっていました。それから朝鮮戦争で焼け残って、古い家並みが残っているという場所に行きました。着いてみると、山あいに伝統的な朝鮮式家屋が並び、軒先には菜っ葉が干してあったりして、のどかで実に良い感じです。ここで私たちは昼食をとることにしました。江原道の郷土料理であるマッククス(ざるそばと冷麺の中間のような食べ物)をいただきました。なかなか美味しかったのですが、量が半端ではありません……のりまきはかなり残してしまいました。


朝鮮戦争で焼け残った、古い建物が残っている地区の昼下がり…のどかな光景です。

 午後になって束草の近くまで戻り、金剛山禾厳寺(クムガンサンファアムサ)というところへ行き、韓国風のお茶を飲みました。お茶を飲む場所は韓国風の建物で、大きな岩山が聳えているのが望めて見晴らしが良かったです。お茶も美味しく堪能しました。それにしても北朝鮮のように岩山にわけのわからない文字が彫り込まれているようなことがなく、ほっといたします(笑)。

 それから尺山温泉というところまでkuniさんに連れて行ってもらい、私たちは温泉に入ってから自分たちで宿まで戻ることになりました。温泉はのりまきが10年ほど前に行ったことがある、山陰の無人駅の近くにあった温泉に似た感じでした。客は地元の人ばかりのようで飾りッ気がなく、全く観光化されていません。肝心の温泉はというと、温泉らしいお湯がふんだんに流されていて、気持ちよくてなかなか快適です。
 温泉を堪能した後、のりまき・ふとまきは路線バスに乗って束草の市内へ戻りました。kuniさんに薦められた束草の市場に行き、市場で売られている珍しい魚や日本では見かけることのない野菜などを見ました。なかなか活気があって楽しい市場でした。
 市場見学の後、温泉で湯あたりをしたのかのりまき・ふとまきとも疲れを感じ出していたので、タクシーを使って戻ることにしました。タクシーがつかまりやすいだろうと考え、束草港近くの束草市外バスターミナルまで行ってタクシーをつかまえることにしました。束草港の近くまで来てみると、これまで二回、金剛山行きの雪峰号に乗った束草港がなんとなくなつかしく、港の方を眺めてみると、港にはなにやら多くの物が山積みされているのが見えます。
 『何が置いてあるのだろうな??』と思いさらに近寄ってみると、なんと枕木とレールではありませんか!枕木は白いコンクリート製のものと黒い木製のものがありました。枕木もレールも、ずいぶん多く山積みされています。また、枕木の方はトラックに積み込む作業も行なわれていました。
 『これって、建設中の南北連結鉄道用のものじゃあないのかな??』そう思って枕木をしげしげと眺めていると、のりまき・ふとまきの方に枕木の積み込みをやっていた係の人がやって来ました。
 「これって、南北間の鉄道のものですか?」片言の韓国語で聞いてみると、「そうだ」。とのこと、どうもこれら枕木とレールは、本当に現在建設中の韓国と北朝鮮を繋ぐ東海線鉄道用のものらしいです。
 のりまき・ふとまきは山積みされているレールの本数を数えてみました。レールはなんと1392本もありました!!ひとしきり枕木とレールの写真を撮った後、金剛山観光船の雪峰号が出発する、束草港の現代ターミナルにも寄ってみました。これまでの2回の金剛山行きは、このターミナルから出発したのです。なつかしかったですが、ターミナル自体はもう夕方で閑散としていました。ターミナル内には少しですが金剛山観光の資料も置いてありました。ひとしきりターミナルを見た後、戻ろうとするのりまき・ふとまきに、「金剛山の資料探してますか」。と、日本語で呼びかけられました。見ると観光案内所の女の人が私たちに声をかけてくれたようです。
 「はい」。と答えると、彼女はきれいな最新の金剛山観光パンフレットを取り出して「日本語のパンフレットも英語のパンフレットもありませんが……要るだけ持っていってください」。と言います。のりまき・ふとまきはありがたく3部いただくことにしました。
 「ところで、港にあるのは南北を繋ぐ鉄道の枕木やレールなのですか?」この場所で日本語が話せる人と出会ったのも何かの縁です。聞いてみることにしました。「はい、そうです。私も今日からここの観光案内所で働くことになったので、初めて見るのですが……なんでも浦項(ポハン)のポスコという会社から運ばれて、束草港に一時保管され、これから北の方に運ばれていくそうです」。
 それから彼女は山積みされているレールをバックに、のりまき・ふとまきの記念撮影までしてくれました♪感謝であります!!
 たまたま立ち寄った束草港で、本当に良いものを見せてもらったものです!そんな感動にふけっていると、山積みになったレールの中に女性が二人入っていきました。『なんだろう?ひょっとして仕事かな??』と思っていると、二人の女性はしゃがみこみ、なんと用足しをし始めたではありませんか!そればかりではありません、彼女たちは男性2人と4人組で、夕暮れの寒風吹く束草港でなんと焼肉パーティをしていたのでした!!
 kuniさんによれば、『韓国人は人が集まるとどこでも焼肉パーティが始まる』とのことですが、まさか夕暮れの北風吹く波止場で焼肉をするとは……その上に、民族の悲願とも言われる南北を連結するレールの山の中で、女性が堂々と用を足すとは……このケンチャナヨ精神!!逞しきかな韓国人!!
 そんな中、枕木を積んだトラックが夕暮れの中、北へ向けて旅立っていきました。枕木はきっとDMZやその周辺で鉄道(東海線)に使われることになるのでしょう。

 北に向けて旅立っていったトラックを見送った後、のりまき・ふとまきは束草の市外バスターミナルそばの食堂でスンドゥプ(おぼろ豆腐)定食をいただきました。食事後タクシーを拾って宿の近くまで戻り、スーパーで明朝の朝食用のパンや飲み物を買い込んでから宿に戻りました。宿ではシャワーを浴びて、体調と明日からの金剛山陸路観光に備えて早い時間にお休みです。


束草港にあったレール・枕木については↓も参考にしてみてください。

束草港にあった南北連結鉄道の枕木・レール



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