2002年10月の金剛山


 連日様々な出来事が起こる昨今の朝鮮半島情勢を反映して、金剛山観光を始めとする金剛山の情勢は日々変わっているようです。
 この10月19日〜21日の間に金剛山ツアーに参加された方より、最新の金剛山観光や金剛山地区の情勢をお聞きすることができました。大変に興味深い内容が多いので、ここで紹介したいと思います。


10月19日〜21日の金剛山は雨模様で、天候は悪かったのですが、紅葉の九竜淵は素晴らしかったそうです。

〜金剛山観光・金剛山の現状について〜

(1) 9月はじめの台風15号の影響による被害。

A:温井閣へ入る手前の、温井川にかかる橋の一部、及び橋の付け根の道路の基礎部分が崩落し、現在、川の中に仮設された道路を迂回利用している。
 3日目の昼に、地元住民が20名ほど出て、補修作業をしていたのを目撃。しかし、重機などはなく、礎石の積み上げ、土盛りなど、すべて手作業であり、昼食後、船に向かって、ふたたびそこを通ったときには、作業する人は帰ったのかだれもいなかった。台風後ひと月以上たっているが、修復作業は遅々として進んでいない模様(突貫工事で取り組んでいる様子がうかがえない)。
 なお、行きの雪峰号には、重機が積んであった。(使用目的は不明)

B:温井閣から温泉場に向かう途中、川をわたるところで、道路(あるいは橋)が流出した模様。
 以前の道路の状態は知らないので比較はできないが、川の部分は、かなりのがたがた道であった。

C:海金剛は当面、観光できず、三日浦のみの観光となっている。ガイドの説明では、台風の豪雨により、地雷が海金剛方面へ流出して危険なためと話していたようだが、詳細確認をしておらず、未確認情報。


D:万物相コースにも、影響が出ている模様。
 3泊4日コースは催行されているので、コース全体が中止になっているのではないようだ(未確認)。万物相コースを希望予定の方は、事前に確認が必要。


(2) 九竜淵コースは、海金剛観光が中止されているが(そのかわりにか)「金剛山旅館」見学がおこなわれている。

 南北実務者会議、離散家族の面会で利用される金剛山旅館の敷地内にバスが入り、敷地内でバスを降りて、金剛山旅館で一番大きな建物(12階建て)を外から見学する。
 なかに、ホテルの従業員がいて、バスが敷地を離れるとき、窓越しに手を振っているのが見えた。ホテルの稼働率は低そうに見える。
 また、敷地内には、子供たちに囲まれた金日成「将軍」の看板絵、それと「偉大なる将軍様の領導のもと、この地に強盛大国を建設しよう」という文字看板とがあり、それぞれのまえで、観光客が記念写真を撮ることが出来た。敷地内では、写真撮影に制限はありませんでした。(建物の中には入れません)
 ちなみにこの方も建物・金日成「将軍」の看板絵・文字看板を撮影されたそうです。
 ところで、日本統治期の金剛山温泉の写真をみますと、現在の金剛山旅館の一角、もしくは「北朝鮮が作った金剛山温泉の建物」あたりに、朝鮮総督府鉄道局経営の「ホテル」(外金剛山荘)があったように思われます。(注1)


(3) 東海北部線、道路の連結工事について。
A:鉄道工事は、あまり進んでいない模様。
 休戦ライン付近の状況は不明としても、金剛山青年駅から高城駅方面への軌道敷は、なんら手付かずの状態。レールも枕木もないもと軌道敷(補強が必要だろう。土台が相当弱っている)のうえを地元民が道路代わりに歩いている。資材も運びこまれていない。(注2)
 三日浦のバス駐車場から前方に、川にかかった北部線の鉄橋げたの周辺で作業をしている様子が見えたが、重機類はまったくなく、工事を進めているようには見えない。鉄橋のうえには、板が掛けれられており、軍人風の人たちがいた。

B:道路について。
 ガイドさんの話では、道路が開通すれば、「かん(木偏に干)城」から「金剛山」までの、日帰り旅行も始めるとのこと。観光客が5倍になると予想している。


(注1):外金剛温井里にあった朝鮮総督府鉄道局経営のホテルは、温井里ホテルまたは外金剛山荘と言われていた。金剛山温泉で名高い地のホテルらしく、温泉内湯があったようです。問題の場所なのですが、財団法人金剛山協会発行の、『金剛山探勝コース図』(1939年)と現在の地図を比較してみても、朝鮮総督府鉄道局経営のホテルと現在の金剛山旅館の場所は、極めて近くないし全く同じ場所であると思われます。
 また内金剛にも朝鮮総督府鉄道局経営のホテルがあり、こちらは長安寺ホテルまたは内金剛山荘と言われていました。
(更に注記):その後、戦前の温井里ホテルの写真と現在の金剛山旅館を、ほぼ同じ場所から撮ったと思われる写真を入手しました。それによれば、温井里ホテルは現在の金剛山旅館よりもかなり山に近い場所にあったようで、金剛山旅館はどうも旧温井里の集落の中心部の跡に建設されたもののようです。

(注2)この金剛山青年駅から旧高城駅方面への日本統治時代の軌道敷の様子は、のりまき・ふとまきの2度の金剛山旅行時と全く変化ありません。

(2003・10・26 最終加筆)


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