1992年朝鮮民主主義人民共和国旅行記
革命一家・文章中心編(2)




ピョンヤン市内のとある民家



 さて、翌日は朝早く起きてホテルの周囲を散歩をしてみました。ガイドさんがついて来ることもなく、カメラ片手に約15〜20分くらいの小冒険でありました。
 朝の空気は、ピョンヤンでもやはり爽やかな感じでした。散歩途中に見かけた光景はというと、整然とした建物ばかりではなく、学校があったり工場があったり、一昔前の日本の市営住宅を思わせるアパート群があったり、少し路地裏の方には古い家があったり……普通江ホテル周辺は、少々下町っぽさの残る場所のように感じました。
 散歩のおしまいに、ホテル近くの普通江ほとりの公園で一休みしました。ピョンヤン市中心部の普通江は、その流域が公園となっていて、“普通江遊園地”と言われているそうです。ゆるやかに流れる普通江のほとりのところどころに、大きな柳の木が立ち、なかなかの好印象です。貸しボートのようなものあって、旅行日程に余裕があれば、のんびりと昼寝の一つもしたくなるような場所です。

普通江ほとり、美しい公園となっています。右の写真は普通江のボート、白鳥の形したボートもありますね♪

 さて、散歩の後、少ししたら朝食でした。普通江ホテルはそれなりに大きなホテルだと思うのですが、宿泊者があまりいないようで朝食時は閑散としています。私たちの泊っていた時には、私たち以外には、東欧系と思われる金髪の中年男性が一人、朝食を食べに来ていただけでした。
 ところで、このホテルにはのりまきにとって興味深いものが二つありました。一つは普通江ホテルの名物(?)、金日成親子が河畔を散歩している大きな絵画があったことですが、もう一つ、『自動革靴磨き機』というべき、まことに興味深い機械がホテル入り口にあったのです。まあ、実際には泥落としくらいにしかならないかもしれませんが……ホテルに出入りしている朝鮮の人たちの多くは、せっせと“自動革靴磨き機”に革靴を押し当てて、靴を磨いていました(^o^)。
 ちなみに2000年夏の北朝鮮再訪時にも、普通江ホテルに立ち寄ったのですが、その時には金親子の絵画は健在でしたが、自動革靴磨き機はなくなってしまっていました。正直少し残念です……

普通江ホテル名物(?)、大同江ほとりを散歩する金親子。2000年夏に撮影。


少し見えにくいですが……下の、箱みたいな形の『自動靴磨き機』に、二人の男性が革靴を当てています♪

 さて、そんなこんなのうちに観光に出発です。まず、昨日は夜遅くて出来なかった両替を、ホテルのフロントで行いました。いわゆる“子ども銀行のお札”のようだとも言われていた、青い色をした外貨兌換券(パックントン)を受け取って苦笑いです(>_<)。(注)
 私たちとガイドの金さんを乗せた車は、まず北朝鮮観光の必須見学地、万景台へと向かいました。万景台は金日成氏の生まれた場所と言われ、北朝鮮の聖地なのであります。
 万景台は、やはり緑濃き公園になっていました。公園の中に、きれいに整備された金日成氏の生家があります。わら葺の屋根も壁もしっかりとしているので、よほど念入りに修復されたか、さもなければ全くの復元された建物だと思います。建物には金日成主席の若かりし時の写真や、主席の家族の皆さんの写真、それから食器や機織り機などの家財道具が整然と並べられていました。
 さて、いよいよガイドの金さんの腕の見せどころ、“北朝鮮観光ガイド”が始まります……金さんは、まず開口一番『金日成主席ご一家は、革命一家です!』とぶちあげてくれました!!『革命一家!?』……音楽一家とか、芸術一家とかいう言葉は聞いたことあるけれど、“革命一家”だなんて言葉、この世にありえるのだろうか??
 続いてガイドの金さんは、展示されていたひしゃげた壺を指差しながら、幼い頃の主席がいかに貧乏であったかを説明します。金さん曰く「幼い頃の主席ご一家はとっても貧乏で、誰もが買わないようなひしゃげた壺を安い値段で買い、使っていたのでした」。とのことです。その他にも色々と話してもらったと思いますが、正直なところのりまきは、しょっぱなの“革命一家”という言葉がしばらく頭の中をぐるんぐるん廻り続けていて、金さんの説明があまり耳に入ってきませんでした(笑)。
 それから金日成主席が子どもの頃水を汲んだという井戸に着きました。井戸は今でも豊富に水が湧き出しています。水を汲んだのりまきは、ありがたく水を頂きましたが、実のところ北朝鮮観光客の多くは、この水に当たってお腹を壊すのでは……という説があります。やはりこの井戸の水を飲んだせいなのでしょうか……後にも触れますが、この時の北朝鮮旅行で、のりまきはかなり重い下痢になりました。ちなみに2000年の時には、この井戸で水を汲むことは出来ましたが、『慣れない生水を飲むと、お腹を壊すので水を飲まないように』。と、ガイドさんから忠告されました。
 しかし、水を飲んだとたんにお腹をこわすはずはありません。この時は冷たくてなかなか美味しい水だと思いました。
 水を飲んだ後に、高台から良い景色を望める場所に行きました。高台からは眼下に悠々と流れる大同江が見え、その先にはかなり遠くまで広がる緑の平原が見えます。北朝鮮に行く数ヶ月前に体験した、シベリアの広さから較べるとスケールは小さなものですが、この広さはやはり『大陸』を感じさせました。
 それから、弱冠13歳の金日成少年が大志を抱いて故郷、朝鮮を離れ、一人満州へと旅立つ絵のある場所に出ました。そこからまた車に乗って、万景台の遊園地に向かいました。遊園地のそばで田んぼを見たのですが、雑草が多くてとてもマトモに耕作しているとは思えませんでした。のりまきの亡くなった大叔父の一人に、かなり大きな土地を持っていた兼業農家の人がいて、その人はまだ小学生だったのりまきに、稲と似ている田の雑草の見わけ方を教えてくれたりしたのですが、頑固者で有名だったその大叔父が見たら激怒しそうな田んぼです。あと、あぜ道に豆が植えられていることが印象的でした。これはのりまき母やふとまきの母の話だと、以前はよく見かけた光景だとのことですので、そんなに珍しい話ではないようです。ちなみに10年後、2002年夏の金剛山旅行の際にも、雑草だらけの田んぼや、田のあぜ道に豆が植えられている光景は目にしましたので、これらは北朝鮮農村のありふれた光景なのかもしれません。
 遊園地にはあまり人はいませんでした。しかし、私たち以外にも観光客らしい人たちが遊園地を廻っていました。ガイドの金さんによれば、台湾から来た観光客らしいです。遊園地内にはいくつか乗り物がありまして、ジェットコースターもありましたが動いていないようでした。ガイドの金さんが「乗ってみますか?」と言ってきましたが、私たちのためだけにジェットコースターを動かしてもらうのも悪いと思って断わりました。今からして思うと少し残念です。
 遊園地内には人は少なかったですが、わずかですが子どもたちはいました。子どもたちは制服に赤いネッカチーフを巻いていました。どんな遊びをしていたかというと、遊園地内の射撃コーナーで、目の前の幕に現れる“敵機”を的に、銃を発射して遊んでいました。
 さて、遊園地を散策した後、私たちは万景台のピョンヤン市市電の駅のところで再び車に乗り、次なる観光へと向かいます。ところで万景台は市電の終点で、市電の車両基地もありました。
万景台の市電の駅。奧に市電の車両基地も見えます。


(注):外貨兌換券とは、主に社会主義国で用いられていた制度。流通する通貨を、ドルや円などといった資本主義国の通貨と両替が出来る兌換紙幣と、両替できない不換紙幣・貨幣とに分け、旅行者などの外国人には兌換紙幣を用いさせ、多くの国民には不換紙幣・貨幣を使わせていた。この制度は外貨不足のためにドルや円などの外貨を国民に使わせず、国家に外貨を吸い上げる役割を担っていると言われています。
 北朝鮮以外では中国が同じような制度を使っていたのが有名ですが、自国経済の発展のため、そのような制度を続ける必要がなくなり廃止されました。北朝鮮も2002年7月に廃止されたようですが、廃止理由は中国と全く逆で、経済が完全に破たんして、外貨兌換券も一般のお金と同じくらい信用をなくして、国家に外貨を吸い上げる本来の役割をまるで果たさなくなったことによるようです。



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