巻4
 −海老名の性格・行動形態・人生の軌跡ー 
「海老名、大学2年 そのB」


Y大学教育学学士(心理学)
今 柊ニ
黒崎 犀彦
共著(原本執筆は、今 柊ニ)1993.12.8


第3巻に対する読者の反応

「だんだん気持ち悪くなってきた」………T氏(今学士と海老名の共通の友人)
「無回答」………S青年ことK氏(結婚の為転居したらしく音信不通)
「あいかわらずおもしろいです」………黒崎学士の職場の人々
※T氏の発言通り、どんどん内容が濃く緻密になってきた。本来なら大学3年に突入するはずなのだが・・・?さあ、一体どうなっているかは本書を開け!!

1章 はじめに
今:こんにちわ、だまっとき女です(注1)。
黒:だまっとき!!(怒)
今:…はい。ええ、では今回もはじめましょうかね…で、今回はどこからでしたっけ?
黒:前回は、海老名の九州渡航まででしたから、87年が終わったところまでです。
今:そうでした。では、今回は88年になってからのことから行きましょう!!

2章 後期試験での海老名の挫折
今:さて、88年となり、海老名は九州から帰ってきてほっとするのもつかの間、短い冬休みが終わったとたん、クラ〜イ試験の季節がやってきたのです。
黒:そうですね。この2年の試験で、ある程度試験科目をクリアーしないと進級するのもままならないことになるのでした。海老名は生真面目なのですが、それと成績が相関するとは限りません。むしろ語学などは逆相関の関係すらあったのではないでしょうか?(注2)
今:特にドイツ語などは、もがけばもがくほど落ちていってしまう、まるでアリジゴクのような状況だったと言えましょう。それもドイツ語のリーダーはともかく、文法はさんたんたるものでしたね。
黒:確か、授業がはじまる前などは、ドゥーシュバィン、ドゥーナチ(注3)を連発していましたが、それ以外の単語は出てこなかったのです。


今:海老名は前世でユダヤ人だったので、ダッハウ(注4)のガス室で殺されたため、ドイツ語に対して先天的嫌悪感があるのかもしれませんね。
黒:あ、想いだしました。ドイツ語の試験の最中のことです。実は私もこの時ばかりは海老名を観察する余裕すらなかったのですが……。
今:そうそう、確かドイツ語文法は、4そうという教官で『鬼の4そう』と呼ばれていましたものねぇ。
黒:忙中閑ありとというわけではないのですが、それでも私は海老名をちらっとみやったんです。そこでは海老名の焦るさまがテキメンに拝めたのです。せわしなくシャーペンをくるくるまわして、しきりに頭をかいていました。頭や身体がやたら上下に動いているのは彼だけでした。私はこれをみて少しほっとしました。

今:ほっとした黒崎学士に比べ、海老名はまさしくその時火の車です。そして試験の結果は…。
黒:Dでした。まさにバードオンワイヤーもがけばもがくほどはまったのです。次の年、一人淋しく再びドイツ語文法を海老名は受講しました。しょげこむはずだったのですが、この“ドイツ語再取得”にはある要素が付け加わり、これが彼の今後の偉大な勘違いの引き金となったのです。
今:(途中まで気付かなかったが…)あ!!わかった。うーん、アレか!!
黒:アレです。
今:でも、とりあえず今は伏せておきましょう。いずれ触れるでしょうから。

3章 その他の試験について
今:試験の事が出たので、この際ですから他の試験や授業について記しておきましょう。まず、心理科のレーゾンデートルたる心理実験と心理検査の実験がありました。実験は前期で終わっていたのですが、心理検査は後期に約33回も主に自分の性格を調べたり、同級生を検査するものでした。
黒:当然海老名も検査をされるわけですよ。忘れられないのは、YG検査でしょう。
今:いわゆる矢田部ギルフォード検査ですね。確か、A・B・C・D・Eの5つの性格類型に分けたものでした。(図参照)


私はDでしたが、当然海老名は……。
黒:ばりばりのEでした。で、教科書でEタイプとはどんなものか見てみました。確か、破滅的な性格で、ひとつも良い事は記されていませんでしたが、その中に『このタイプの人には奇人が多い』とあったのです!!(注5)
今:なるほどね。
今:そう言えば、自己分析のレポートもなかなか大変でした。私はここでワープロを購入し、レポートをワープロ打ちしたもので提出することにしました。これが私の産業革命でした。いわゆる文章を書く力動形成が発生したのです。この勢いはそのまま後述のプシケ刊行へとつながり、最終的には私の人生をゆがめてしまったのです。ああ、なんということでしょう!!
黒:まあ、おちついて。

4章 ゼミ決めと海老名の『逆転ホームラン』
今:で、試験も他にもSPSSとか心理学測定法とか恐ろしいものが一杯あったのですが、(注6A)なんとか終わってときはもう2月です。ここで大学の分水嶺、ゼミ決めがありました。私立大学とは違い、Y大は全員ゼミに入れるし、各ゼミの規模もさくていいのですが、我々にはきな問題がありました。
黒:そう、海老名問題です。
今:ゼミと言えばやはり一番人気は臨床心理のOゼミでした。何しろ、このゼミを目当てに入学してきた人もいるぐらいですから。(注6B)
黒:結論から言えば、あのゼミの入ってもダメなやつはダメでした。あっそうそう、この時期、私は心理学研究会会長となり、ゼミの振り分けを決定するという重を担わされたのですよ。
今:人望ですなあ。
黒:で、人気のゼミと不人気のゼミの差からそのまま希望者の差となって、全てのゼミを同じ人数くらいに振り分けるのに随分苦労しました。そして最後まで、私の他に誰も希望者がいなかったのがNゼミだったのです。
今:私も最初はユング派のOゼミに行くつもりでしたが、その希望者のメンツを見て『ヤバイ』と思うセンサーがピカリとひかりました。で、急遽安全な匂いのするFゼミに変えたのです。
この選択は大正解でした。


黒:話をそらさないで下さい。そんなわけで、わがNゼミは私一人だけで、殆ど決定しかけていました。ところが、Oゼミのやつがゼミは最低2人じゃないとダメなんだよと言ったのです。久し振りに腹が立ちましたよ、私は。
今:ちなみにこの時海老名はどのゼミを希望していたのですか

黒:Oゼミです。あのヤロー!!とにもかくにもすぐに決まりそうになかったので「Nゼミに来てくれる人を待っています。」と言ってしめくくったのです。ああ腹が立つ!!
今:そういや、途中でOゼミ希望者がバラバラと他のゼミへと散っていったのを覚えていますが、海老名はしぶとくOゼミにぶら下がっていました。それを勝手にOゼミの主流派だと思い込んでいるOゼミの希望者がイヤだったのは想像に難くありません。
黒:その後、どうなったかというと、Nゼミに行ってもいいと言う御学友が数名あらわれ、私はこれでなんとかなると、胸をなでおろしたのでした。しかし結局どうなったのかと言うと、私の今後の大学生活を左右するほどの大逆転が待っていたのです!!
今:それはなんですか?
黒:言うまでもないでしょう!!先ほどのゼミ決めの話し合いの数日後でしたが、Nゼミのゼミ室にいた私の所へ海老名がやって来たのです。そしてその時の海老名のセリフは終生忘れることは出来ません。


絵参照↑
今:カルマですなぁ。どこまでも。
黒:案の定、他に誰も御学友はNゼミにやってきませんでした。すっかり落胆した私に同級生は『お似合いのコンビだよ』とか『友達だからいいじゃん』などほざいていて私はそれに対してヘラヘラ笑っていたのですが、クラスメート31人を全員殺してやろうと思ったのはこのときをおいて他にはありません。
今:うーん、そんな心の葛藤があったのですか。ちっとも気がつきませんでした。私もすっかり『たでくう虫も好き好き』だと思ってましたよ。
黒:コノヤロー!!

5章 グーテンベルク海老名の面白躍如……プシケ刊行
今:まあ、結果としてゼミ決めはもめにもめて様々なしこりを残したのも事実です。例えば、Oゼミに行きたかったSはHゼミに行きましたが、卒論の面倒はOゼミが見るという約束でしたが、なんとOくん(ふとまき注:O先生のこと)は我々が卒業するや否やJ大へトンズラしてしまいました。他にも、希望通りに行かなかった人も多かったですが、結果として、大学1,2年のカオス時代から小国分立のようなセクショナリズムの時代になったのは言うまでもありません。
黒:難しすぎて何いってるんだかわかりませんよ。
今:あ、すいません。簡単に言えば好きなやつとしか口をきかなくなり、嫌なやつとは接触しなくなったのです。
黒:人間の本質なんてそんなもんですよ。
今:でもトロやノリ(海老名)はイヤだったけど、人間的な深みがあったから付き合いました。しかし、常人(つねびと)どもはツマんないので、あまり接触しなくなりましたね。
黒:そのとおりです。さて、話を戻しますが、ゼミのことで、落ち込んでいる間もなく“プシケ刊行”という大事業が待っていたのです。
今:このプシケとは心理科で毎年4月に1回だけ発行される雑誌で、主な目的は新入生のガイダンスでした。これを新3年生がつくることになっていたのです。近年様々な工夫が凝らされて来ましたが、我々の前年はひどい手抜きでした。それを見た私は『よしスゴイのを作ろう!!』と思ったわけです。で、結局私は完全に新入生の案内書を逸脱して自分の趣味本としてしまいました。
黒:そういうわけで、プシケ刊行ではおおいに海老名を活用させてもらいましたね。
今:それは、『労働力』という意味合いを多分に含んでいました。
黒:つまり、このプシケは今まで輪転機で作っていたためにモノクロでしたが、我々の時からなんと表紙をカラーにしようとたくらんだからなのです。
今:当時はまだカラーコピーは一般化してませんでした。そのため思いついたのは、なんとまあプリントごっこでした。
黒:プリントごっことは、あの年賀状を作るやつですよね。
今:そうです。プシケは200冊くらいつくらなくてはいけませんでした。200回を1枚ずつペッタンペッタンつくるのは至難の技でした。
黒:で、その作業をやったのは海老名です。
今:海老名は精神遅滞者と同じで、単純作業をやらせると喜んで永久にやっているのです。うーん、精神遅滞者というよりも、海馬(快楽中枢)に電極を差し込んだねずみが、(その電極に電気が通る)レバーを一分間に何十回もペコペコ押す実験がありましたが、まさしくあれでした。
黒:いわゆる、エラッド(電気刺激愛好者)でした。しかしまあ良い働きをしてくれましたね。その功労を評して今学士が……。


今:そう、グーテンベルク海老名と呼んだのでした。
黒:一般の方にわかりにくいので詳しく説明して下さい。
今:はい、グーテンベルクとは世界で最初に活版印刷をはじめた人です。海老名がプリントごっこをやっている姿は、そのグーテンベルクが印刷術を発見して無我夢中でやっている姿を彷彿とさせたのです。
黒:なるほどね。でも彼はグーテンベルクではなく本当はしげきねずみだったんですねぇ。
今:そうですね。あ、あと余談ですが、この時本を作るため遅くまで毎日大学にいましたが、何だか穴熊のような男がいましたね。あれ、誰でしたっけ?
黒:それこそトロですよ。何かパソコンに向かって作業をしていましたが、一体何をやっていたんだかさっぱりわかりませんね。(注7)
今:そういう意味ではグーテンベルク海老名の方がわかりやすいでしょう。
黒:だから、今の人生でも海老名は福祉と言うわかりやすい仕事をやっていますが、トロは相変わらず大学院でパソコンの前に座って意味不明の事しかやってませんよ。
今:うーん、悠々なる時の流れを感じますねぇ。
(続く)
黒:ではまた続きは来年ということにしましょう。


【注解】
(注1)だまっとき女……この言葉には、黒崎学士に関する深〜いプライベートな意味があるらしいが、これ以上記すと殴られそうなので、ほとぼりが冷めたら報告する。

(注2)逆相関……“つまり、勉強するほど出来なくなる。”ということだ。

(注3)ドゥーシュバイン、ドゥーナチ……ドイツ語のリーダーに本当に例文として載せられていた。確か、夜中に主人公の家がノックされ、「ドゥーシュバイン(このブタ!)、ドゥーナチ(このナチス)と叫ばれるという話で、『このように現在もなおナチスのキズアトはドイツに残っています』と、教官(ターヘル中島というあだ名だった)は語った。なお、この先生、脱線が得意で、この時も『ナチスのキズアト』について延々としゃべりおもしろかった。

(注4)ダッハウ……収容所と言えば、アウシュビッツがメジャーだったが、ダッハウも負けないくらいデカイ収容所だった。あえて『ダッハウ』というところにリアリティがあるでしょう?
関係ないけど、『ダッハウ収容所から釈放されたユダヤ人がパレスチナのスパイをする』話の『ダッハウから来たスパイ』(ハヤカワ)は面白かった。

(注5)Eタイプ……S青年ことK氏もこのEタイプだった。

(注6A)……SPSSはパンチカードを使った(!)、心理学における数的電算処理方法、心理学測定法はその名称のごとく測定を行なった際の数的処理方を学んだ。ともに高度な(少なくとも私にとっては)数学能力を要したので、文系出身の多い心理科の人間は途方にくれたものだ。

(注6B)……それでも、この時点になるとかなり志願者は減っていた。また、ゼミに入った後になると「どのゼミも大差ない」ことに気がつくのである。逆にO先生はとても忙しい人で、他のゼミの方が教授の面倒見が良いという側面に多分にあったのである。

(注7)……現在もなお、何をやっていたのかわからない。





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