1992年朝鮮民主主義人民共和国旅行記
革命一家・文章中心編(1)



ピョンヤンーケソン間の高速道路脇で工事をしていた人々


1992年の北朝鮮旅行を振り返り、文章にまとめてみようと思いますが、
なにぶん10年も前のことなので、忘れてしまっていることも多いと思います。
一部不正確なところも出てくると思いますが、ご容赦ください……


 1992年の春に、生まれて初めての海外旅行、しかもいきなりのロシア行きで楽しい思いをしたのりまきは、早々に同じ年の夏の2度目の海外旅行として、北朝鮮を目指すことを決めたのでした。どうして北朝鮮なのかというと、この当時でも世界有数の怪しげな国であった上に、元来のりまきがたいへんに興味があった国で、しかも日本の隣国であることもあって、2回目の海外旅行は北朝鮮と心に決めたのりまきは、1992年の5月あたりからせっせと北朝鮮行きの情報を集め出したのであった……
 1987年に開始され、途中中断もあった北朝鮮観光も、1992年ごろには観光ルートもかなり整備されてきていて、北朝鮮行きのツアーを扱う会社も複数出てきていました。比較検討の末、結局『地球の歩き方』関連のツアーが一番安かったこともあって、このツアーで北朝鮮に行ってみることになったのです(注1)。
 ところで、旅行会社が決まっても一苦労でした……現在は夏場中心として、割高ではあっても1人で北朝鮮に入国することができるのですが、この頃は1人で北朝鮮に入国することは困難でした。北朝鮮に入国する場合、複数である必要があった。つまり一人旅で北朝鮮に行こうとする場合、どうしても他の旅行者ととグループを組まされることになるのでした。
 地球の歩き方関連の会社とはいっても、北朝鮮に行きたい旅行者が大勢現れるはずもなし……1992年ののりまきは一人旅であったので、結局第一希望通りの旅行日程が組めず、第一希望に最も近い日程で、他の旅行者がいる時に旅行をすることになってしまった……
 さて、1992年の8月21日、のりまきはまず成田空港から北京に向かった。初めての海外旅行は新潟空港からハバロフスクに向かい、イルクーツクから新潟へと帰国したから、今回がのりまきの成田空港デビューでした。そういえば生まれて初めて飛行機乗ったのは、新潟空港からハバロフスクへ行くアエロフロートだった……
 北京に着くと、北朝鮮へ行くまでは中国人のガイドさんがつくことになっていました。なぜならば翌日の北朝鮮出発までに、北朝鮮大使館でビザを取得しなければならないので、手続き等を円滑に行うためにガイドさんがつくことになっていたのです。ところで北京に着いた時点で、のりまきと北朝鮮に同行する人物が始めて判明しました。同行者は大学3年生の若者でした。
 夕方の北京空港でガイドさんの出迎えを受けた私たちは、まずホテルに向かい、その夜は北京で一泊しました。そして翌日(8月22日)、ホテルにガイドさんが私たちを迎えに来て、私たちはビザの申請用紙とともに北朝鮮大使館に向かいました。
 北京の北朝鮮大使館は木立に囲まれたかなり大きな建物でした。大使館の外にはかなり広い掲示スペースがあって、そこには金日成親子の写真や、北朝鮮お家芸のマスゲームの写真などが飾られていました。
 さて、大使館の中に入ってみます……中には思ったよりも大勢の人がいて、皆さんなにやら手続きをしています。

北京の北朝鮮大使館内の光景

 ビザ取得の手続きはスムーズだったと思います。このときのりまきは、何の気なしに大使館内の写真を撮ってしまいました。のりまきが写真を撮っているのを見つけた大使館の職員から『写真を撮らないように』注意を受けましたが、注意は厳しいものではなく、特にフィルム没収はされませんでした。
 さて、北朝鮮のビザ取得を終えた私たちは、ガイドさんに連れられて、昼食を食べにとある食堂に行きました。食堂では鯉と思われる魚の丸揚げという、昼食としてはかなり豪華な料理が出てきました。お味の方もグーでありました(^o^)。

北朝鮮出発前に、ガイドさんに連れていってもらった食堂で食べた鯉(?)の丸揚げ。美味!!

昼食を食べ終わると北京空港に向かいます。空港でガイドさんとお別れして、それから搭乗手続きやら出国手続きやらを済ませ、晴れて機上の人となりました。飛行機はかなり小さく、そして混んでいたことを覚えています。飛行機内の座席に落ち着いたところで、たまたま隣合わせになった、日焼けした逞しい中年男性から声をかけられました。男性はのりまきに対してしきりと『カンガン、カンガン』と話しかけてきます。のりまきはほとんど朝鮮語がわからなかったので、この男性の言う『カンガン』とは一体何のことなのか、よくわかりませんでした。
 男性があまりにも熱心なので、のりまきが持参した『朝鮮観光案内』というガイドブックにある、簡易旅行会話をこの男性に見せてみました。男性は注意深く簡易旅行会話を見まわしたあとに、のりまきに対して『観光』という文字を指し示しました。『カンガン』とは、“観光”のことだということが理解できたのりまきは、もちろん大きく頷きます。男性は意味が通じて嬉しかったのか、にこにこと笑っていました。
 そんなこんなのうちに離陸です。飛行機に乗ってからまもなく、のりまきはとんでもないことに気づきました。この飛行機、なんと冷房が効かないようなのです。8月の後半のまだまだ暑い中、冷房の効かない、ほぼ満席に近い飛行機に乗るわけです……かなり我慢大会に近い感じでした。
 飛行機が離陸後、上昇していくうちにだんだんと涼しくなってきます……考えてみたら上空は寒いわけですから、北朝鮮のこの飛行機は“天然冷房”飛行機なのかも知れません(笑)。涼しくなった頃に飲み物と飴のサービスがありました。飲み物はよく覚えていませんが、飴は素朴な味がしてなかなか美味しかったことを覚えています。
 いったん涼しくなった飛行機は、やがてまた暑くなってきました。天然冷房の飛行機が高度を下げてきたのでしょう(笑)。窓から外を眺めてみると、北朝鮮の大地が間近に見えてきました。飛行機から見た初めての北朝鮮は、なんとなく茶色がかって見えました。そして飛行機は北朝鮮に降りていきました。着陸寸前の光景は今から思い出してみると、のりまきが行った世界各国の空港の中でも、“田舎”に降りる印象でした。考えてみれば飛行機の着陸コースの下にはあまり大きな町がないようなので、田舎に空港がある印象になってしまうのはある程度仕方ないのかもしれませんが、それにしても空港周辺の閑散とした光景は、空港での仕事で食べている人の少なさを想像させます。
 ピョンヤンの順安空港は、思っていた以上に小さな空港でした。よく言われることですが、日本の地方空港と似た感じです。滑走路がコンクリート製であったことと、空港の建物もあまり大きくなかったことも印象的でした。そして空港で北朝鮮の入国審査です。2000年の時と同じく、たしか入国審査前に北朝鮮のガイドさんが我々を迎えに来てくれたと思いました。考えてみれば、入国審査を全て終わった後にガイドさんの出迎えを受けるのが通常のツアーだと思いますので、入国審査前にガイドさんの迎えがあるのも妙な話です。ガイドさんは金さんと言う30〜40台くらいの男性で、少し精悍な感じを受ける人物でした。
 入国審査も税関も簡単に通過しました。空港の外には思ったよりも多くの人と車がありました。まあ、ピョンヤンの順安空港も一国の国際空港です。出迎えの人たちなどが多少集まっているのは当然でしょう……とはいっても日本の地方空港並みですが……私たちはガイドの金さんに連れられて車に乗り込み、一路ピョンヤンの中心街へと向かいました。
 ピョンヤンに着いたのはもう夕刻のことでした。8月後半というまだ日の長い頃なので、周囲の景色がそれなりに見ることができたことを覚えています。空港からピョンヤンまではしばらく農村地帯を通りました。緑豊かな、一見した感じ、のどかな場所でした。道沿いに歩く人々の姿も見えました。
 車に乗って2〜30分くらい経ったでしょうか、道の両脇に高い建物が見えてきました、ピョンヤンの中心街に入ってきたようです。ピョンヤンに入っての第一印象は、人通りが100万都市とはとても思えぬほど少ない印象を持ちました。しかし建物の建て方などはなかなか整然としたものがあり、清潔な印象のする街です。
 車は整然とした街並みの中を進みます。そしてテレビなどで放映される“ピョンヤンの街並み”として、見たことのある建物が現れだすと、やがて緑豊かな公園のような場所の中に入っていきました。公園のような場所に入ってすぐ、見たところ7〜8階建ての白い建物(注2)が見えてきました。今回の旅行で宿泊する普通江ホテルです。旅行代金が安めだったせいか、普通の旅行者の泊るホテルとしては当時ピョンヤン最高級の高麗ホテルには泊れませんでしたが、普通江ホテルは緑に囲まれ、全体的に落ち着いた感じのホテルで、これまで宿泊した外国のホテルの中でも、のりまきとしては結構印象が良かった方のホテルです。
普通江ホテル

 ホテルにの部屋に荷物を置いてから、ホテル1階の食堂で夕食を食べました。宿泊者がほとんどいなかったのか、食堂は閑散としていました。食事が終わると、ガイドの金さんが「これからお二人がピョンヤンに到着した記念として、高麗ホテル最上階の展望レストランに行ってみませんか?」と言ってきます。旅の疲れはあったのですが、せっかくなので行ってみることにしました。
 夜のピョンヤンは人通りが少なくて静かな感じでした。建物とかは結構立派なのですが、街明かりもつつましやかで奇妙な透明感が感じられ、なんとなく日の出前後の歌舞伎町を思い出させました。
 ピョンヤン駅近くにある高麗ホテルは、ツインタワー式の45階建てホテルで、近くから見るとなかなか壮観な建物です。ツインタワーの最上階はともに回転レストランとなっていて、ピョンヤンの夜景を楽しみながらグラスを傾けることができるようになっていました。
高麗ホテル最上階の、回転レストラン内部

 私たちはガイドの金さんに連れられて、ツインタワーの回転レストランの片方に行き、そこでピョンヤンの夜景を見ながら日本製のビールを飲みながら、ガイドさんと運転手さんとともに、しばしくつろぎました。回転レストランはさすがに高い場所にあるため、ピョンヤンの夜景が良く見渡せます。眼下の景色では、高層のアパートらしい建物が多く目についたことを覚えています。電力不足が伝えられるだけあって、たしかに日本の大都会と較べると明かりはつつましやかですが、思っていた以上に多くの家並みに明かりが灯っていました。
 それからのりまきは、高麗ホテルの、私たちがいない方の回転レストランには明かりがともっておらず、回転もしていないことに気づきました。私は金さんに「あれ……向こうの回転レストラン、動いていませんね〜」。と聞いてみました。「そうそう、向こう側の回転レストランは、実は故障中なのですよ」。ガイドの金さんはさらりと答えます。この時は何の気なしの会話で、のりまきも『ふう〜ん』という程度のお話でしたが、実のところ高麗ホテルのもう一つの回転レストランは金正日一家専用であるという話を最近聞きました。やはり北朝鮮は油断なりませんね(笑)。
 1〜2時間高麗ホテルの展望レストランでくつろいだ後、普通江ホテルに戻り就寝です。それにしてもあまり飲んでいなかったとはいえ、運転手さんは飲酒運転……大丈夫なのかなあ…やっぱりケンチャナヨ??


(注1):日本ー北京線は当時(1992年)は、今以上に品薄で値段が高かった。当時一番日本ー北京線で安い航空券は、パキスタン航空かイラン航空であったが、北朝鮮のツアーのほとんどは日本からの航空会社を完全に指定されてしまい、安いパキスタン航空やイラン航空は利用できなかった。そして当時私の調べた限り、地球の歩き方の関連ツアーのみパキスタン航空利用であったため、他社よりも割安であったのだ。

(注2):実のところ普通江ホテルは9階建てらしい。



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