金剛一万二千峰・資料室
(人物編)



群馬県沼田市・沼田公園にある
久米民之助氏の胸像


ここでは、当ホームページのあちこちで名前が出ている
金剛山に関わりの深い人々を紹介したいと思っています。
紹介は現在金剛山の所属している北朝鮮の人
それから韓国の金剛山観光に活躍している人、
最後に戦前、金剛山観光に尽力した日本人を紹介したいと思います。


朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の人

金日成(キムイルソン)
金正日(キムジョンイル)
金容淳(キムユスン)


大韓民国(韓国)の人

金大中(キムデジュン)

鄭周永(チョンジュヨン)《1915−2001》
 現北朝鮮江原道通川郡・松川に生まれる。通川郡には叢石亭があり、広い意味で金剛山地区に入っている。1930年松川小卒、1938年キョンイル商会設立。実業界に身を投じ、1939年結婚。1940年アドサービス工場設立し、1946年4月、現代自動車設立。1947年現代土建設立。1950年には現代自動車・現代土建両社合併により現代建設株式会社設立。
 朝鮮戦争を経て戦後復興や京仁(ソウルー仁川)、京釜(ソウループサン)高速道路建設などで会社は急成長、1971年には現代グループ会長となり、韓国有数の財閥の長となる。
 1989年には北朝鮮を訪問し金日成主席と面談、金剛山開発などについて話し合い、『金剛山共同開発意向書』を締結。1992年には統一国民党を結成し、国会議員に当選。第14代韓国大統領選に出馬するも落選。その後大統領選の際の選挙違反容疑で起訴され、有罪判決を受ける。
 1998年6月、板門店を経由して牛500頭とともに北朝鮮を訪問、金剛山観光開始で合意。同年10月、再び牛とともに北朝鮮を訪問し、金正日国防委員長と初めて面会する。1998年11月18日、金剛山観光船が初出航する。1999年2月、現代グループ内で対北朝鮮事業を行なう現代峨山株式会社を設立する。
 2000年3月、自身の後継者問題で息子たちの争い(王子の乱)が発生、5男の鄭夢憲氏を現代グループ新任会長に指名。同年7月頃から健康状態が悪化、2001年3月死去。

鄭夢憲(チョンモンホン)《1949〜2003》
 鄭周永氏の5男としてソウルに生まれる。1973年延世大学卒業、79年延世大学大学院卒。1975年に現代重工業に勤務を始めたのを皮切りに、現代グループの各社の役職を歴任。その中で1981−88年に現代商船の社長、1988年には現代商船の副会長となる。1995年には現代商船・現代建設の会長となり、現代グループの副会長となる。
 父の開始した金剛山観光を始めとする対北朝鮮事業に積極的に取り組み、1999年2月に設立された現代峨山には会社設立当初から理事として参加する。2000年3月に勃発した現代グループの後継者争い、いわゆる『王子の乱』では兄の鄭夢九氏と激しく争い、結局現代グループの後継者となることに成功するも、グループ1の有力企業であった現代自動車が、鄭夢九氏とともに現代グループから離れてしまうことになった。
 2000年6月、現代峨山理事会会長に就任、金剛山観光を始めとする対北朝鮮事業を先頭に立って推進し、同じ月、ピョンヤンで行なわれた南北首脳会談では韓国代表団の一員にも選ばれた。が、金剛山観光事業の巨額の赤字など、対北朝鮮事業は事業としては不振を極め、更に首脳会談直前に行なわれた『対北朝鮮ヤミ支援』問題では、送金側疑惑の中心人物とされ、様々な心労が重なったあげくに2003年8月4日、飛び降り自殺をする。


金潤圭(キムユンギュ)


日本の人

久米民之助 《1861−1931》
 群馬県沼田市に生まれる。1876年上京し、慶応義塾ー工部大学校(後の東京大学工学部)に学ぶ。卒業後はまず豪商、高島嘉右衛門の土木工事を助けた後に宮内省に入り、皇居二重橋の設計・造営に当たった。その後大倉喜八郎経営の大倉組に入った後に、中国・欧米諸国の視察旅行を行い、最新の土木技術の見識を深めた。1900年に独立し、久米工事事務所(後の久米合名会社)を興し、日本・朝鮮半島・台湾の鉄道工事中心の土木工事を手がけた。また、煙草製造販売・台湾製氷株式会社の創設・生命保険会社の経営に参画など手広く事業展開をして、実業家として大成功を収め、巨万の富を手に入れた。そのような中、1898−1903年の間、群馬県選出衆議院議員を連続4期勤めた。
 1918年4月、朝鮮半島のソウルから金剛山地域を視察して、金剛山地区の観光開発・水力発電などが事業として前途有望であると判断し、1919年12月に金剛山電気鉄道株式会社を創設、初代社長となる。金剛山電気鉄道の建設・経営に尽力するとともに、金剛山最高峰の毘盧峰を越える登山道『久米越』の整備、金剛山地区の開発・観光の振興を目的とした半官半民組織の『金剛山協会』創設に努力するなど、金剛山開発事業に情熱を注ぐ。
 なお、久米民之助氏の長女、万千代の夫は東急グループ創設者の五島慶太。ちなみに東急グループ2代目で、日本商工会議所会頭になった五島昇は久米民之助の孫にあたる。長男民十郎は画家となったが、関東大震災で若くして世を去った。若くして亡くなったこともあって長い間無名であったが、日本シュールレアリズムの先駆けとして最近注目を集めている。次男権九郎は建築家となり、軽井沢万平ホテル・日光金谷ホテル別館など現在でも評価の高い建築の設計を行うなどその才能を存分に発揮、日本の近代建築の大家のひとりに数えられている。


馬越恭平
古川阪次郎




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