北朝鮮時代の金剛山

(2004・9・26 最終加筆)


 北朝鮮時代の金剛山……これはなかなか難題です。いったい金剛山はどうなっていったのか……とにかく資料がありません。勢い、乏しい資料と状況証拠と伝聞で、北朝鮮時代の金剛山が果たしてどのような状態であったのか、話を進めるほかなくなります。
 1945年の日本の敗戦後、38度線以北の金剛山は北朝鮮側に属することになりました。1947年9月に金日成氏とその妻、金正淑氏が金剛山地区を訪れたようです。三日浦では金日成・金正淑両氏が正確な射撃の腕前を披露し、九竜の滝コース入り口あたりで炊事をして、また万物相にも登ったようです。また1948年夏には金正日氏も広義の金剛山地区南端とされる花津浦にある、金日成氏の別荘に滞在して海水浴を楽しんだりしています。どうも金剛山は北朝鮮領になった当初から、高位層の保養所があった可能性がありそうです。

 1950年から53年にかけての朝鮮戦争下、金剛山は戦火に巻き込まれます。特に1951年から53年の停戦までの間は、金剛山のすぐ南、金剛山の主稜線の南方にある1211高地や、海金剛地区に入れることが多い湖、鑑湖(カムホ)の近くにある351高地などで、激しい塹壕戦が長時間に渡って繰り広げられました。また戦略物資輸送や人員輸送のために、険しい万物相そばを通り温井嶺を超えて内金剛と外金剛を結ぶルートや、温井里(金剛山旅館裏手)から峠(極楽峠)を越えて神渓寺方面に抜けるルートなどが突貫工事で整備され、温井嶺のことを英雄峠、極楽峠のことを援護峠とも呼ぶようになったといいます。
 朝鮮戦争はまた、金剛山にあった史跡に大きな被害をもたらしました。金剛山四大寺と呼ばれていた内金剛の長安寺・表訓寺、外金剛の神渓寺、新金剛の楡岾寺のうち、戦火を免れたのは表訓寺だけでした。また、外金剛の神渓寺は1945年以降は博物館となっていたのですが、博物館収蔵の文化財も全て灰塵と化してしまったそうです。

 朝鮮戦争停戦後、金剛山地区のすぐ南には南北の軍事境界線が引かれることとなりました。それから金剛山地区がどのように変わっていったのか、はっきりしたことはわかりません。そんな中で外金剛・温井里に1958年に金剛山旅館が作られたことが明らかになっています。金剛山旅館は全7棟、メインの建物である第1棟は12階建ての240室あるホテルで、噂では在日朝鮮人の協力で建てられたとの話があります。実際、1984年に北朝鮮で発行された、『金剛山の歴史と文化』では、現在の金剛山旅館の場所に『在日本朝鮮人観光旅館』があると記されており、7棟ある金剛山旅館の一部は、もともと在日朝鮮人が建設した可能性はかなり高そうです。
 そして金剛山旅館建設の頃であると考えられるのですが、日本統治下には金剛山ふもとの温泉場として多くの旅館・みやげ物店が軒を連ねて栄えていたという温井里に住んでいた人々が追い出され、地元住民が去った後には朝鮮労働党や北朝鮮政府の高官、更には外国人などが宿泊するホテル・保養所が立ち並ぶようになった可能性が高いです。温井里を追われた人の多くは、日本統治下に養珍里と呼ばれた、旧東海北部線外金剛駅の近くに移ったと思われ、その場所が現在の『温井里』となりました。
 また、一般人の立ち入りが制限された場所が出来たのは、内金剛も同じである可能性が高いです。日本植民地時代に避暑地として旅館やホテルが立ち並んでいた長安寺付近は、現在立ち入りが制限されているようです。高級幹部が保養をして外国人観光客が観光する場所となった金剛山……なんとその頃には金剛山自体が北朝鮮の一般の人たちの立ち入りが制限される場所となったとの説もあります。
 実際、金剛山旅館のそばに金剛山温泉の建物がありますが、金剛山を旅行した人に聞いてみると金剛山温泉は朝鮮人用の建物と外国人用の建物に分けられていて、外国人観光客は外国人用の建物内にある、家族風呂のようなところで入浴することになっていました。また、朝鮮人用の金剛山温泉に入浴しに来る人はというと、道で出会う北朝鮮の人々よりも明らかに身なりが良く、温井里の保養所に休養に来た高位層の人と思われたとのことでした。ところで北朝鮮時代の金剛山温泉も日本植民地時代の温泉と同じく、底に敷き詰められた丸石の間から温泉が湧き出ている形の、完全かけ流し温泉でした。

 素晴らしい観光資源に恵まれた金剛山は北朝鮮を訪れる外国人観光客を魅了しつづけていましたが、北朝鮮を訪れる観光客自体が限られた状態の中、多くの北朝鮮国民自体にとっても遠い存在となってしまった金剛山は、交通機関が不便であった18世紀半ば以前のように、多くの人から閉ざされた遠い土地となっていきました。

 『金剛山の歴史と文化』によれば、金剛山地区の観光開発は北朝鮮時代も少しづつ行なわれていたようです。観光施設の整備は日本植民地時代から金剛山観光の中心地であった、外金剛の万物相・九竜淵、内金剛の万瀑洞で進められたようです。観光施設は金剛山旅館が建設された1958年に始まり、1980年代までに観光コース内の橋や休憩所の整備がされたようです。
 観光施設の整備以上に熱を入れたのは、金日成とその妻である金正淑と、息子である金正日の金剛山訪問を記念した記念碑の建立や、岩に各種政治スローガンを刻むことでした。1975年には温井里に『金剛山革命事績館』が出来たのを始め、1970年代には金一族を誉めた称えた各種の記念碑や岩に刻まれた文字が多く作られたようです。これは金正日氏の後継体制の確立に向けて、宣伝顕彰事業に力を入れていたことの現れでしょうか?


 1980年代となって、北朝鮮の経済が徐々に不振の色が濃くなってくると、北朝鮮統治下、事実上手付かずのまま放置されていた金剛山の観光資源が北朝鮮国内で注目されるようになってきました。この記事によると1981年に初めて金日成氏は、金剛山地区を開発して外国人観光客を誘致しようと提案し、1989年の11月には更に具体的な金剛山開発計画をぶちあげたようです。山河の絶景に加え海金剛の絶景や温泉まで楽しめる金剛山は、国の内外を問わず、多くの観光客を呼ぶことができる観光資源であることは言うまでもありません。“金剛山に外国から多くの観光客を呼び、外貨を稼ごう!”閉鎖的な北朝鮮社会にとって最初は雲を掴むような話であったこのようなもくろみが、1990年代前後には次第に具体的な形をなしてきます。それは意外なことに、北朝鮮と厳しく敵対していた韓国の資本を導入して金剛山観光開発を進めるという方法だったのです。


さて、乏しい資料の中、北朝鮮統治下に作られた金剛山観光施設を見てみましょう。

 北朝鮮での金剛山観光、そして今現在行われている韓国からの金剛山観光でも、金剛山観光の拠点は外金剛・温井里です。日本植民地下の金剛山観光では、1931年の金剛山電気鉄道全通後はどちらかといえば内金剛・長安寺が金剛山観光の拠点であったことを考えると、時代情勢の変化と言えると思います。
 温井里は北朝鮮有数の都市、元山からの交通の便が比較的良く、韓国側からの海路・陸路からもアクセスしやすい場所にあることが金剛山観光の拠点となった大きな原因と考えられます。私見ですが温井里にはとても良い温泉がある上に海金剛とのアクセスも良いため、これからも金剛山観光の拠点は温井里に置かれるようになるのではないでしょうか?
 北朝鮮の作った金剛山観光施設は少なく、のりまきが確認できる施設は以下のようなものです。カッコ内の施設は所在するかどうか不明確な観光施設です。


(外金剛)
温井里:金剛山旅館:1958年建設・12階建て240室(注1)
     温井ホテル:現温井里集落のはずれにある。
     金正淑保養所:韓国現代グループが建てた『温井閣』のとなりにある保養所
     金剛山温泉:金剛山旅館の近くにある温泉外湯。朝鮮人用と外国人用に分かれている。
     (金剛山ホテル:金剛山旅館ないし温井ホテルと同一施設の可能性がある(注2)。
               もし別施設の場合、温井川を挟んで金剛山旅館の対岸付近にあると推察される)
     その他、かなりの保養施設がある。
九竜淵地区:モンラン館(木蘭館):九竜の滝コース入り口にあるレストラン(注1)

(海金剛)
三日浦地区:タンブン館(丹楓館):三日浦湖畔に建つレストラン(注1)

(内金剛)
内金剛休養所:日本統治下、外金剛山荘があったあたりにあると見られる。

(山小屋)
毘盧峰宿泊所:金剛山最高峰:毘盧峰近くにあると見られる山小屋。
         日本統治下にあった久米山荘との関連は不明。
玉永浦宿泊所:玉永の滝(朝陽の滝)近くにあるようだ。

広義の金剛山地区
(侍中湖)
侍中閣:3階建てホテル、20室
侍中湖休憩所:元山ー金剛山地区の道路の途中にある休憩所。
侍中湖療養所:侍中湖湖底にたまっている泥を利用した、鉱泥治療を行う療養所。


北朝鮮時代の金剛山、第二部に続く
第二部では、主に北朝鮮の宣伝雑誌で紹介された金剛山の様子を紹介します。



注1:金剛山旅館の客室は213室と書かれた資料もあります。ちなみに金剛山旅館は7棟の建物で構成されていて、12階建てのメインの建物以外の6棟の建物は3〜5階建てとのことです。ところで、1971年刊行のアサヒグラフの記事によると、『金剛山ホテルは3階建て』と書かれていて、また、1981年刊行の『金剛山』の写真からも、現在、金剛山旅館のメインとなっている12階建ての建物は、比較的最近になって建設されたものと思われます。
 ところで金剛山旅館内にはフロント・談話室・室内プール・本屋・映写室・レストラン・大宴会場・みやげ物屋……などの施設があり、ちなみに金剛山旅館レストランの名物料理は、東海(日本海)の新鮮な海の幸を使った料理・熱した石の上で焼く焼き肉・冷麺・チヂミだったそうです。
また、モンラン(木蘭)館・タンブン(丹楓)館とも、金剛山旅館のレストランの支店であるとのことです。モンラン(木蘭)館・タンブン(丹楓)館とも景勝地に建てられた瀟洒な建物なのですが、韓国側からの金剛山観光が始まった1998年から休業してしまいました、しかし2003年夏季から木蘭館は九竜淵コースの観光客の昼食場所として“復活”しました。また2003年夏季以降、金剛山旅館隣のレストラン『金剛苑』も、金剛山観光客のために利用されています。そして金剛山旅館も修復が終わり、2004年7月より金剛山観光客が宿泊できるようになりました。

注2:また、金剛山旅館と金剛山ホテルについてですが、同じ建物のことを指しているとも考えられますが、北朝鮮の発行した金剛山写真集を見ると『金剛山旅館』と『金剛山ホテル』は、それぞれ別の建物と考えられるものが紹介されていて、『金剛山ホテル』が温井川北側のにあるように紹介されている資料があることを考え合わせると、金剛山旅館と金剛山ホテルが別の建物である可能性もかなり高いのではないかと思われる。温井ホテルも温井川の北側にありますが、建物の形が北朝鮮の金剛山写真集で紹介されている金剛山ホテルとは少々違う可能性が高い。


参考文献
〜日本語文献〜
朝鮮観光案内(1992年・朝鮮新報社出版事業部)・朝鮮観光案内(1991年・外国文出版社)・朝鮮観光(チュチェ86【1997】年・国家観光総局)・朝鮮観光地図帖(1995年・朝鮮国際旅行社)・金剛山探勝コース図(昭和14【1939】年・財団法人金剛山協会)・金剛山(1981年・外国文出版社)・アサヒグラフ 1971年12月31日号(1971年・朝日新聞社)・白頭山登頂記(1987年・朝日新聞社)
〜韓国・朝鮮語文献〜
金剛山の歴史と文化(1984年・科学百科事典出版社)・金剛山(1991年・朝鮮画報社)・金剛山(1998年・韓国・中央地図文化社)・朝鮮地図帳(1997・教育図書出版社)
〜英語文献〜
MT.KUMGANG(発行年不明・観光宣伝通報社)


楓嶽の巻へ戻る

金剛一万二千峰へ戻る

のりまき・ふとまきホームへ戻る