戦争への道


1943年に朝鮮山岳会より刊行された写真集・朝鮮の山(注1)より、外金剛スキー場のスキーヤー
『高度国防国家の建設が叫ばれている今日、スキーヤー自身もその一翼としての
責務を果たすべく、一段の飛躍をなさなければならない』。というすごいキャプションがついている。


(2006・4・24 完成)



 戦争色が深まっていく時代の資料を読み進めていくのは、一方では面白くかつ一方では辛いものがあります。現代の私たちが読むとギャグではないかと思うようなことを真剣にやっていて、言っていることの多くが狂信的かつトンデモなことばかりで、たとえていうならば現在の北朝鮮の資料を読むような感じがします。


観光朝鮮第一巻第二号・金剛山特集号(1939年8月15日発行)より内金剛明鏡台にて(注2)
明るい元気よさが感じられる写真である


 昭和14〜15年頃は日本植民地時代の金剛山観光全盛期でした。しかしそれはまた戦前最後の輝きでもありました。当時の日本は既に戦時色は濃厚になっていましたが、まだ雑誌でも金剛山に多くの人が観光に行くようにと特集が組まれ、金剛山観光を紹介する冊子やパンフレットも作られており、上の写真のように金剛山で水遊びをする若い女性の姿を紹介することも出来ました。
 その後は年を追うごとに余裕がなくなっていき、出版物で金剛山について紹介する内容も常軌を逸したものとなっていきます。また、内容の変化と歩調を合わせるかのように雑誌の紙質がどんどん悪化していくのです。

団体訓練・体位向上・統制ある行動……

 1940(昭和15)年の日本はすでに泥沼のような戦争の真っ只中に突入していました。1931年の満州事変以降、日本はいわゆる十五年戦争の時代に突入しており、1937年には日中戦争が開始され、1941年12月8日、日本はアメリカに対して真珠湾攻撃を行い、いよいよ最後の破局へと続く第二次世界大戦に参戦します。
 これまで多くの人々の努力の中で大きく発展して来た金剛山観光も、戦況の深刻化とともに大変に厳しい状況へと追い込まれていきます。1940年はまた金剛山観光の暗転が始まった年でもあります。これまで金剛山へ行く場合に多くの人が利用していた金剛山探勝割引の制度が廃止されたのです。これは戦争のために物資・兵員などの輸送が急増した影響で鉄道輸送力が逼迫。結局、観光客を乗せる余裕がなくなってしまったのが原因でした。
 戦時体制の中、物見遊山的な観光旅行への批判が高まり、金剛山観光も団体訓練・体位向上を目的とした、統制ある行動を行なう団体旅行のみが奨励されるようになります。例えば1941年11月の雑誌・文化朝鮮(注2)誌上では「従来の探勝には娯楽的な意味が多分に含まれている観がありますので、団員自らが団体訓練、体位向上の精神に徹して、統制ある行動をとるならば、金剛山探勝また大いに結構と存じます」。とも説明され、1943年に発行された『朝鮮の山』(注1)では「従来の金剛山はいわゆる風景鑑賞の対象であったが、国防スキーの勃興は冬季練成運動の道場としてここに新たな発足と意義をもたらした」とされています。
 1942年7月の文化朝鮮には金剛山のことを、「単なる景勝の対象のみならず、最近一つの精神的道場として、国民練成の格好の場所として時代性に輝いてきた」。と紹介していて、とにかく金剛山を「団体訓練・体位向上・統制ある行動」を訓練する国民練成の場として位置付けたい意図が見えてきます。

銀嶺練成会

 ひとくちに団体訓練・体位向上を目的とした、統制ある行動を行なう団体旅行と言われても、いったいどんな旅行であるのかちょっと想像がつきませんが、当時の雰囲気がわかる良い資料があります。雑誌・文化朝鮮昭和17年5月号に紹介された、1942年3月20〜23日に金剛山で行なわれた、朝鮮山岳会主催の銀嶺練成会というスキーツアーの報告座談会記事です。主催者の中には後に戦後、探検家として名を馳せる飯山達雄氏や、民俗学者として名を成す泉靖一氏らの名前も見えます。山の専門家として豊富な経験を持つ両氏は、外金剛の集仙峰や世尊峰でのロッククライミングの先駆者で、また冬の金剛山スキーの草分け的存在でもあり(注3)、練成会でも中心的役割を果たすことになりました。

 「なんでも非常に規則正しい団体行動をとられて、これまでのスキーヤーの行動とたいぶ趣を異にしておったそうですね……」
 「今度の銀嶺練成会が特に規則正しく行動し、整然と行きましたのは今までのとは全然違う、今までは各自の行動を何ら制限しなかったもんですが、今度はそれを非常に制限した……それでいて非常に家庭的で和やかな気分であったことは最大の成果であったと思うんです」。

 「…大休止をして指定した時間に遅れてのこのこ谷底から上がってきた二〜三人の連中が班長からひどく叱られて、傍から見ていて気の毒でしたが、しかし非常に悪かったことを悔いて、あとはそういったことはなかったようですね。やっぱり訓練すれば良くなるもんだということを如実に物語っておったと思います」。
 「はじめは非常に厳格にやろうじゃないかと、泉さん(泉靖一)、飯山さん(飯山達雄)なんかのお話であったんです。それではじめからきちんとやらんといかんというのでだんだん見ておりますと、やかましくいわなくても相当几帳面になってきまして、おしまい頃には非常に几帳面になったようです……」。
 「京城出発の時はちょうど釜山行きの列車が到着しておりました。私たちの乗る列車の客が自分の席を取ろうとして我先にと走っていく中を、号令一下全員整列してスキーを肩に背負い、二列縦隊になって長いホームを堂々隊伍を組んで歩いていったあの情景は、釜山行きの乗客も眺めていたことですが、少なくとも当時の一般乗客に何物か示唆を与えたもんじゃなかったかと思うんです」。

 「今度の訓練について一番考えられましたのは、集まって、列車に乗り込んで、滑って寝て起きて、列車に乗って帰って来るーそこまでを区切りをつけずにはじめから終わりまでを一つの訓練というように一貫したものをやっていくこと、細かい技もありましょうが、その他の点で非常に有効であると同時に、本当に練成の目的を達すると同時に、実際においてもあまり混雑をきたさないとかなんとかいうことじゃないかと思うんです」。
 「団体行動としての規範があったでしょうが、それをひとつ」。
 「出発してから帰るまですべて行軍であるという観点から、乗り物は列車による行軍である。毘盧峰のてっぺんまでは徒歩行軍である。その先はスキーによる行軍であるーそういうふうにして帰りはまた汽車による行軍であるといった具合に、一貫した規律を律して行こうというのが着眼であったんです」。

 「こういう時局下、あらゆるものが非常な国家目的に向かって真剣になって働いているわけですから、そして現在の能力を維持するためには、楽しみながら行なえる訓練の方法が絶対有効だと思いますね……」。
 「……訓練をやる場合に、いままでのように訓練の講習会を時間的にするというんでは無しに、講習会が始まったなら解散するまでー終わりなしに、とにかく一つの規律の中に一貫してやるとそれが一番いいじゃないかということが、今回の練成会を通じてよくわかったような気がするんですね」。

 まさに現在の北朝鮮もかくやと思われる『スキーツアー』です。軍隊と変わらないような規律正しい団体行動・体位向上を目的としたこんなツアーに参加したら、息苦しさを通り越して窒息してしまいそうです。しかも「非常に家庭的な和やかな気分」であったと言う人がいるのですから本当、そんな人の気が知れません……この頃になると物資の不足が出版物の紙質に顕著な影響を与え始めており、保存も難しいようでボロボロな資料が多くなります。内容が掛け声高く勇ましく、かつ狂信的になるに従って、質の悪い貧相な出版になっていくのを見ると、まさに日本が追いつめられていく経過を見るようでいたたまれない気分になります。

 その他、戦時中の金剛山団体観光についてはほとんど資料が残っていません。しかし1941年秋には国民総力朝鮮連盟という団体が金剛山にて、従来の軽佻浮薄な鍛錬会とその趣を異とする、禊を第一とし何事も工夫創作による『禊の会』という鍛錬会を催しており、従来の軽佻浮薄な鍛錬会とその趣を異とするという気合の入りまくった言葉からも、やはり規律正しい団体行動・体位向上を図り、戦争完遂に役立てる目的であったことは間違いのないところでしょう。

金剛山冬の時代

 実際の金剛山観光ですが、1941年の段階では6月初め〜10月末の内金剛・外金剛へ向かう観光用直通寝台車の運行は行なわれていました。1942年になるとよくわからないのですが、どうも運行が休止されたように思われます。ただ、1942年頃までは絵はがきや写真集など金剛山で購入したおみやげ物の資料が見られるので、まだこの頃は金剛山に観光客の姿が見られたのだと思われます。
 1942年1月1日、金剛山電気鉄道株式会社は戦時下の電力統制政策のために、京城電気に吸収合併されます。以後京城電気金剛山線として運行を続けていたのですが、1944(昭和19)年10月1日、昌道より内金剛までの49.0キロが運行休止となり、区間のレールは撤去の上、供出されることとなりました。これは昌道より内金剛までの区間は戦争遂行上、影響が少ないと判断されたためで、供出されたレール等は国鉄(朝鮮国有鉄道)の新設の線路に転用されました。第二次世界大戦末期の物資不足の中での出来事です。
 昌道ー内金剛間はほぼ純粋に金剛山観光のために鉄道を引いた地域であり、これはまさに金剛山観光の死亡宣告に等しい出来事でした。

 戦時体制は観光ばかりではありませんでした。もともと金剛山は鉱物資源に恵まれていたが、鉱石採掘が著しく風致を乱すために、基本的に金剛山中に新たに鉱山を開くことは認められませんでした。しかし戦争が激しさを増す中で金剛山中では鉱石の盗掘が再び盛んになり、また鉱山を開きたいとの申請も数多く挙げられるようになりました。結局、戦争遂行のために資源が喉から手が出るほど欲しかった当局は、鉱山開発を地域を指定して認めることになり、金剛山中に鉱山が開かれることとなりました。
 1944年12月号の文化朝鮮誌上には、「金剛山名林も征く」と題した記事が載っています。読むと金剛山は風致を守るために保護され続けた名林があり、特に内金剛の長安寺付近には美しい林が広がっているが、その長安寺の寺刹林が決戦兵器資材として伐採されることになっという」。
 「仁川造兵廠の命によって東亜林業がいよいよそれに斧を入れ、決戦兵器となって遠からず決戦場に見える訳だが、米英撃滅のために躊躇なく供出の申し出に応じた長安寺の住持、宮本龍陰氏の至誠が称揚されている」。木材がいったいどのような“決戦兵器”となるのかちょっと想像がつきませんが、とにかく戦争のために金剛山の木まで切り倒されることになったのです。

 またこの時代、金剛山山頂の毘盧峰に神社を造営して、『日本精神的霊場』にしようとの話まで飛び出すようになります。しかしさすがに金剛山の山頂に神社が建立されることはなかったようです。

芥川賞受賞作『登攀』

 この時期金剛山を紹介した文献で忘れることが出来ないのが、昭和19年度後期の芥川賞に選ばれた小説『登攀』です。登攀は1944年2月、朝鮮総督府の後援で発行されていた雑誌『国民文学』で発表された小説で、芥川賞に選ばれただけあって、戦前の日本人が金剛山を描いた多くの紀行文などの文芸作品の中でも一番の傑作と言えると思います。
 登攀は元山の中学校を舞台として、日本が戦争への道を突き進み、『内鮮一体』のスローガンが声高に唱えられていた時代を背景に、厳しい家庭環境の中で朝鮮人として生きようか、日本人となって生きようかを真剣に悩む、一朝鮮人生徒壽然と、担任教師北原との心の触れ合いを描いた小説です。
 作品中の教師北原は、もともと左翼運動に参加していたが放浪生活の中で転向し、植民地朝鮮で教師をする設定になっています。これは作者、小尾十三の半生とよく一致していて、登攀は作者の自伝的色彩の強い小説と言えます。
 この小説のクライマックスは金剛山の世尊峰です。秋のある日、北原に誘われて壽然は金剛山へ登山に行きます。迷える青年壽然の心は、季節はずれの雪嵐が荒れ狂う中、共に頂きを極めた金剛山の世尊峰で熱血教師の北原の心と見事に触れ合うことになります。
 しかし、小説内のあちこちに『八紘一宇』などの日本の軍国主義イデオロギーの文字が躍り、壽然に『我もまた日本人なり』と言わしめるなど、当時の国家スローガンの宣伝という面もまた強い小説でした。熱血教師と多感な生徒との心の触れ合いの物語は、一方では内鮮一体の格好の宣伝材料ともなっていたのです。
 登攀には悩める青年壽然の姿とともに、教師北原の悩める姿も描き出されています。壽然の姿は日本人となろうとしてもどうしてもなり切れぬ葛藤だとすれば、北原の悩みは植民地の支配者としての日本人が、どのように朝鮮人に相対していけばよいかの悩みでした。作者小尾十三としては、朝鮮人は日本人として生きていくべきだとの前提でこの小説を書いたのは疑いないのですが、壽然と北原の姿には、作者の意図を超え、当時朝鮮半島に生活していた朝鮮人、そして日本人の姿が描き出されているのも事実で、なかなか評価の難しい小説だと思います。
 実はこの登攀、戦前に3回、そして戦後は2回の都合5回も書き換えられているのです。最初から数えると6種類の登攀があることになります。戦前と戦後の登攀に大きな違いがあるのはもちろんですが、戦前の書き換えもかなり重要な違いが見られます。自伝的作品である登攀は、作者小尾十三としても生涯強い愛着を抱きつづけており、そのために幾度となく作品に手を加えることになった面もありますが、書き換えが繰り返された最大の理由は、戦前は朝鮮総督府などからの強い圧力であり、戦後は敗戦による価値観の劇的な変化に影響されたためです。登攀という作品は激動の時代に激しく翻弄されたのです。

 1944年発表の登攀は、日本植民地時代最後の金剛山資料とも言えます。金剛山の運命もまた登攀と同じく、歴史の流れに激しく翻弄されていくことになります。



(注1)1943年に朝鮮山岳会が発行した白頭山・金剛山など朝鮮半島の山々の写真集。著者は戦前は朝鮮の登山やスキー、戦後は探検家として名を馳せた飯山達雄氏で、奥付には非売品と書かれています。写真集の紙質などにはやや難があるものの、1943年という時代を考えれば、よくこれだけ充実したものが出来たなあ〜と思われるほど力が入った良い写真集で、戦前の朝鮮半島の山々について知ることのできる貴重な資料です。また全巻の中で8割以上が現在の北朝鮮地域の山で、韓国側は雪嶽山・智異山・済州島(漢拏山)が少し紹介されているだけです。南北分断前の本なので、これは飯山氏が純粋に北朝鮮側の山は韓国側の何倍何倍も紹介されるべき価値があると判断したということになります。本当、早く北朝鮮側の山々に自由に行ける日がやってきてもらいたいものです。

(注2)『観光朝鮮』は、日本旅行協会朝鮮支部が1939年に創刊した雑誌。最初の頃は観光雑誌らしく朝鮮半島各地の観光情報を広報する雑誌でしたが、1941年には『文化朝鮮』と題名を変更した後は、徐々に朝鮮総督府の政策を広報する広報雑誌に近い内容になってしまいました。雑誌としてはかなり力を入れて作ったものと思われ、記事の投稿者を見ると小林秀雄・壺井栄・安倍能成など、当時の著名文化人の名が多く見られます。また広告も充実していて、観光雑誌時代は朝鮮半島各地の旅館などの広告が興味深いし、広報雑誌化した後も戦争中の力が入りすぎたスローガン付きの広告など、色々と楽しめる雑誌です。

(注2)戦後の飯山達雄氏の著書『北朝鮮の山』、やはり戦後の泉靖一氏著書の『遥かな山々』を読むとこのあたりの経緯がよくわかります。朝鮮半島各地で活発な登山・スキー活動を繰り広げていた両氏は、金剛山に関していえばスキーと外金剛集仙峰のロッククライミングを広く普及させました。ちなみに『北朝鮮の山』にも『遥かな山々』にも、銀嶺練成会についてはひとことも触れられていません。




参考文献

観光朝鮮(1939・第一巻二号)
文化朝鮮(1941:第三巻一号、第三巻二号、第三巻四号、第三巻六号・1942:第四巻一号、第四巻二号、第四巻三号、第四巻四号・1944:第六巻四号)
朝鮮の山(1943・飯山達雄著・朝鮮山岳会)
登攀(1944・小尾十三著・国民文学・文芸春秋)
遥かな山やま(1971・泉靖一著・新潮社)
北朝鮮の山(1995・飯山達雄編・国書刊行会)



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