嵐の萬物相
(8)

好天に恵まれ、海金剛は素晴らしかった……


金剛山観光コースで見ることが出来る、海金剛南側の風景
この先の方にも絶景があるといいます……


今回の金剛山旅行でのりまきは、北朝鮮の人たちの姿を一番多く見ることができる、温井閣から海金剛までのバスの車窓から見えたものを、メモをとっておきましたので、メモに沿って書き進めていきたいと思います。
バスは8時半頃に温井閣を出発します。海金剛行きのバスの車窓からも、まず温井川で洗濯をしている人たちが見えます。それから温井里を望む小高い丘の中腹にあるトラックに載せられた砲も、晴れ渡った天候の下くっきりと見渡せます。トラックはかなりの年代物の感じです。砲は5本×2、合計10本の小さな砲が束ねられたような形をしているようです。
それから道はホテル海金剛や雪峰号の泊る、長箭湾方面の道から分かれます。まず、山羊が十数匹放し飼いにされている光景が見えてきました。そんな中私たちの乗ったバスが走る、金剛山観光客専用道路の脇にある北朝鮮の皆さんの使う道路を、結構いい車が走っていきます。そのよい車には、“トヨタ”のマークがついておりました(^o^)。ちなみに雪峰の夢でも書いたことですが、海金剛へ向かう金剛山観光客専用道路も、三日浦を過ぎるまではやはり金網で周囲と遮断され、北朝鮮の兵士がそこここに立ってしっかり監視をしております(-_-;)。
それから進行方向左手に村が見えてきました。多くの村の家では洗濯物をいっぱい干しています。この先で見たどの集落でも、多くの家で洗濯物をいっぱい干していて、まさに“万艦飾”といった感じでした。雨上がりの好天、日本人の私たちにとってみても当然のことだと思います(^o^)。
また村の周りにある田んぼで、男の人が二人で農作業をしていました。『なにをやっているんだろう?』と思ってみたら、背中にアルミ製と思われる大きな容器を背負い、農薬か除草剤を散布していました。この光景は日本の農村でも見られる農薬散布の光景とあまり変わりありません。ところで村のあるところには必ずといっていいほど、何らかの政治スローガンの看板が道沿いに掲げられています。この村にもありましたが、のりまきはどういうスローガンなのか読むことが出来ませんでした。
それからまた、北朝鮮の皆さんが使う道路を、結構いい車が飛ばしていきます。ほんとうに今回は前回よりも車が多いような感じです。そんな中、多くの北朝鮮の皆さんは歩いています。また、自転車に乗っている人たちもいます。自転車は中学生くらいの子どもが乗っている場合もありました。
その先に韓国側にもある、非常時には道に石を落とすしかけが作られていました。そのしかけを過ぎたところで、また山羊が放し飼いにされていました。よく見ると山羊は結構痩せています。痩せた山羊を見送ると、また道に石を落とすしかけが作られていました。そしてカーキ色した軍服を着た北朝鮮の兵士の姿が目立つようになってきました。このあたり、道路はゆるやかに流れる川沿いを走り、トンボが多く群れ飛び、川の向こうには牛車がのんびりと進み、兵士と金網さえなければじつにのどかないい光景です。
そんなのどかさに浸っていると、突如目の前にハングル(朝鮮文字)で、『軍民一致』と大書された看板が現れます。う〜ん〜〜
看板から少し進むと検問所がありました。検問とはいってもバスの数と外から様子を確認するくらいでした。検問所のそばには、故金日成主席と、『祖国統一』を叫ぶ女の子の、二枚の大きな絵画がありました。二枚の絵画の先には、またまた道路に石を落とすしかけがあります。
それからまもなく、また検問所です。検問所のところで道は二手に分かれます。まっすぐの道を進むと、道はまもなく昨年も確認できた、“途中で落ちた橋”へと進み、落ちた橋の先、更に道が進んでいくようです。バスは左の方の細い道に入っていきます。ここから先は道路の両脇に金網はありません。分岐点からすぐに三日浦に入る道が分かれます。三日浦への分かれ道から十数メートルほど進んだあたりに、他の家と較べて随分立派できれいにされている家がありましたが、あの家はいったいなんだったのでしょう?ところでこのあたり、もともと土地が低い上に昨日の大雨もあってか、道に水が溢れていました。バスは大きな水溜りに突っ込んでいくように進みます。
水溜り地帯を抜けると道は川沿いを進みます。川沿いのところどころに、形良き巨岩があり、巨岩にはまた松がうまい按配で乗っかっていたりします。まさに天然の盆栽を見る思いです。岩のないところ、川の向こうは一面のとうもろこし畑です。風に波打つとうもろこし畑の光景は、北海道を思わせるところがあります。
それから左手に集落が見えてきました。集落の近くでは、北朝鮮の皆さんはなんと川を歩いて渡っていました!川幅は20メートルくらいあったと思いますし、昨日の雨で増水もしています。皆さん腰から胸のあたりまで水につかりながら、川を渡っていました。集落には学校があります。バスの先頭で説明している鄭さんによれば、『人民学校』というのだそうです。さらにまた集落の姿が見えてきました。この集落のところにある看板はのりまきも読めました、看板には『祖国統一』と書かれていました。集落の中にはまた学校がありました。鄭さんによれば、『高等小学校』だそうですが……前回の崔会長の話ではたしか同じ学校のことを『高等中学校』と言っていました。どちらが正しいのでしょうか?
その先、道は川沿いを離れて広い平原の中を進みだします。そして潅木の茂みの中に年季の入ったレーダーが旋回する、レーダー基地の近くを通ります。レーダー基地は周囲と金網で仕切られていますが、特に念入りに警備されているふうでもありません。このあたりは道が狭く、バスは警備の北朝鮮兵の鼻先を通過していきます。北朝鮮兵の多くは若く、まだあどけなさを残した兵士の姿も見ます。
道はやがて南側に向かい、広い平原の中を進みます。広い平原はところどころに小さな丘がある以外は、見渡す限りの水田となっていて、壮観な眺めです。前回は水のない水田が広がる、ただっ広い彼方に金剛山が聳えていましたが、今回は青々とした水田の彼方に金剛山がくっきりとその勇姿を輝かせています。青空のもと、田のあちこちには白鷺が飛び、前回とは少々趣が違いますが、まさに絶景です!好みもあるとは思いますが、のりまきは金剛山地区有数の絶景だと思います。レーダー基地を除いてこのあたりは特に写真撮影が難しい理由はないと思いますので、のりまきは管理上の不都合があるのならば、場所を一ヶ所に決めてでも写真撮影の許可をすることを考慮してもらいたいと思います。
さて、このあたりの水田の多くは、見たところ田の草取りもしっかりされているようで、温井里周辺の田よりも耕作意欲が高そうです。また、田のあぜ道には豆が植えられていました。のりまきが以前(1992年)北朝鮮に行った時、のりまき母に『北朝鮮では田のあぜ道に豆を植えていた』話をすると、山形県の庄内出身である母は、『故郷の田でもそうしていた』。と、なつかしがっていましたが、10年前に見た景色と同じような景色を見て、そんなことを思い出してしまいました。ちなみに埼玉県出身のふとまき母も、『故郷の田のあぜ道には豆を植えていた』と話していたので、田のあぜに豆を植えることは、結構ありふれていることなのかもしれません。
やがて水田の彼方に、昨年も見えた駅の跡が見えてきました。今回は駅の跡の周囲には、かなり大きな集落があることに気づきました。場所的に旧高城郡の中心地のようです。今、高城郡は南北に分けられてしまっていますが、今から50年以上前の1950年以前、高城郡がまだ南北に分けられていない頃の郡の中心地が、遠くに見える駅の跡の周囲にある集落だったわけです(注)。
このあたりの田でも農作業をしている人の姿を見ました。見るとやはり背中にアルミ製の大きな容器を背負い、農薬か除草剤をまいているようでした。北朝鮮の農民はいったいどんな農薬(除草剤)を使っているのか、そもそも農薬(除草剤)をどうやって手に入れているのか……気になるところであります。
それから道は東側に向かい、川を渡ります。私たちが川を渡った橋の下流で、また北朝鮮の人たちが歩いて川を渡っている光景を目にしました。さっき川を渡っていた場所よりも水深が少し深い様子で、みんな胸のあたりまで水につかっていました。北朝鮮の人たちが川を渡っている場所のところだけ、川沿いに生えている葦が刈り取られていたので、北朝鮮の人たちはどうやら日常的にその場所で歩いて川を渡っているようです。このあたりの川の感じはもう海が近いようで、川沿いに葦が繁茂し、川も蛇行しながらたいへんにゆるやかに流れています。
それから道は田んぼの広がる平原に別れを告げて、砂地の上に松の木が生い茂っている場所に入ります。海が近い感じです。前日の嵐のせいでしょうか……結構多くの松の木が根こそぎ倒れています。砂地の道をバスは少し進むと、まもなく昨年も通った厳重な検問の場所を通過します。私たちのバスが到着した時、検問所は閉まっていました。どうしてかな〜〜と思っていると、検問所はたまたま昨日の夕方金剛山温泉のそばでも見た、警備の交替と引き継ぎの最中でした。敬礼しながら報告をしている兵士や、手足を高く振り上げながら行進する姿を私たちはまた目撃することになりました(笑)。また検問所の脇には緑色をした車両が一台、止まっていました。車両にはなんだか旗のようなデザインの絵が書かれていました。
交替と引継ぎが終わると、検問所が開きます。前回は気づかなかったのですが、検問を過ぎてからも道から外れた奧の方には家がありました。晴れた空のもとで多くの洗濯物を干していましたので、誰か生活している人がいるのだと思います。感じとして普通の民家で兵舎のようではありません。家族連れの兵士の家なのでしょうか??そして検問の先は、道はその昔田んぼであったらしい場所を通過します。あぜ道は残っていますが、田んぼだった面影はなく、感じとしては水浸しになって葦などが繁茂してしまった休耕田といった感じです。そこにはところどころに紫色をした美しい花が咲いていました。花の感じからいってノハナショウブか、かきつばたの仲間みたいでした。
そこから道は登りとなって、登りきった小高い丘の上が海金剛の駐車場です。下の方から波の音が聞こえてきます。皆さんここでバスを降りて、海金剛観光へと向かいます。
海金剛は青い空、青い海、そして松の緑が夏の好天のもと輝いて見えました!。雨上がりのせいか、夏にしては空気も澄んでいるようで遠くの方までくっきりと見えます。韓国人の観光客の何人かが韓国側を指差して、『統一展望台(トンイルチョンマンデ)』と言っていましたので、そちらの方角を見てみると、たしかにそれらしいものが見えます。
海金剛観光で行くことが出来る一番奥の場所に、いの一番に現代の社員が到着して、『こちらの写真は絶対に撮るな!』と、観光客に向かって大声で連呼するのは昨年と同じです。ここでも細かいことに気がつく鄭さんが、現代社員の先頭に立って活躍します(^o^)。また、この場所で昨晩鄭さんをヨイショしていた、“鄭さんから日本語を習っている”現代の女性社員のうち、すらっとしている方の人とも出会いました。のりまき・ふとまきは鄭さんとその女性と、しっかり記念撮影です(^o^)。
ところで、海金剛の北朝鮮の監視員さんの中に、実に味のある男性がいました。髪が短くて黒いサングラスをかけ、洋服の着かたもすこし崩れた感じで、なんとなくアウトサイダーの匂いがします。雰囲気としては長渕剛に似ています。この北朝鮮の長渕は、金剛山観光客の監視などろくろく行わず、物陰でウンコ座りしながら、韓国人の観光客たちとずーっとなにやら話し込んでいました(笑)。

海金剛にあるあずまやと、柱によりかかりながらウンコ座りしてる北朝鮮の長渕(右はその部分を拡大)

また、この海金剛では昨日は大雨のため、ほとんど活躍できなかったコダックの記念撮影部隊が、海金剛をバックに観光客の記念撮影をしていました。のりまき・ふとまきもしっかり記念撮影に納まります(^o^)。撮影に際してコダックの人は『もっと二人近くに寄って!』と、指示を出すなど、結構記念撮影に入れ込んでおりました。

コダックの人が撮ってくれた、のりふと記念撮影♪

さて、海金剛での観光を終えバスに戻る途中、昨晩温井閣でみやげ物の写真を撮りまくっていた中年女性が、今度は道端に咲く花や蜘蛛の巣の写真を撮りまくっていました。そのような変わった写真をいっぱい撮って、彼女は一体どうするつもりなのでしょう?ところで海金剛周辺にも、ノハナショウブか、かきつばたのような花が咲いていました。
海金剛に咲くノハナショウブの仲間

さて、バスに戻るとのりまき・ふとまきのことをバスの乗客の一人が写真撮影してくれました。その人は鄭さんを通じて「電子メールのアドレスを教えてもらえれば、写真を送ります」。と言ってきたので、アドレスを教えました、日本帰国後、ちゃんとそのときの写真が送られてきました。
バスに乗り込んだ私たちは、金剛山観光最後の観光地、三日浦に向かいます。バスはもと来た道を戻りはじめます。そんな中、私たちのすぐそばに座っていた男性が、のりまき・ふとまきに片言の日本語で話し掛けてきます。「私は日本におじいさんが住んでいます」。というので、「おじいさんはどちらに住んでいるのですか?」と聞いてみると「名古屋」。との答えでした。さらには「私は自動車(関係)の仕事をしていて、日本にも行ったことがある」。と、ジェスチュアー交じりの日本語で話してくれました。それにしてもこの男性は、初日からずっとのりまき・ふとまきのバスの席は近くであったのに、三日目の今日になって話し掛けてくるとは……考えてみると面白いことです。
バスはやがて行きも通った橋を渡ります。橋の下流では相変わらず人が川を徒歩で渡っているようです。それからバスは風光明媚な平原をまた進みます。帰り道では道沿いにある小さな丘の上に、かなり大きな拡声器が取り付けられている場所を見つけましたが、あの拡声器はいったい何の用途に用いるのでしょうか?
それから集落のある場所まで戻ってきました。これも帰り道で気づいたことなのですが、集落そばの道沿いに、かなり多くの貝殻が棄てられている場所がありました。一見“貝塚”のようにも見えましたが……何だったのでしょうか?
学校の場所まで戻ってみると、土曜日(7月20日)なので学校は午前中でおしまいなのでしょうか?子どもたちが大勢、ぞろぞろと行列を作るようにして、学校の敷地から外に出て来ていました。ふとまきは子どもたちに手を振ってみたのですが、誰も手を振り返してくれませんでした(-_-;)。
バスはもと来た道を三日浦に入る道のところまで戻ってきたのですが、すぐに三日浦の駐車場に向かおうとしません。バスは検問所のところの少し広くなった場所まで戻って停まります。怪訝そうな顔をしている私たちを見て、鄭さんは「観光客が多いので、最初に三日浦を観光するグループと、最初に海金剛を見学するグループとに分けています。ここで三日浦観光を終えて海金剛に向かうバスを待っているのです」。と、わざわざ説明してくれます。
まもなく三日浦の方からバスが連なって降りてきました。三日浦から降りてきたバスは、鄭さんの説明通り海金剛方面に向かいました。それから私たちのバスは三日浦に向かい動き出しました。

注…嵐の万物相第1部の注でも説明しましたが、現在、高城郡は韓国と北朝鮮に分断されています。1950年の朝鮮戦争以前の南北の境界は、北緯38度線そのものでしたので、束草の南を走っていました(つまり束草は朝鮮戦争前は北に属していた)。そのため高城郡は全体が北側にあり、朝鮮戦争中の戦線の推移の中で高城郡の南北分断が進み、1953年の朝鮮戦争の休戦協定の結果、今のような状態になったのです。ちなみに私の手もとにある資料では、遠くに見える駅の跡は、旧『高城駅』のようです。ちなみに三日浦そばには『三日浦駅』という駅があったようですが……(日本旅行協會朝鮮支部発行:金剛山 《昭和14(1939)年10月30日発行》を参考しました。)



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