北朝鮮時代の金剛山
第二部



 北朝鮮時代の金剛山・第二部では、北朝鮮の宣伝雑誌『今日の朝鮮』などで紹介された、北朝鮮時代の金剛山について紹介していきます。
 日本向け北朝鮮宣伝雑誌は、誌名の変更がありながらこれまで継続的に発行されつづけているようです。私が把握している限り

新しい朝鮮(1957・3−1958・12)
きょうの朝鮮(1959・1−1963・12)
今日の朝鮮(1964・1−1970・12)
きょうのチョソン(1970・1−1981・3)
などがあります。

 それら宣伝雑誌を読んでいくと、発行形態や編集方針がその時々でかなり変化があることに気づきます。軍事的緊張が高い時期には紙面が軍事色一色になっていたり、時代が下るにしたがって金日成氏を狂信的に称えるようになっていく論調の変化、記事の内容でも、例えば拉致被害者である曽我ひとみさんの夫である、ジェンキンス氏の北朝鮮『亡命』時の記録なども掲載されていたりして、なかなか興味深い文献です。
 特に1960年前後の号は、在日朝鮮人とその日本人配偶者たちの『北朝鮮帰国』特集号のようになっており、帰国直後の希望に満ちた発言が並んでいて、その後、多くの帰国者を襲うことになる酷薄な運命を思うと、読み進めるのがつらくなっていきます。
 ここでは、上記雑誌から探し出した金剛山関連の記事を紹介し、その上で最近再刊されて話題の、最初の北朝鮮の内情暴露本である関貴星氏の『楽園の夢破れて』には、金剛山の様子を捉えた貴重な証言がありますので、それらの文献から見えてくる北朝鮮時代の金剛山の様子を紹介したいと思います。


北朝鮮時代の金剛山観光について

 金剛山は北朝鮮の宣伝雑誌の中では、多くの場合名所案内などで紹介されていました。しかし名所案内として金剛山が紹介されている回数は、意外なことにあまり多くありません。しっかりとした統計を取ったわけではないのですが、私の見る限り、温泉場として知られている朱乙温泉や、元山の松濤園などの紹介記事の方が多い上に内容も充実していました。金剛山自体は雑誌の表紙や裏表紙を金剛山の美しい風景が飾るなど、写真はかなり頻繁に使われています。日本植民地時代は半島一の観光地であり、雑誌の表紙を飾ることも多い金剛山が、記事としてはあまり紹介されることがないというのも解せない話です。
 金剛山の紹介記事を見ると、まずは判で押したような内容が目立ちます。少々長くなりますが、金剛山の状況を述べた文章の引用をしてみます。

きょうの朝鮮・1960年10月号・郷土紹介江原道より
 こんにち金剛山には、各種のキャンプ施設、休養所、探勝団施設(職業同盟が組織する労働者の探勝団を収容する施設)などがあり、また、外国の観光客のための「国際ホテル」が設けられている。
 9・10月の紅葉の季節には、1年間の外国人観光客数の60パーセントが訪れてくるというが、筆者が「国際ホテル」に立ち寄った7月中旬にも多くの外国人が泊っていた。かれらのなかには、社会主義諸国の人々はもちろん、フランス・カメルーン・イタリア・オーストリア・ベルギー・インド・イラク・セネガル・西ドイツなどから来た客もまざっていた。

今日の朝鮮・1964年7月号・朝鮮の観光地より
 元山から東海の海辺づたいに4時間ほど自動車を走らせると、天下の絶景といわれる金剛山の奇岩怪石があらわれます。まず外金剛ホテルで旅装を解いてから、いよいよ金剛山の探勝に入るわけです。金剛山は大きく外金剛、内金剛、海金剛と東西40キロ以上の幅でのびていますから、これを三日間で全部探勝するわけにはゆきません。
 三日間の日程としては次のコースをとるのが一般的です。
 第一日はホテルのある温泉郷、温井里から神渓寺跡をすぎて玉流洞、連珠潭の清い潭水や身も心も清められるかと思われる盤石、玉流を見、はるか絶壁から流れおちる九竜淵の壮快さを味わってホテルに戻ります。
 第二日は温井里から奇岩が千態万象、万物の相をなしている万物相の一大奇観をみて玉女峰を回り温井里に帰りつきます。
 第三日は温井里発、三日浦の絶景を見て、海岸に崖がつらなり、海中に奇岩怪石が散在して幽玄かつ壮快な海金剛を見ます。

きょうのチョソン・1974年4月号・美しいチョソン:金剛山より
 このように美しいクムガン山も、解放まえは日本の侵略者とそのかいらい一味の遊興地にすぎず、勤労人民は見物すらできなかった……主席は解放後、クムガン山を遊園地に、文化休養地に築くように指導し、配慮をめぐらした。主席は多忙な時間をさいてわざわざクムガン山に出向き、人民がクムガン山を十分に利用できるよう具体的にみちびいた。こうしてクムガン山の自然と文化遺物は、いっそう美しくりっぱにととのえられ、ウェクムガン休養所をはじめ、数多くの休養所や遊園地が建設された。またハイキングコースもよく整備され、名実ともに勤労者の文化的な休息地に、探勝地になった。

きょうのチョソン・1975年11月号・美しいチョソン:九竜瀑布より
 昨年8月、ふたたびクムガン山を訪れた敬愛するキム・イルソン主席は、自然のおりなす絶妙の景色にみとれながら、クムガン山を人民のクムガン山にさらに輝かしめなければならないとのべた。こんにちクリョン瀑布は、わが国の他の名勝地とともに、勤労者の休息所としてととのえられており、ここを訪れる人々を社会主義大建設戦闘に力強くふるいたたせている。

きょうのチョソン・1977年3月号・美しいチョソン:三日浦より
 主席は多忙な時間をさき、新しい生活造りのスタートを切った勤労者たちの幸福を願って三日浦に勤労者の文化休養所を築くように指導したのである。解放前には搾取者たちの行楽地であった三日浦はこの時から人民の楽園になった。

きょうのチョソン・1978年12月号・美しいチョソン:外金剛温泉より
 敬愛する金日成主席の配慮によって温泉周辺には休養所・ホテルなどが建てられ、多くの探勝客が外金剛温泉で憩いのひとときをすごす。


また、アサヒグラフ1971年12月31日号には、金剛山の訪問記録が載っています。
情報の少ない北朝鮮時代の金剛山の貴重な記録であるのと同時に、興味深い記述も多いので、少し長くなりますが記事を抜粋して載せます。

アサヒグラフ1971年12月31日号
 元山から車で金剛山へ向かう……途中で鉄道工事とぶつかった。かつて東海岸にそって一本の鉄道が通じていた、それが朝鮮戦争での空襲と艦砲射撃とで完全に破壊されたと聞いた。
 ガイシのついた鉄条網が張りめぐらされた砂浜を見、海に向けて銃眼のあいたトーチカのある山を越えて、まず行き着いたのが高城港。ここから50トンほどの漁船に乗り、海に出た。約30分も揺られていくと、大ナタで削ったような暗褐色の荒っぽい岩が海中から立ち上がっていた…チョンソクチョン(叢石亭)である。チョンソクチョンでは「山の上の建物の写真は撮らないで下さい」。と言われた……約一時間半の舟遊びの後、高城水産企業所の支配人から、ブリのプレゼントを受けた。
 高城から再び車に乗り、海を離れて山に入る……着いたのが金剛山ホテル。3階建てのホテルの客は、相撲取りのような立派な体形でのし歩くソ連の婦人たち、赤地に金色の毛沢東バッチを胸に着けた人民服姿の中国人、パンタロンの東ドイツのマダム、そして携帯のラジオのボリュームをいっぱいにジャズをかけているハンガリーの青年。金剛山は社会主義圏の国際観光地でもある。
 ホテルのわきには温泉があり、ホテルの客だけでなく、夕方になると地元の農民、人民軍兵士が湯をつかいにきていた。つかると肌がつるつるにになるきれいな湯だった。その夜、食卓にはわらびやマツタケ、まんじゅう汁とともに、ブリの刺身がのった。
 翌日は三日浦に行った。三日浦では休暇の労働者たちがボートに乗り、中学生たちが遊覧船に乗っていた……「夢泉寺」という寺の跡があった。この寺は日本の朝鮮支配の初期に起こった抗日闘争のひとつである義兵運動の拠点だとして、「日帝」が焼き払ったのだという。また、三日浦からは朝鮮戦争激戦地の351高地や、1967年1月19日に『敵のフリゲート艦56号』を撃沈した海金剛などが見えた……
 九竜の滝では、日本製のカメラを下げた人民軍の兵士が記念写真を撮り、若い女子教員に引率された元山の中学生が滝つぼに帽子を落として騒いでいた。そして八潭を見るために、鉄製の階段と鎖を頼りにして約1時間登った。
 山のふもとに神渓寺という寺の跡があった。朝鮮戦争時、アメリカの爆撃を受け、塔しか残っていなかった……古い文化遺産である長安寺も破壊されたままだと聞いた。そして案内人の青年が言った。「金剛山の一番の見せ場は内金剛なのです。しかし内金剛は前線なんです。統一の日が来るまで、観光コースとしては開放できないのが残念です」。


ところで、1960年9月1〜4日に金剛山を訪れた関貴星氏は、当時の金剛山について次のように書いています。

楽園の夢破れて・関貴星氏著より(全貌社・1962年刊行)
 われわれ一行は金剛山で三日間の休養を取ることになった。
 「新しい朝鮮」という雑誌とか、当局の説明では、北朝鮮の労働者は一年に二十日の有給休暇が与えられ、交替でこの金剛山で休息をとる、とのことであった。
 烈しい生産闘争に疲労した労働者が、有給休暇をもらって休養する金剛山はどんなところか。どんな施設があるか。労働者はどうしているか―。そんな期待をもって出かけた私は、現地の三日浦、万物相、九竜淵と三日間にわたって探勝してまわったが、私たちが出あったものは、中国青年団の一行だけで、朝鮮人の労働者どころか、ただ一人の休養客すら見かけなかった。
 これは一体どうしたことか、金剛山休養所は外国の賓客接待用と党、政府の上層部だけの専用であって、働く人民のものではなかった。
 私は善意に想像しながらも、その原因について考えていた。
 しかしわれわれに対するもてなしは、まったく馬鹿気たほど至れり尽くせりであった。毎夜珍味佳肴で酒食の饗応を受け、腹ふくれれば食堂の女同志と手に手をとってスケャダンスに興ずる、といった具合で、目をふさいで先方のなすままにまかせていれば、やがて腑抜けになりかねないほどの待遇であった。
 しかし私は見た。金剛山の宿舎での一夜、食堂の一隅で白い詰襟服の同胞がぼそぼそと夕食しているのを。彼の前には一杯の丼めしと二品の粗末な副食しかなかった。それは私の常識外の食事で、日本風にいえば沢庵二切れと菜っ葉の味噌汁だけといったふうのものであった。
 その男の身分や職位は旅行者の私にはわからない。しかし金剛山で最もいいホテルの食堂の夕食がこれである。


〜上記の資料のまとめ〜

 これら記事からわかることとして、1960年代から金剛山観光は温井里を拠点として、九竜淵・万物相・三日浦・海金剛を探勝する形で行なわれていたことがわかります。北朝鮮の文献と関氏の記述で唯一、一致が見られる部分なので、この部分は真実であると判断して問題ないと考えられます。アサヒグラフの記事には叢石亭に行った記述がありますが、北朝鮮時代に叢石亭を見た記録はほとんどなく、大変に貴重なものです。
 金剛山の探勝地が九竜淵・万物相・三日浦・海金剛であるということは、1980年代末から行なわれていた、日本からの北朝鮮観光での金剛山の探勝地と一緒ですし、さらに言うならば現在行なわれている韓国からの金剛山観光での探勝地とも一緒です。つまり北朝鮮時代以降、金剛山の探勝地は外金剛の九竜淵・万物相、そして海金剛の三日浦・海金剛であり、日本植民地時代にもてはやされた内金剛の万瀑洞などは、全くといって良いほど紹介されていません。内金剛が紹介されないのには、何らかの理由があるものと思われます。アサヒグラフの文には『内金剛は前線だから』と説明されていますが、この説明には大きな疑問があります。なぜなら軍事境界線からの距離は、三日浦や九竜淵などに較べて内金剛はかなり遠くになるからです。内金剛が紹介されない理由は単に軍事境界線が近い『前線』であるという理由ではないはずです。
 また温井里のホテルとは、1958年建設の『金剛山旅館』のことと思われます。アサヒグラフの記事では3回建てとなっていて、現在の12回建ての建物はその後増築されたものなのでしょう。

 北朝鮮の文献によれば、金剛山中にはどうも勤労者たちの『休養所』がたくさん建っているようです。
 北朝鮮の文献には、人民の休養所の使い方などについて時々特集が組まれています。それによると、休養所などの利用料は旅費を含めて全額国費や企業所の負担であり、工場や事務員などは主に夏〜秋にかけて、農民は農閑期である冬にこれら休養所で休暇を過ごします。また、夏季は学生たちがそれら休養施設等を用いてキャンプをするとされています。
 金剛山の休養所について直接紹介された記事は見つけられませんでしたが、『名高い景勝地、有名な鉱泉や温泉のあるところには必ずといってよいほど、勤労者の休養所などがある』。とされていて、また金剛山の紹介記事のあちらこちらに、金剛山中にある勤労者のための『休養所』が紹介されているので、北朝鮮側の主張としては金剛山には勤労者のための休養所が建ち並び、多くの人民が休養しているということになります。
 しかし、北朝鮮の文献で紹介される『休養所』の記述が判で押したかのような内容で、具体性に欠けるのに較べて、関氏の記述には具体性があり、どうも関氏の証言の方が信憑性がありそうです。ただし、北朝鮮時代の金剛山について紹介された文章の中に、『金剛山を集団で散策している人々を見かけた』等の記述を見つけることも出来ます。アサヒグラフの記事もそうですが、例えばこの文章なども、金剛山探勝をする北朝鮮人民のことが書かれています。
 外国人が行くところ全てに念入りな“細工”を施すのが北朝鮮流であるとはよく言われることです。アサヒグラフの記事の、『三日浦では休暇の労働者たちがボートに乗り、中学生たちが遊覧船に乗っていた』。とか、『日本製のカメラを下げた人民軍の兵士が記念写真を撮り…』なども不自然で、本当かなあ??やらせじゃあないのかなあ??と思ってしまいます。が、この場では100パーセントやらせだと断言も出来ません。したがって今の時点で北朝鮮時代の金剛山が人民から完全にシャットアウトされていたと断言することは困難です。この点は北朝鮮の体制が変わるなどして、『人民』の生の声を聞くことが出来る日までわからないことでしょう。
 ただし、金剛山に『勤労者のために数多くの休養所や遊園地が建設され』たり、『多くの探勝客が憩いのひとときを過ごす』等の記述が著しい誇張であることは間違いのないところです。これは金剛山に建つ建物の様子やそもそも金剛山へのインフラを考えれば一目瞭然です。とても北朝鮮各地の大勢の『勤労者』を受け入れる施設が金剛山にあるとは思われず、だいたい金剛山までの交通の便を考えれば、そんなことが出来るはずもないのです。
 つまり、金剛山は関氏の言うように基本的に『外国の賓客接待用と党、政府の上層部だけの専用』であって、人民が利用することがあったとしても、地元の人々が中心であったのだと思われます。

 あと、一種金剛山の旅行記でもあるアサヒグラフの記事には@鉄道工事、A日帝が焼き払ったという「夢泉寺」…など、実に興味深い記述があります。
 鉄道工事は文脈からも地理的にも『東海北部線』の再建工事であったと見るのが妥当でしょう。しかし、それにしても大きな疑問が残ります。北朝鮮の報道では東海北部線の再建工事は、結局1997年4月15日に『金剛山青年線』の完成という形で実を結んだとされています。1971年の工事が鉄道工事ならば、26年間も工事していたのでしょうか??それとも鉄道工事は中断を繰り返していたのでしょうか??はたまた本当は鉄道工事ではなかったのではないでしょうか??
 夢泉寺については、このホームページの記事を見る限り、『日帝が焼き払った』との言い分は全く事実に反することのようです。ちなみに日本植民地時代の地図には三日浦のほとりに『夢泉庵址』という記述が見えます。夢泉寺については更に文献を当たってみたいと思います。


北朝鮮芸術作品に取り上げられた金剛山

 金剛山関連でユニークな記事としては、金剛山を舞台とした映画や演劇が紹介されていました。映画作品としては『温井嶺』、演劇としては『金剛山のうた』が紹介されていました。なかなか興味深いあらすじなので、紹介したいと思います。

『温井嶺』のあらすじ(今日の朝鮮・1966年7月号より)
 ブルトーザーの運転手を勤めながら美術大学の夜間部に通うキム・インソクは、谷川で絵を描いていた時に偶然、美しい娘、チョンスクに出会いました。キム・インソクはチョンスクをモデルにして、大学の卒業制作を仕上げるますが、大学の卒業制作審査員から『美しく上手い作品だが、個性も性格も何一つ描かれていない絵画だ』。と、厳しい批評を受けますた。
 失意のキム・インソクは、かつて朝鮮戦争の時に連絡兵として戦った、思い出の金剛山麓の温井村に向かいました。キム・インソクは温井村で農場のトラクター運転手にでもなろうと思ったのだった。久しぶりに温井村に戻ってみると、アメリカ軍との戦争で荒れ果てたかつての村から様相が一変していて、山麓に建ち並んだ新しい住宅、モダンな畜舎、手入れの行き届いた田畑……温井村の不屈の農民たちによって温井村はみごとに甦っていたのだった。キム・インソクは朝鮮戦争時以来の旧知の農民たちに迎えられ、この地で一生を送ろうと決心しました。
 温井村で農民たちとともに働いているうちに、キム・インソクはかつてこの地でアメリカと戦った時に、『温井嶺での英雄的な農民の戦いの姿を描きたい!』という、かつての夢を想い出します。温井村の村民たちは、朝鮮戦争中〜後期最大の激戦地、1211高地へ向かうルート確保のために、温井嶺という険しい峠を越える自動車道路を作り、1211高地への武器や弾薬・食糧の補給をするという、重大な任務を請け負っていたのでした。農民たちは先頭に立って温井嶺の険しい山中、吹雪が吹き荒れ、敵の烈しい爆撃の中で任務を遂行していたのでした。そしてキム・インソクの当時の上官であった連隊長は、インソクの夢を知り『英雄的に戦った温井村の無名の人々のことを後世に伝えなきゃならん……』と、キム・インソクの夢を後押ししていたことも思い出します。
 そんな中、チョンスクは偶然、キム・インソクがかつて父の部下であったことと、温井嶺での戦いの中で父の身代わりとなってアメリカ軍から狙撃されたことがあることを知ります。矢も盾もたまらなくなったチョンスクは、キム・インソクを捜しに温井村に向かいますが、吹雪の中、ようやく辿り着いた温井村にキム・インソクは居ませんでした。インソクはたまたま出かけていたのでした。
 数日後、キム・インソクの夢が形となっていきました。やがて完成された絵画はピョンヤンの国立美術博物館に展示され、人民軍のある将官がインソクの絵の前で立ちすくんでいました。将官はキム・インソクのかつての上司で、彼の傍らには娘のチョンスクが立っていたのでした……

『金剛山のうた』のあらすじ(きょうのチョソン・1974年2月号より)
 まず、第一場から『キム・イルソン主席の賢明な指導のもとに社会主義の地上楽園となったクムガン村の新生活をうたう』場面です。
 第二場は『クムガン山出身の作曲家、ホヮン・ソクミンが昔、資本家が別荘を建てようとしたクムガン山の土地に小屋を建てて畑を耕したために、日本の警察に連行される』という場面の追憶になります。
 第三場は『久しぶりにクムガン山を訪れたホヮン・ソクミンが、クムガン山の変貌ぶりを目の当たりにして、新曲の構想を練る』
 それからクムガン村の人々は、ホヮン・ソクミンが作曲したミュージカルをピョンヤンの中央芸術祝典で演じることになります。ミュージカルの主演女優はなんと日本の警察によって引き裂かれたホヮン・ソクミンの娘だったのでした。劇的な父娘の再開の中、公演は大成功をおさめ、出演者たちが『すばらしい社会主義制度を築いてくれた主席に限りない感謝を捧げつつ』フィナーレを迎えます。


そして…

金剛山関連で、実にユニークな記事がありました。『金剛山と真竹』という記事です。

(注)原文は繰り返しと賞賛の言葉がくどすぎるので、のりまきが話の内容を変えない程度に要約しました。

金剛山と真竹(きょうのチョソン・1977年9月号より)
 金剛山で休暇を過ごしたリ・ヨンガン氏は、三日浦を訪れた。ヨンガン氏は三日浦のほとりでなつかしい景色を見ました……朝鮮半島南岸の出身であるヨンガン氏がかつて故郷で見慣れた景色、真竹の林でした。
 幼い頃、故郷の真竹林は全て地主の持ち物でした。ヨンガン氏たちはその竹で釣りざお一本作ることが出来ませんでした。朝鮮戦争が始まって、ヨンガン氏は朝鮮人民軍の義勇兵となり、故郷を後にしました……故郷を離れ、共和国(北朝鮮)で暮らすようになった日から30年が経ったのですが、片時も故郷の真竹を忘れたことはなかった……
 熱帯・亜熱帯などの南方系の植物である真竹(注)は、済州島や全羅道には分布しているが、北緯38度を越す金剛山には分布していないはずである……不思議に思ったリ・ヨンガン氏は真竹林の方に歩んでみました。すると峠向こうにあるという真竹事業所から来た、一人の男と出会いました。
 「ここに真竹を栽培し、金剛山一帯を美しい竹の林にしてくださったのは、キム・イルソン主席です」。真竹の林の中を歩みながら、男はそう語り出しました。
 「これまで南方の植物である真竹が、共和国で育つとは誰も信じていなかったのです。1959年のことです、キム・イルソン主席は祖国の景色をより美しく、そして竹細工をたくさん作って人民生活をより素晴らしいものにしようという考えから、主席の自宅にあった70本の竹を金剛山に移植されたのです。主席は竹を大事に育て、国中に竹林を作れと、その具体的な方法まで指示されました」。
 「主席の考え通りに真竹は金剛山にしっかりと根をおろしました。主席はそのことをことのほか喜び、金剛山ばかりではなくて江原道全体へと広げるように言われました。主席の教えは見事に実現され、金剛山だけでも数百ヘクタールの竹林ができ、江原道全域にも真竹が栽培されるようになりました」。
 リ・ヨンガン氏は、金剛山の真竹林を見ながら「祖国をより一層美しい、人民の楽園に作ろうという、主席の深い思いが秘められている」。との感想を懐くのでした。

(注)実際にはマダケは中国原産ともいわれる植物で、分布の中心は中国にあります。日本では東北地方まで分布していて、北方系の植物ではありませんが、南方系の植物とも言えないと思います。

(2003・10・19 完成)
(2003・11・22 最終加筆)




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