DMZを越えて
(前章)


金剛山・温井閣の南側に建つ、故鄭夢憲現代峨山会長の顕彰碑とのりまき
鄭夢憲氏は、金剛山観光を始めとする南北協力事業に尽力したが、
2003年8月4日、飛び降り自殺により非業の死を遂げた。

(2003・12・7 完成)


 金剛山陸路観光が具体的な形で話題となり始めたのが2002年11月頃のことで、実際にのりまき・ふとまきが金剛山へ陸路で向かったのが2003年12月2日のことですので、今回ののりまき・ふとまきの金剛山陸路観光行きは、まさにまる1年越しの夢の実現でした。
 どうしてそんなことになってしまったのかというと、これは陸路観光そのものがなかなか予定通りに始まらなかったり、開始後も途中中断してしまったりしたことと、実際に観光が始まってもなかなか思ったように予約が取れなかったことに原因があります。
 またのりまきは陸路観光計画と同時に、北朝鮮からの内金剛ツアーの参加も検討していましたが、これは2003年中はツアーが催行されず、断念したのでした。
 今回の旅行記『DMZを越えて』の前章として、のりまき・ふとまきが金剛山陸路観光に向かうことが出来るようになったまでを振り返ってみたいと思います。


陸路観光そのものが順調に催行されるようになるまで

 2002年後半から、金剛山陸路観光が開始されるという話はどんどん流れてきていました。のりまきは是非、金剛山陸路観光の日本人一番乗りをしたいと願い、2002年11月頃から色々動いてきました。
 金正日国防委員長からの日本人拉致の事実告白という、あの衝撃の小泉首相の平壌訪問の翌日である、2003年9月18日に京義(平釜)線と東海線の鉄道・道路連結工事が着工されました。工事はまず双方を繋ぐ臨時道路の完工が目指されました。東海線の臨時道路は完成し次第、金剛山観光と金剛山で実施されることが恒例化している南北離散家族の再会事業で使われることが決まっていました。
 東海線の臨時道路の工事自体は難しいことはなかったようなのですが、厳しい対決が続いてきた南北を繋ぐ道路の工事のこと、予想通り問題が発生して途中で工事が中断してしまい、当初2002年11月に開始されるとされた金剛山陸路観光は延期となります。
 臨時道路の工事についての問題は、韓国側と北朝鮮側との話合いがついて、11月末には工事が再開されました。12月12日には東海線の南北間の臨時道路が繋がります。この時点で物理的には金剛山陸路観光が可能となったのです。
 道路は完成しました……しかし、今度は実際の観光をどのように行なうかで揉めつづけます。北朝鮮側に支払う観光料の問題や、金剛山観光客らが軍事境界線を通過する場合の手続きをどうするのかなどでなかなか話し合いがつかず、金剛山陸路観光開始問題は2003年に持ち越しとなったのです。
 これら諸問題は2003年1月末にほぼ解決を見ました。その結果2003年2月5日、現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長らが、陸路観光事前踏査に出発します。南北間の軍事境界線は両氏が一番最初に越えていきました。紆余曲折の末に、ついに金剛山陸路観光が始まったのです。そして2月14日には陸路試験観光も行われました。のりまきはまずこの頃に金剛山陸路観光の予約を行おうとチャレンジしました。
 一般観光客の陸路観光は、観光開始予定日とされた2月21日は『道路補修工事のための発破作業が失敗し、石が道に流れ出て、バスを運行できなくなった』とのことで当日にドタキャンされてしまいます。が、次の日程として予定されていた2月23日に開始されます。
 2月末にはのりまきは束草のkuniさんの協力を受けて、3月末の金剛山陸路観光の仮予約に成功します。しかし肝心の陸路観光が、23日以降は25日・27日と3日間のみ行われただけで、3月1日から陸路観光自体が中断されてしまいます。
 金剛山陸路観光の中断について、北朝鮮側は『南北間を連結する鉄道の工事のために、しばらく金剛山観光客の乗るバスが通れないため』と説明したそうですが、実際には観光料の問題がまだくすぶっていたのと、あと、北朝鮮側で金剛山観光を取り仕切る朝鮮アジア太平洋平和委員会と、朝鮮人民軍との間に金剛山観光についての意見が対立していたことが原因であったようです。
 陸路観光の早期復活を求めて、現代峨山は北朝鮮側に様々な働きかけを行ないます。しかし4月25日には折からの新型肺炎SARS問題で、従来の海路からの金剛山観光まで中断してしまいます。
 その後も現代峨山側が粘り強く金剛山観光と陸路観光の早期復活を求め続けた結果、海路からの金剛山観光は6月末には復活します。陸路観光も7月中の復活が約束されたのですが、これは実現しませんでした。結局、2003年7月23〜25日に金剛山を訪問した現代峨山の鄭夢憲会長・金潤圭社長が、金剛山観光の北朝鮮側窓口である朝鮮アジア太平洋平和委員会側と交渉を行い、2003年9月1日から金剛山陸路観光が“復活”することとなったのです。
 現代峨山の鄭夢憲会長は8月4日、飛び降り自殺によって非業の死を遂げます。鄭夢憲会長の死を哀悼するということで、北朝鮮側は金剛山観光の中断を要求し、金剛山観光は2003年に入って2回目の中断をしてしまいますが、今回の中断は短く済み、9月1日には待望の陸路観光が7月23〜25日の交渉時の約束通り復活します。


北朝鮮・平壌からの内金剛行き計画の挫折

 2003年の、のりまきのもう一つの金剛山旅行関連の目標に、『出来れば内金剛に行ってみたい!』ということがありました。内金剛は今のところ韓国側からの金剛山観光では行くことが出来ず、時々計画される北朝鮮専門の旅行会社のツアーだけが頼りです。内金剛には外金剛の九竜淵や万物相に負けず劣らずの景勝地と言われている万瀑洞などがあり、さらには日本植民地時代に金剛山電気鉄道が走っていて、その跡がどうなっているのかにも興味があります。
 2003年も5回ほど、北朝鮮側から内金剛に行くツアーが組まれました。実際、のりまきは7月のツアーに申し込みまで行いました。しかし4回までが北朝鮮側の日本人観光客の受け入れ中止処分によってツアーが流れました。9月末に北朝鮮の日本人観光客の受け入れが再開され、10月の内金剛ツアーはかなり迷ったのですが、のりまきは仕事の都合で断念することにしました。ちなみに10月に予定されていた今年度最終の内金剛ツアーは、今度は申し込み者がツアーの催行できる人員に満たず、やはりツアーキャンセルになってしまいました。
 内金剛行きはのりまき来年以降の課題となりそうです。


今回の旅行で撮影した、外金剛から内金剛へ向かう道路の、万物相より少し先の部分の写真。
思った以上に整備されているようで、近いうちに韓国側からの金剛山観光で内金剛に行けるようになるかもしれない。



金剛山陸路観光の予約が出来るまで

 陸路観光は始まりました……しかし、これから後が意外と手間取りました。陸路観光の予約がなかなか取れなかったのです。のりまきの仕事の都合もあって、金剛山陸路観光に向かうのは11月末か12月になってからと決めました。陸路観光一番乗りを目指していたのりまきにとって、これはとても残念でしたが仕方がありません。
 まず、11月24〜26日の予約を目指し、前二回の金剛山旅行を予約した旅行会社の担当さんと、束草のkuniさんの協力をお願いしたのですが全く上手くいきません。時間ばかりがずるずると過ぎていきます……
 そんなこんなの中、レトロ氏ら一行26名が10月7〜9日に陸路で金剛山へ向かいます。これはレトロ氏の所属する団体の日韓会議が10月に開催され、その中でオプションとして金剛山観光が企画されたようです。なぜ日韓会議のオプションとして金剛山観光なのかというと、韓国側会長が、「これは希望ではなく信念で実現したい」ということで実現したのだそうです。これが日本からの民間人の金剛山陸路観光第一号であったようです。レトロ氏からの金剛山陸路観光の貴重な情報を聞くにつけ、のりまきも『是非、金剛山陸路観光をしたい!』と思ったのですが、なかなか肝心の旅行日程がが決まりません。
 旅行会社の担当さんは、どうも現代峨山側との調整が難航していたようでした。原因は現代峨山側が担当さんの方にきちんとした情報を流さないことにあるようでした。kuniさんの方は、地元の旅行会社に予約をお願いしていたのですが、江原道の観光会社には金剛山観光客の割り当てが少なくて、9・10月はこの旅行会社を通しては一人も金剛山へ行けなかったとのことでした。そんなこんなのうちに10月半ばを過ぎ、11月の金剛山観光の予約がほぼ埋まったとの情報も入ってくるようになりました。『これはいよいよ、今年中の金剛山行きは無理かな……』と思い始めた頃、10月31日、kuniさんから朗報が入ってきました。ソウルの旅行会社に電話してみたところ、12月2〜4日の予約が取れるとの話が入ってきたのでした!ただ、これまで2回の金剛山旅行で宿泊していたホテル海金剛は満室で、ビレッジの宿泊となるとのことでした。少し考えたのですが、これもまた新しい体験が出来ると考え、のりまき・ふとまきは、ビレッジ宿泊の金剛山陸路観光に行くこととなったのです。


予約が取れてから

 予約が取れてからも実は色々とありました。ソウルの旅行会社からは実際にすぐ英文のメールが届きました。メールはわかりやすい英文で書かれており、それからの手続きは大体、英語で旅行会社と直接やりとりを行なうことが出来ました。
 予約後、まずは旅行会社にパスポートコピーと、住所や職業などの必要事項を書いたファックスを送りました。そしてパスポートコピーと、住所や職業などの必要事項を書いた紙の原本と、のりまき・ふとまきの写真を旅行会社に郵送しました。
 そこで次に問題となったのが旅行代金の振込みです。振り込み先は旅行会社の韓国語ホームページを翻訳ソフトで日本語訳をしてみて知ることが出来ました。旅行会社の口座は韓国外換銀行にあり、韓国外換銀行の支店が東京の有楽町にあったので、そこからなんとか旅行代金を旅行会社へ直接送金することができました。
 次に今現在、金剛山観光の観光日程や宿泊場所がかなり流動的であるために、11月に入って、宿泊場所が当初宿泊予定であった温井ビレッジから金剛ビレッジへと変更になった際、観光会社のホームページの見方によっては、観光日程そのものが1日ずれるようにも見えたため、メールで確認を行ないました。また、観光コースや25ドルで北朝鮮特別料理が楽しめる金剛院の予約方法など、英語で旅行会社の担当さんに問合せを何度か行ないました。会社にはどうも英語の出来る人が一人しかいないようで、なかなか返事が来なかったこともありましたが、担当さんはのりまきの質問におおむね親切に答えてくれました。
 レトロ氏の情報と併せ、ソウルの旅行会社の担当さんからの情報も得て、のりまき・ふとまきは11月29日、金剛山へ向けて日本を出発したのでした。


陸路観光についての経緯は、皆骨の巻・金剛山陸路観光をめぐって…も参考にしてみて下さい。



DMZを越えて(序章)に戻る

蓬莱の巻に戻る

金剛一万二千峰へ戻る

のりまき・ふとまきホームへ戻る



DMZを越えて 第一部へ進む